妻の家出 グレゴリオス視点
グレゴリオス視点です。
時間は前話より数時間前の、結婚記念日前日の朝です。
三度目の結婚記念日とアリィーの誕生日を明日に控え、パーティー会場の装飾は最後の仕上げに取り掛かっていた。
「その装飾はもっと淡い色の方がいい。彼女は淡くて可愛い色合いが好きなんだ。色を変えてくれ」
「はいっ」
細部まで完璧に整えるため、俺は使用人へ次々と指示を飛ばし、執務室へ戻った。最近は執務の合間を縫ってこの準備に追われ、アリィーの部屋に行く時間を削らざるを得なかったが――すべては彼女の笑顔のためだと思えば我慢できた。
一度目の結婚記念日は、彼女が俺に秘密で結婚記念パーティーを準備してくれた。サプライズというやつだ。使用人たちに彼女の動向を逐一報告させているため、すべて筒抜けだったが……こそこそと準備している姿が可愛らしくて、気付かないふりをして見守った。
二度目は、パーティーと共に手作りのペン立てを贈ってくれた。木の筒にお気に入りの模様紙を不器用に貼り、下の方に淡い色の紙を重ね、そこに短い詩を添えていた。
『群れる花々の中で
あなたがわたしを照らしてくれたから
ここに咲けた
――あなたのナタリーより』
こんな贈り物を思いつく彼女は、やはり特別だ。詩も素晴らしいが、何よりも結びの『あなたのナタリー』という言葉に、俺は歓喜した。貼られた紙はところどころしわが寄り、少しずれていた。そのいびつな出来映えすら愛おしく、それは彼女の手ずからの温もりを宿した唯一の贈り物だった。
「執務で使ってね」と渡されたが、とんでもない。万が一にも壊してはならない。壊れぬようガラスケースに収め、大切に俺の部屋に飾ってある。
彼女のような完璧な贈り物は難しいが、俺なりに彼女を喜ばせようと努力してきた。
今年は「お祝いをしなくていい」と落ち込んでいた彼女を、どうしても笑顔にしたかった。だから、彼女には秘密でサプライズパーティーを計画したのだ。使用人たちにも、秘密厳守を徹底させた。
パーティー会場は俺の執務室の隣の部屋にして、わざわざ改装した。内装にも徹底的にこだわった。壁や天井はライトブルーで、床にも同じ色のカーペットを敷き、この部屋を空に見立てた。天井にはレースを吊り下げて雲に見えるようにした。この幻想的な部屋を、きっと彼女は気に入ってくれるだろう。あわよくば今後、彼女の執筆部屋にしてもらえればと思っている。そうすれば、執務の合間に、今まで以上に彼女を見に行くことが出来る。楽しみが募り、何度も彼女に打ち明けそうになっては、必死に耐えた。彼女も今まで、こんな思いで俺に秘密にしていたのかと思うと、なおさら愛しくてたまらなかった。
この三年、残念ながら子を成すことはできなかった。だが、王家の分家ということもあり、我が家は子に恵まれにくい家系なのだ。竜人の血筋ゆえかもしれない。どうしても子に恵まれない場合は、親戚から養子を迎えることも選択肢にある。ただ、まだそこまで話が進んでいないため彼女には伝えていない。とはいえ、子どものことで気に病んでいる様子を見ると、そろそろ養子について話し合う時期かもしれないと考えていた。
そんな彼女は最近、何を思ったのか社交をしたいと言い出した。あんなに社交を嫌がっていたというのに。
彼女が他の誰とも交流しないことに喜びと安心を感じていた俺は、どうにか思いとどまらせたかったが、押し切られてしまった。彼女の魅力に気付いた男どもが群がるのではないか。彼女は俺以外の男に笑顔を向けるのではないか。そんな不安を彼女に知られるのが怖くて、心の奥に押しとどめた。
案の定、初めて参加した猟会で彼女は、女好きで有名な侯爵令息に言い寄られていたのだ。まさに腸が煮えくり返る思いだった。俺の妻に言い寄るとはいい度胸だ。死ぬ覚悟くらいはあるんだろう。一発殴っただけで済んだことを幸運に思え。もちろん、その後に父上と連名で侯爵家当主に抗議文を送った。奴の父はこの国の宰相だ。王家はウィンターガルドと事を構える覚悟があるのか、と仄めかしておいた。これで奴もしばらく大人しくなるだろう。
その後、彼女は母上と参加した茶会で、大きな失敗をして落ち込んで帰ってきた。母上に詳しく聞くと、無邪気に俺との仲を自慢したらしい。それで夫人たちの嫉妬をかったのだ。
(なんて……なんて可愛らしいんだ! 俺の妻は!)
