落とし穴
――家出を、舐めていた。
窪地の土に大の字で寝そべり、真上の青空をぼんやり見上げる。
途中まではうまくいっていたはずなのに、もう動けない。足を痛めてしまった。
ここは、公爵家の邸宅と領都フォルネアの中間地点。だけど、いつも馬車で通る道ではない。だから人通りがない。私がここにいることに、誰も気づかない。
(このまま、誰にも見つけてもらえずに死ぬのかも)
家出して、怪我して、人知れず死ぬなんて。間抜けにもほどがある。
(……どうして、こんなことになったんだっけ)
***
リオスから離縁状を突きつけられるくらいなら、逃げてしまおうと決意した。
離縁状には本人の署名が必要だ。私がいなければ、永遠に離縁はできない。愛人と再婚なんて、させてあげない。精いっぱいの抵抗だ。
公爵家に居座ったまま署名を拒否してもいい。けれど、彼に別れの言葉を直接ぶつけられるのは耐えられない。決定的な言葉を聞いてしまったら、心が死ぬ。
(あっ、「心が死ぬ」っていい表現。小説で使えるかも)
小説のネタ帳を取り出して、急いでメモを取った。「ピンクローズ」の名義では、もう書けないかもしれない。小説の担当者との窓口がマダムだからだ。私がピンクローズであると証明できるものはない。また、コンテストから出直さなければならない。だから、ネタはいくらあってもいい。
まずは、お気に入りの筆記用具と紙を鞄に詰め込む。部屋にあった日持ちしそうな菓子も押し込んだ。だが服は、かさばりすぎて諦めた。
しまった、現金がない。いつも支払いはリオスや使用人任せだから、現金を持たせてもらっていない。
考えた末、宝石類を引っ張り出して吟味した。これを売って現金化すればいい。遠慮なく、鞄に入るだけ放り込む。気分は泥棒だ。
(浮気の慰謝料にもらっていきます!)
クローゼットから変装用の侍女服を取り出した。これなら動きやすいし、領都に出ても目立たない。領都フォルネアまでは馬車で三十分ほど。徒歩なら一時間はかかるだろう。フォルネアに着いたら、乗合い馬車で実家へ戻ろう。……いや、実家はだめだ。ウィンターガルドの兵士がエーベル男爵領を守ってくれているらしいから、すぐに連れ戻されてしまう。……どこへ行けばいいんだろう。
頼れる友達は、今でも手紙のやり取りをしているサーシャくらいしか思い浮かばない。でも、サーシャを巻き込みたくない。
実家もだめ。友達を頼るのもだめ。気づけば、行き場なんてどこにもなかった。
(適当に乗合い馬車に乗って、着いたところでしばらく暮らしてみよう)
行き当たりばったりだが、縁もゆかりもない場所なら見つかりにくいだろう。宝石がいくらになるか分からないけれど、これだけあれば当面は何とかなる。また小説を書いて仕事すればいい。
一応、心配させないように書き置きを残していこう。攫われたとでも勘違いされたら大変だ。自分の意志で出て行ったと分かるようにしておく。こんな時にも配慮を欠かさない自分を称賛したい。
(えっと……)
「浮気男に鉄槌を……いや違う、これじゃ呪いだわ。信じていたのに……ううん、湿っぽすぎるか」
まず伝えたいのは、自分の意志で出て行くこと。離縁は受け入れないこと。
「……家出します。離縁はしません。……リオスが大好き……」
書きながら涙が止まらなかった。
そう、私はリオスが大好きだ。だから、離縁はしたくない。そのために家出をする。
書いた文字は見ないようにして、足早に寝室の本棚に向かった。家出には、いざという時用の隠し通路を使う。
教えられた手順通りに本を動かす。すると、本棚がゆっくりとずれ、奥から隠し扉が現れた。ごくりと唾をのみ、一歩踏み出す。最後に振り返り、寝室を見渡す。この寝室を使ったのは、この数日間、引きこもっていたときくらい。普段は夫婦の寝室で、毎日彼と一緒にいたからだ。
愛されていると思い込んでいた。
でも違った。愛していたのは、私だけだった。
この三年間は、なんだったのだろう。胸が空っぽになる。
(さよなら、リオス)
本棚を元の位置に戻し、私は通路を進んだ。
通路を抜けて内側の鍵を開けると、そこは古びた礼拝堂だった。どうやら公爵家の裏手に出たらしい。遠回りになるが、主要な道を避けて領都フォルネアに向かえばいいだろう。
十月でよかった。気持ちの良い風が吹き抜ける。今日は天気が良いし、絶好の家出日和だ。
公爵家は高台にあり、フォルネアまで見渡せる。屋上に立てば公爵家に近づく者の動きまで見える設計なのだろう。
まだ出て行ったことに気づかれていないはずだが、少し早足になった。
しばらく歩いていると、公爵家の向こうから、地響きが近づいてきた。
「なに、この音!?」
地面が揺れるような『ドドドド』という音と振動。怖くなって近くの木の陰に身を隠した。
やがて、馬に乗った兵士の群れが、フォルネアへと突進していった。
――あれは、ウィンターガルドの軍!?
