変装が役立つとき
公爵家に帰ると、私は自分の寝室にこもり、布団を頭からかぶって丸まって泣いた。
外出していたリオスが戻ると、すぐに部屋へ入ってきた。
「アリィー、茶会のあとに体調を崩したと聞いたが……大丈夫か?」
「……大丈夫。だから、ひとりにして」
「……分かった。今日は、よく務めてくれた。ゆっくり休むといい」
そう言うと、布団にくるまった私をぎゅっと抱きしめてから、部屋をあとにした。
抱きしめられて嬉しい反面、愛人がいるくせに……私と別れるつもりのくせに……と、黒い気持ちが胸に広がる。
(……でも、本当にそうなの? あのリオスが、結婚記念日に離縁を告げるなんて……そんな残酷なこと、するはずない……)
――今夜、確かめよう。
そのままベッドに沈み、夕食は部屋でとった。
リオスが様子を見に来ようとしたけれど、まだ心の準備ができていなくて「一人で食べたい」と断った。
布団から出てふと鏡を見ると、泣きはらしたせいでひどい顔になっていた。そのまま黙々と夕食を口に運んだ。
いつもなら食堂で、リオスや義両親と共に囲む食卓。みんなで食べる夕食は、思わず「美味しい!」と声が出るほどだったのに、一人で食べると途端に味気なかった。
実家は大家族で、妹や弟に囲まれて騒がしく、私の言葉など誰も聞いてくれなかった。みんなが好き勝手に話すから、私の声はいつもかき消されてしまった。
けれど公爵家に来てからは違った。リオスだけでなく義両親も、私の言葉に耳を傾けてくれた。「美味しい」と言えば、リオスは「俺のも食べるか?」と差し出してくれたし、お義母様は「これが好きならあれも好きかも。今度作らせましょう」と微笑んでくれた。義父は寡黙だけれど、賑やかな私を温かい目で見守ってくれた。
――離縁すれば、そんな義両親とも他人になってしまう。
じわりと涙がにじみ、振り払うように必死で食べ続けた。
夫婦の寝室へ向かおうとした矢先、違和感を覚えて化粧室に駆けこんだ。
月のものが来ていた。これが最後の望みだったかもしれないのに、やはり妊娠はしていなかった。化粧室でしばらく泣き崩れ、心配した侍女たちが駆けつけてくる。
やがて、リオスも急いで部屋に入ってきた。
「アリィー? 大丈夫か?」
「……今日は、体調が悪いから一人で寝る」
「なんだって? でも君は一人では眠れないだろう?」
「せっかくだから、チャレンジしてみる。うなされてても、来なくていいから」
「いやしかし――」
今は彼の顔を見たくない。何を言ってしまうか分からない。語彙力を総動員して、ひどい言葉をぶつけてしまうだろう。だから、私は背を向けて「出ていって」と告げ、問答無用で部屋から追い出した。
結局その夜は一睡もできず、涙で枕を濡らしたまま、明け方にようやくまどろんだ。他のことで頭がいっぱいだったからか、不思議と夜の恐怖は感じなかった。ただ、胸の奥が痛むほど悲しかった。
それから数日、私は自室に閉じこもり、泣いて過ごした。いつもより腹痛もひどく、周期的にも情緒が不安定だったのかもしれない。寝室には誰も入れさせなかったせいで、部屋はひどく散らかっていた。
閉じこもっている間ずっと、「リオスに会ったら何を聞こう」「これからどうするべきか」を考えていた。未来に彼がいないかもしれないと想像するだけで、涙が止まらなかった。
結婚記念日を明後日に控えた夜。そろそろ向き合わねばと決意した。月のものも終わり、情緒もだいぶ安定した気がする。侍女に「今夜は夫婦の寝室に行く」とリオスに伝えてもらった。
入浴を終え、夫婦の寝室へ続く扉の前に立つ。ドアノブを握りしめ、深呼吸して心を整えた。寝室に入るのに、こんなに緊張したのは初めてだった。
意を決して扉を開けると――目の前にリオスが立っていた。
「きゃっ……! ど、どうしてここに……?」
数日ぶりに会った彼は、相変わらず格好よかった。しかし、なぜこんなところに立っていたのだろう。
「驚かせてすまない。ちょうど様子を見に行こうとしていたところだったんだ」
この数日、彼は入れないはずの私の部屋の前まで来て、様子をうかがいに来ていた。でも彼の声を聞く度に愛しいやら憎らしいやらで、私の心は乱されていた。
「あ、うん。ちょっと驚いただけ」
「体調は、もう大丈夫なのか?」
「うーん……どうだろう」
「母上も心配していた。しばらくはゆっくりするといい。そもそも、君は社交なんてしなくていいんだ。無理しなくていい」
(……愛人の噂を、私の耳に入れたくないから?)