俺の方こそ、全世界に自慢したい。だがしない。彼女が可愛いと知られてはいけないからな。それを知っているのは、俺だけでいい。
何を反省する必要があるのか分からないが、彼女はひどく落ち込んだようで数日間寝込んだ。俺とも顔を合わせてくれなかった。彼女と離れて眠るなんて、三年ぶりだった。いつの間にか彼女は、一人寝を克服していた。それは喜ばしいことのはずだが、彼女が隣にいないと、俺は空虚だった。
そして数日ぶりに彼女に会えると浮かれた昨夜。予想外の展開を見せた。
(……アリィーに、とうとう知られてしまった)
『優しいふりをしてるだけで、リオスの保身のためなんじゃないの?』
言い当てられて、胸の奥を突かれた気がした。
その通りだった。社交をしなくていいと彼女に言い聞かせていたのは、何も彼女のためだけではない。彼女に世界を広げてほしくなかった。俺以外の誰かと話してほしくなかった。俺以外を見てほしくなかった。彼女が社交を厭っているのをいいことに、俺は自分の醜い欲を優先したのだ。身勝手で恩着せがましい俺の保身を、とうとう知られてしまった。
『……聞いたわ。愛人って……なんなの?』
茶会で噂を耳にしたのだろう。あるいは、口止めしてたが母上が我慢できずに伝えたのかもしれない。
以前から俺には「紫髪の愛人がいる」という噂があった。
もちろん、それはアリィーの変装姿だ。
彼女は俺との外出時はいつも紫髪のかつらをかぶり、変装して出かけていた。その姿を見た者が、妻ではなく愛人だと勘違いしたのだ。
社交界では、アリィーは夫から顧みられない妻だと囁く者もいるという。事実は違うのだが、母上からも苦言を呈されていた。妻を愛人呼ばわりさせるとは何事だと。きっとアリィーもその噂を聞いて、不快に思ったのだろう。俺が自分の欲を優先して、アリィーを連れまわしたのがすべての元凶であり、素直に謝罪するしかなかった。
『嫌に決まってるでしょ!』
アリィーはこの噂を嫌がったため、もう二人で外出することはできない。
噂を払拭するには、彼女自身が社交界に出るか、あるいは俺と一緒に外出するのをやめるかしかない。それは前から分かっていたことだ。
だが俺は、どちらも嫌だった。そして決断を先延ばしにした。俺は都合のいい部分だけを選んで、子どものように甘えていたのだ。そして、その身勝手さすら彼女に知られてしまった。
胸を裂かれる思いで「では、これからは君の外出は、なしだな」 と口にした。彼女はショックを受けていたが、仕方がない。一度猟会につれていっただけで男から口説かれたんだ。彼女を社交界に出したら俺の心がもたない。
『平民の人の話を……聞いたけど……本当なの?』
……そこまで知られてしまったのか。
アリィーと二人、平民の装いで街へ出かける際、俺は彼女に嘘をついた。
「平民の恋人たちは、人前でも密着して歩くものだ」と。
わざわざ男女の護衛に「周囲で密着して見せろ」と指示までした。それを見た彼女は「そういうものだ」と信じ、人前で俺に触れられることを許した。浅はかな俺は、ここぞとばかりに彼女に触れ続け、平民の装いで外出することを進んで選んだ。
そんな外出時の様子を、領民たちが噂していたようだ。どうやら、俺の変装は見破られていたらしい。
少しずつ噂は広がっていった。
その時に、アリィーに相談するべきだった。
だが、外出で楽しそうにする彼女を見ると、俺は何も言えなくなった。それが、アリィーにとって不名誉な噂に繋がった。
彼女は、人前で触れるのを嫌ったのに、彼女を騙してまで触れたのは間違いなく俺が悪い。だが、彼女に触れたくて、どうしても抑えられない時があるのだ。そう伝えると、彼女は激怒していた。
『最近、忙しそうにしていることと関係があるの?』
一瞬焦った。まさか、俺がサプライズで結婚記念日パーティーを計画していることに気付いているのか?
