淑女の洗礼
今回のお話は少し辛い展開ですが、必ず乗り越えますのでご安心ください。
給仕の侍女が、静かに茶を注ぎ直して回る。
お茶会に集まっていたのは、主催者の侯爵夫人をはじめ、公爵夫人であるお義母様、二十代前半の子爵夫人に、三十代の伯爵夫人たち数名――そして、セリーヌ・バリウス侯爵令息夫人。
先日リオスが殴り飛ばした侯爵令息の妻で、私と同い年らしい。……見覚えがある気がするけれど、思い出せない。学園時代にすれ違ったことがあったのだろうか。出席者名簿を見たときから、もし顔を合わせたら謝ろうと思っていた。けれど、この場で切り出すのは憚られる。リオスが暴力をふるったことなど、できるだけ公にしたくないからだ。せめて帰り際に、そっと声をかけられればいいのだけれど。
お義母様と侯爵夫人が、短く言葉を交わして席を立った。何か打ち合わせでもあるのだろう。
その瞬間を待ち構えていたかのように、まだ二十代前半の愛らしい子爵夫人が、私に顔を寄せた。
「……ねえ、本当のことを教えてくださらない? 本当に毎晩ご一緒なの?」
「え? はい、もちろんです」
「まあ……。それで子どもができないなんて――やっぱり、奥様の方に問題がおありなのかしらね」
囁く声は甘く、それでいて氷のように冷たかった。最初は意味を測りかねて、ただ瞬きを繰り返した。だが理解した途端、胸の奥を鋭く突かれたように痛みが走る。子どもができないのは私のせい――そう責められることを、ずっと恐れていたからだ。
他の夫人たちが「まあ……!」と息を呑み、口元を扇で覆った。やがてクスクスと笑い声が広がり、その響きには嘲りが混じっていた。
お義母様たちがいなくなった途端、空気は一変していた。
「同じ頃にご結婚されたご夫人は、早い方はもう二人目がお生まれになる時期ですのよ。同い年のセリーヌ様もすでにお子様がいらっしゃいますもの。ねえ? セリーヌ様」
子爵夫人が視線を送ったが、セリーヌ様は柔らかく微笑むだけで、言葉を返さなかった。
すると他の夫人が口を開く。
「本当に毎晩ご一緒なら……かえって問題なのではなくて?」
「え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「だって、機会はあるのにお子様ができないのでしょう。お可哀そうにねぇ」
「それに、もうすぐご結婚三年でございますでしょう? ご存じなくて? ――高位貴族の間では、三年子ができなければ離縁。それが常識ですわ」
「……え?」
初めて聞かされた言葉に、胸が凍りつく。息をのむ音が自分でもはっきり聞こえた。
三年? 離縁?
「いやだ、さすがにご存じよぉ。公爵家の夫人なんですもの」
「そうですわね。失礼いたしました。ふふっ」
「それに、ウィンターガルド公爵令息には美しい愛人がいらっしゃるそうですわ。人目も憚らず、愛称で呼び合っては仲睦まじく出歩いているとか」
「レアリィーナ・マルセリア元伯爵令嬢をご存じでしょう?」
「え? し、知りません」
「あら。ご存じではなくて? 今は没落して平民になってしまわれたけれど、元は立派な血筋のお方ですのよ」
――卑しい男爵令嬢とは違って。
どこからともなく投げられた一言に、クスクス、ウフフと笑い声が重なる。
先ほどの「離縁」という言葉とともに、その笑い声が何度も頭の中で反響した。
(リオスに、愛人が……? 平民の……?)
信じられなかった。
あのリオスが――本当に愛人を?
想像しただけで胸が痛んだ。
けれど思い返してみれば、心当たりはいくつもあった。
先日の猟会でも、バリウス侯爵令息が「浮気」についてほのめかしていた。あの時はあり得ないと打ち消したけれど……実は社交界では有名な話なのだろうか。
リオスが私を社交界に出したがらなかったのも、その噂を耳に入れたくなかったから?
最近の彼の冷たい空気も……子どもを産めず、社交もできない私に、とうとう愛想を尽かしたから……?
結婚三年が近づくにつれて、彼は時折よそよそしく、何かを隠しているように見えることが増えた。これまでは執務の合間に私の部屋に来てくれていたのに、その頻度が次第に減っていったのだ。
思い返せば、二人で話すときも、何か言いたげにしては口をつぐむことがあった。
(あれは、離縁の話だったの……?)
その愛人と再婚するということだろうか。私が子どもを成せなかったから――?
私の誕生日であり結婚記念日でもある日まで、残りは一週間。
その日までに子どもが授かる可能性は、もう絶望的に思えた。
目の前が暗く沈んだ。その後のことは覚えていない。気がついたときには、お義母様とともに馬車に揺られていた。
馬車の中で、お義母様は今日の会話の意味と、模範的な受け答えを丁寧に教えてくれた。どうやら私は失敗してしまったらしい。追い打ちをかけるように気持ちは沈み、涙を堪えるのに必死だった。
私の落ち込みように、お義母様は「貴女一人のせいではないわ」「気にしなくてよいのよ」と優しく慰めてくれたが、胸の奥には重い石が積まれていくようで、私はますます深く沈んでいった。
しばらく沈黙が続いた後、私は恐る恐る口を開いた。
「あの……高位貴族は、子どもが三年できなかったら離縁って……本当ですか?」
「え? まあ、そういう家は多いわね。でも――」
――本当、だったんだ……。
じゃあ、あと一週間でリオスと別れるということ?
誕生日に、それを突きつけられるの?
リオスと、もう会えなくなるの……?
視界が暗く閉ざされ、周囲の音が遠のいていく。ただただ、自分の思考に閉じこもるしかなかった。
お義母様が何かを言っていたけれど、その声はもう私には届かなかった。
今回はしんどい場面が続きましたが、この章はどうしても書きたかった部分です。
ナタリーとグレゴリオスがお互いの気持ちをぶつけて、理解して、一緒に歩いていく。二人が本当の意味で夫婦になる過程を書けたらと思っています。
しばらくは重めのお話ですが、どうか最後まで見守っていただけたら嬉しいです。