鬼気迫る勢いだ。え、なに、戦でも始まるの?
「え、今フォルネアに行くのってまずい? どうしようっ」
最悪のタイミングで家出をしてしまった。でも実家までは歩いていける距離じゃない。とりあえずフォルネアまで行って、乗合い馬車がなければ馬を借りたい。宝石と交換で買ってもいい。でも、身元不明の怪しい侍女が「宝石と交換で馬を」なんて言って、まともに相手してもらえるんだろうか。しかも、戦場の真っ只中かもしれないのに。
「と、とにかく急がなきゃ!」
私は走った。とにかく走った。全力で、フォルネアに着くまで――。
……なんてことは到底無理だった。公爵家で甘やかされ、部屋で執筆三昧だった身体はなまっていて、すぐに息が上がる。減速しながらも、根性だけで足を前に踏み出した。
そこには、地面があったはずだった。
確かに地面に踏み込んだ。
だが次の瞬間、足元が崩れ、身体が吸い込まれるように沈んだ。
草で覆われた窪地――巧妙に隠された落とし穴だった。
(う……うそでしょ!? 誰よ、こんなところに落とし穴を仕掛けたのはっ!)
落下の衝撃で右足首がねじれ、関節の奥で鈍い痛みが走った。立てないわけではないが、体重をかけるとズキンと痛む。
しかも、周囲を見渡しても足場になりそうな岩も、もちろん梯子のような道具もない。そしてここは、まるで人の手で掘られたかのようにきれいな窪地だった。深さは私の背丈ほどある。片足をかばうせいで踏ん張りがきかず、指先で頭上の土を掴んでも、腕力だけでは登れそうになかった。
公爵家の周囲だから、不審者対策の罠なのかもしれない。……でもそんなの、あるなら教えておいてくれなきゃ困る。これが有事の逃走だったら、敵兵に捕まっているところだ。
這い上がることを諦めた私は、窪地の底の土に大の字で寝そべり、空を見上げた。
足を痛めてしまった私は、もうここから這い上がれない。
「はぁぁ……。もう誰かが来るのを待つしかないか」
とんだ間抜けである。奥の手の隠し通路まで使ったのに、こんなところで家出終了だなんて。
「……」
十月とはいえ、今日はすこぶる良い天気で日差しが強い。
少し暑くなってきた。喉が渇き、鞄から水筒を出そうとした。だが、なかった。
(……水筒……持ってきたっけ?)
鞄の中には、日持ちする菓子がぎっしり。……でも、水は一滴もない。いつも侍女が用意してくれるから、気にも留めなかったのだ。
「バカすぎるーーー!」
水さえあれば、三日は生きられるという。逆に水がなきゃすぐ死ぬって聞いたことある。私は足を怪我して動けない。……完全に詰んだ。
涙が出た。水分を無駄に使えないのに。自分のバカさ加減と、「なんでこんな苦労して家出しなきゃいけないのよ、公爵家の馬車で実家まで送ってよ!」という苛立ちと、「でもそうするとリオスから離縁宣言を聞かなきゃいけなくてやっぱり嫌!」のループ。
よく考えたら、別にこっそり出なくても良かったのでは。
普通に公爵家の馬車に乗って、当然のような顔で「エーベル男爵家の実家へ」って言えば良かったのでは。
たまに一人で外出したいと言うと大騒ぎになるから今回もそうだと思ったけれど……もう明日離縁されるんだから大丈夫だった気がする。
雲一つない青い空を見つめながら、そっと右足を動かしてみる。やはりズキンと痛みが走った。右足首のあたりがじんわり熱を持って、触れると少し腫れていた。無理をすると悪化しそうな気がする。ここで体力を温存するのが良さそうだ。
「家出を、舐めてたなぁ」
(……このままここで誰にも見つけてもらえずに死ぬのかも……)
無駄に水分と塩分を垂れ流していると、ガサガサと音がして、上から顔がのぞいた。
「……は? アリィー……?」
リオスだった。
今、一番見たくない顔。
家出の書き置きまで残したのに、すぐに見つかるなんて。恥ずかしすぎる。
……けれど、そんな羞恥心も吹き飛んだ。
リオスの表情は今まで見たこともないほど険しく、眉間に深い皺が刻まれ、怒りを必死に押し殺しているのが見て取れた。周りには兵士がずらりと控えている。
(も、もしかして、戦に出るところだった……?)