彫刻師に彼女の像を彫らせ、贈り物にしようとしていることまでは知られていないだろうな?
その奇跡のような美しさを後世に残すため、極秘で進めている計画だ。冷や汗をかきながらも口を割らなかった俺を、誰かに褒めてもらいたいくらいだった。
その後、虫の居所が悪かったのだろう。彼女は「今夜も一人で寝る」と自室へ行ってしまった。今夜こそ一緒に眠れると思っていたのに、彼女は去ってしまった。俺は絶望の中で、ひとり眠りについた。
最近の彼女は、一人で眠れるようになり、俺は落ち込むばかりだった。このままでは、仕事に同行してくれなくなるのではないか。彼女が一人で眠れないことを口実に、王都や地方へと連れ回してきた日々が遠のいていく。片時も彼女と離れたくないというのに。
いや、ある程度、仕事の目途はついた。これからは公爵領で過ごすことにしよう。きっと彼女は領地での生活を望むだろう。ならば、俺も共に在ればいい。
今、彼女は子を持てぬ不安に苛まれている。明日の結婚記念日には、養子の話を切り出そう。気に病む必要などないと伝えよう。そして、これまで自分勝手に行動していたことを謝罪しよう。大らかな彼女なら、きっと受け止めてくれるはずだ。
どちらにせよ、まずは結婚記念日の祝いを成功させねばならない。今は何よりも、それが第一だ。
そう考えていた矢先、執事見習いのベルンハルトが片手に紙を持って、真っ青な顔で執務室に駆けこんできた。
「グレゴリオス様! 大変です! 若奥様が……部屋から消えました!」
「……は?」
その言葉は、到底信じられるものではなかった。彼女には侍女も護衛も複数つけていたはずだ。どういうことだ。
「書き置きが残されていて……『家出する』と……」
「……なんだと?」
地を這うような低い声が出た。ベルンハルトの手からアリィーの書き置きを、ほとんど奪うようにして開いた。
『家出します。
離縁はしません。
リオスが大好き。 ナタリー』
「……え?」
目の錯覚かと瞬きを繰り返し、思わず目を擦った。だが、錯覚ではなかった。
『家出します。』
なぜ家出する必要があるんだ?
『離縁はしません。』
どこから離縁が出てきたんだ?
『リオスが大好き。』
大好きなら出て行く必要はないだろう?
三度ほど読み返した。
だが、理解できなかった。
それでも彼女がいなくなったことは事実。
この文字は確かに彼女の字だ。
この突拍子もない文章も、いつもの彼女だった。確かに彼女の意思で出て行ったのだろう。
だが、一人で外に出るなど危険すぎる。公爵家には何度も刺客が送り込まれていた。怖がらせたくなくて彼女には伝えなかったが、それが裏目に出てしまった。標的はその時々で違うが、彼女もその中に入っている。護衛もつけずに一人で出て行くなど自殺行為だ。
急いで執務室の壁に設置していた黒い魔道具を手に取った。それは軍事用の緊急通信具であり、使用を許されるのは公爵家の当主と後継者だけだった。
「次期公爵夫人ナタリー・ウィンターガルドが何者かに連れ去られた可能性がある。即座に港と、領外へ繋がる街道を封鎖しろ。外に出る者は一人残らず止めろ! 怪しい者は容赦なく拘束し、通行人や宿泊施設も全て調べ上げろ。そして、俺の妻を――ダークゴールドの髪、茶色い目の女性を必ず保護しろ!」
『は、はいっ!』
アリィー、君は何を考えているんだ。
昨日の話し合いのせいか?
世間に愛人と勘違いされていることや、俺が嘘をついていたことが許せなかったのか?
それとも……俺の執着に、とうとう嫌気がさして離れたくなったのか?
俺から、簡単に離れられると思っているのか?
――絶対に、逃がさない。
作者的には、グレゴリオスはヤンデレではないつもりですが、そう捉える方もいるかもしれないので「やっぱりヤンデレかも」というタグを追加しました。