話し合い
馬車が公爵家に着くと、使用人たちが安堵したような顔で迎えてくれた。
しかし、リオスに抱き上げられ、土まみれで怪我までしている私を見た途端、侍女たちは顔色を変え、大慌てで駆け寄り世話をしようとした。
「必要ない。侍医を呼べ。来たら伝えろ。しばらく俺の部屋に誰も入れるな」
低く冷えた声に、使用人たちは凍りついたように動きを止める。
その鋭い空気に私も思わず息をのんだ。
部屋に入ると、彼は無言のまま私をソファに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。いつもより、距離が遠かった。
そのまま、お互いに口を開くこともなく、時間だけが過ぎていった。
沈黙の中、目についたのはガラスケースに入った歪なペン立てだった。私は苦々しい気持ちでそれを見つめた。
結婚二年の記念に、私が彼へ贈った手作りの品だ。
張り切って作ったものの、不器用なせいで出来映えはお世辞にも良いとは言えなかった。考え直して既製品を買おうとしたとき、侍女たちに「手作りがいいと思います!」「若旦那様はきっとお喜びになります!」とおだてられ、気を良くしてそのまま渡してしまったのだ。
でも結局、使ってもらえなかった。
使いやすいようにと筒の中に仕切りまで作って工夫したのに……。彼はこれを執務室ではなく、自室に飾っている。やっぱり見栄えが悪くて、執務室では使いたくなかったのかな。誰にも見られないように、飾るふりをして、私以外はほとんど誰も入らないこの部屋に置いているのかもしれない。
きっと、私も同じだ。
私を妻として外に連れ歩くのは恥ずかしかったのかもしれない。
それで、彼は変装した私しか連れて行かなかったのだ。
何年経っても礼儀作法を身につけられず、まともに社交もできない。
だから、リオスに愛想をつかされたのだ。
沈黙を破ったのは、私だった。
「……いらないなら、言ってくれたらよかったのに」
「何の話だ?」
「このペン立てもそう。私もそう。わざわざ飾って、大切そうに置いておかなくても良かったのに」
「……それは、社交がしたかったという意味か?」
「え? そういう意味じゃなくて……」
「では、もっと外に出たかったと?」
「そういう話じゃないでしょう」
「君の名誉を傷つけたことと、君が嫌がると知っていて外で触れたことは謝る」
「……」
会話がまるでかみ合わない。
彼はいったい、何の話をしているのだろう。
こんなに会話が成り立たないことは初めてだった。
私たち夫婦は、この三年間、仲良く暮らしてきた。
けれど、大事な話をしたことがあっただろうか……?
思い返してみれば、いつも他愛ない会話ばかりだった気がする。代わり映えのしない私の日常を、嬉しそうに聞いてくれる彼が好きだった。……それがいけなかったのだろうか。
「だが、冗談であっても離縁だなんて言葉を使わないでくれ。それに出かけたい時は必ず護衛を――」
「え……? リオスが離縁したいんじゃないの?」
「何を言っているんだ。俺がいつ、そんなことを言った?」
彼の声は、困惑に満ちていた。
離縁したいんじゃなかったの?
愛人はどうするの?
なぜ最近、冷たかったの?
何を隠しているの?
聞きたいことは山ほどあるのに、うまく言葉が出なかった。
けれど、もう逃げられない。
彼と夫婦を続けるにしても、やめるにしても、話し合いを避けては通れない。意を決して、核心に触れた。
「……でも」
ずっと胸の奥に引っかかっていた言葉を口にした。
「……でも、愛人がいるんでしょ」
その一言で、彼の身体がぴたりと止まった。
「……は?」
低い声。信じられない、と言わんばかりの表情だった。
「どういう意味だ。……愛人は君だ」
「な、なんですって!? 私を妻から愛人に降格させるっていうの!? 浮気だけじゃなく、私をないがしろにして……っ、許せない!!」
ということは――愛人を妻にして、私を愛人にするつもりなの!?
もしかして、面倒だから私の籍はそのままで、ここにいろということ!?
まさか……愛人をこの家に呼び寄せて住ませるつもりじゃ!?
……なんて勝手なの!!
私は我慢ならずに彼の腕を掴んで揺さぶろうとした。だが、がっしりとした体は大きくて重く、びくともしない。彼は私の手首にそっと触れ、戸惑ったような声を出した。
「浮気? なんのことだ。……ちょっと待ってくれ、何かがおかしい」
「おかしいのはあなたよ! 自分で認めたんじゃない、浮気してるって!」
「……認めた? 俺が?」
「そうよ、平民の愛人がいるって言ったわ!! 結婚記念日に離縁を突きつけるつもりなんでしょ!」
泣き腫らした目で必死に訴える私を見て、リオスは言葉を失った。
しばらく黙り込み、やがて重くため息をつく。
「……ああ。そういうことか」
彼は力が抜けるように顔を覆ったまま、呻くように呟いた。
「なに? どうしたの、大丈夫?」
「……なぜ、そんな勘違いになるんだ」
「え?」
「アリィー。ゆっくり話をしよう。俺たちは――話し合う必要がある」
「え、ええ……そうね」
彼が使用人を呼ぼうとしたちょうどその時、侍医の到着が告げられた。
侍医は私の足首を診て、「軽いねん挫です。数日安静にしていれば治るでしょう」と穏やかに言った。
ひんやりとした薬草の香りが漂い、包帯が巻かれる感触に、ようやく少しだけ体の力が抜けた。
その後、彼が使用人にお茶を淹れさせ、二人の話し合いが始まったのだった。