先ほど駆けていった兵士たちに続いて、大将のリオスが出てきたところに、間抜けな格好で転がっている妻を見つけてしまったのだろう。お互い不幸すぎる。
「どうしてこんなところに……。この穴はなんだ」
「……」
返す言葉もなく口をつぐんだ。私が聞きたいくらいだ。どうして私はこんな場所で寝そべっているのか。この穴は一体なんなのか。どうやら公爵家の落とし穴でもないらしい。
「怪我をしているのか?」
「……うん」
彼は兵士に短く命じると、縄が下ろされ、自ら窪地に降りてきた。
「……足か?」
「うん」
「他は?」
「大丈夫」
彼は私の足を軽く動かして痛みを確かめると、そのまま片腕で私を縦に抱きかかえた。
「今から上に引き上げる。俺にしっかり掴まっていろ」
私は彼の首に手を回した。自然と顔が近づき、至近距離で目が合う。見慣れているはずなのに、息が止まるほど緊張する。もう、こんな間近で見ることはないと思ったから。
思わず目をそらす。すぐに、小さなため息が耳に届いた。
彼は兵士が持ってきた木箱を踏み台にして、私を抱えたまま片足をかける。兵士の手を取り、易々と駆けあがった。私の背丈ほどもある窪地からの脱出は、私ひとりでは、怪我をしていなくても難しかったかもしれない。……見つけてもらえて、本当に良かった。恥ずかしくても、情けなくても、今だけは素直にそう思った。
念のために、足に添え木を巻いたり氷で冷やして応急処置をしているうちに、公爵家の馬車が来た。それに乗って、公爵家に戻るようだ。私の家出は、数時間で終わってしまった。情けなくて泣きそうだ。
驚くことに、リオスも当然のように同じ馬車に乗り込んできた。
「今から行くところがあったんじゃないの?」
「もうなくなった」
「じゃあ、あの軍はなに? 有事なんじゃないの?」
「……君の捜索のために出動させた」
「え?」
最初の騎馬隊も含めれば、軽く数百はいたんじゃないだろうか。私の家出がそんなに迷惑をかけていたことに頭がくらくらした。
「君は自分の立場をもっと自覚してくれ。公爵家の夫人が行方不明になったら皆に迷惑がかかる」
「……ごめんなさい」
「だが、無事でよかった」
彼は安堵したようにため息をつき、言葉を続けた。
「君が落ちたあの穴は……おそらく刺客や諜報員が作ったものだろう。侵入の機会をうかがうための潜伏場所か、公爵家を監視するためのものかは分からないが。怖がらせたくなくて黙っていたが、君は今でも狙われている。この三年、何度か屋敷に侵入を試みる者がいた」
「……え?」
「もし一人でフォルネアに辿り着いていたら、また誘拐され、今度こそ殺されていたかもしれない。……運が、良かったな」
彼の声は低く冷たく、怒気を含んでいた。
恐怖で身体が震え、涙が頬を伝った。いつもなら優しく慰めてくる彼が、冷たく私を見下ろしていた。誘拐され殺されるのも怖いけれど、それよりもリオスがこんなふうに冷たくなったことの方が、何倍も堪えた。彼の心が離れたから、愛人と結婚するから、きっともう優しくする必要もなくなったんだ。
私と離縁するつもりだから。もう、そうとしか思えなかった。