これまでなら素直に受け止められた彼の言葉も、今は優しさではなく保身にしか思えない。胸に巣くう疑念を、あえて口にした。
「……それって……優しいふりをしてるだけで、リオスの保身のためなんじゃないの?」
「……っ!」
違うって、リオスに言ってほしい。愛人なんかいない、ただの噂だと否定してほしい。
「……聞いたわ。愛人って……なんなの?」
彼は目を瞬かせ、ほんの一瞬伏し目がちになり、諦めたように深くため息をついた。
「……聞いたのか。すまない。君の名誉を傷つけたことは、申し訳なく思っている」
「え?」
愛人がいることを、彼はあっさりと認めた。しかも、愛人がいることを謝るのではなく、名誉を傷つけたことへの謝罪。
信じられない。信じたくない。
「そのことについては、いずれ相談しようと思っていたんだ。君の希望を聞きたくて」
(……希望? どういうこと? まさか――愛人を認めるかどうかってこと!?)
「嫌に決まってるでしょ!」
「……そうか。分かった。では、これからは君の外出は、なしだな」
「え?」
なに?
愛人を拒否したら、私を外に出さない罰を与えるって言うの?
「ひどい……。平民の人の話を……聞いたけど……本当なの?」
愛人は、没落貴族の令嬢で、今は平民になった人だと誰かが言っていた。名前も言われたけれど、衝撃的なことが多すぎて、もう思い出せない。
「それも聞いたのか。……ああ。申し訳なかった。だが……俺は、抑えられない時があるんだ」
「はあ!?」
なに、どういうこと!?
浮気宣言!?
抑えられなくて浮気するっていうの?
リオスって……こんな人だったの!?
怒りで震える手を力いっぱい握りしめた。でも、聞きたいことは全部確認しなければならない。努めて冷静な声を作り、口を開いた。
「最近、忙しそうにしていることと関係があるの?」
最近、リオスが昼間に私の部屋に来る回数は減っていた。その分、愛人に会っていたのではないか。そう思って尋ねた。
「え? いや、それとは無関係だ」
「じゃあ、私の部屋に来なくなった分、その時間は何をしてるの?」
「それは……まだ言えない。だが、近いうちに伝えることができる。もう少し待ってくれ」
近いうちに――まさか、結婚記念日?
離縁の手続きでも進めているの……?
また視界が真っ暗になるかと思ったが、意外なほどに冷静な自分がいた。むしろ、第三者になって自分を見下ろしているような感覚だった。
「……今日も、体調が悪いから一人で眠る」
「え? 月のものは終わったと――」
「なんなの!? 子どもが出来なかったからって!!」
「いや、責めているわけでは――」
妊娠さえできていれば、捨てられずに済んだかもしれない。私に子どもができないから、悪びれもせず愛人のことを話すんだ。
感情のまま扉を乱暴に閉め、鍵をかけた。
(ひどい! リオスがあんな浮気者だったなんて、許せない!)
ベッドに飛び乗り、苛立ちのまま枕を叩きつける。
抑えられないって……どういうことなの!?
愛人と会うくらい、抑えられるでしょう!?
そんなに愛人が大事なの!?
ひとしきり枕を叩いて、ようやく荒い息を落ち着けた。怒りのあとにやってきたのは、虚しさだった。
……もしかして、私が一人で眠れないから、同情してくれていただけなのかな。
この一年ほど、夜に不安になることもなくなっていた。もちろん、毎晩リオスが傍にいてくれたからだ。たまに彼の帰りが遅い時など、うとうとと眠れることもあった。きっと、もう大丈夫なのだと分かっていた。
でも彼が心配してくれるから、「大丈夫だよ」って言って傍にいてくれるから、つい甘えてしまっていた。仕事の移動にも欠かさずついて行って……もしかしたら、リオスの邪魔になっていたのかもしれない。彼はずっと優しかったから、気づかなかった。
まさか……他に好きな人ができていたなんて。
涙がぽとりと、ベッドを濡らした。
(このまま……離縁されるのかな)
結婚記念日に。私の誕生日に。
(彼から離縁を突きつけられるなんて、そんなの耐えられない)
優しかった彼から残酷な言葉を聞くなんて、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
(……無理だ。耐えられない。絶対に)
そして翌日の朝。
泣きはらしてむくんだ顔のまま、いつも変装に使っていた侍女服に着替え――
私は、家出した。
読んでくださってありがとうございます。次回は少し明るくなります。