お茶会
十月になり、私たちは公爵領に戻ってきた。
いよいよ一週間後には私の誕生日で、結婚して丸三年になる。もう二十一歳だ。
毎年この日は、結婚記念日も兼ねて盛大なお祝いを企画してきた。けれど今年は、どうにもそんな気分になれず、侍女たちにも「何もしなくていい」と伝えてある。子どももできず、夫人としての務めも果たしていないのに、祝ってもらうことに気が引けたからだ。
(結婚して三年も経つのに、子どもができないなんて……普通のことなのかな?)
いや、そんなはずはない。分かっていても、それでも「よくあることだ」と誰かに言ってほしくなる。
もしかすると、私たちの間には子どもができないのかもしれない。相性の問題なのか、あるいは私に原因があるのか。もし原因がリオスにあるのなら……不謹慎だけれど、少しは気が楽になるのに。そんな自分が嫌で仕方なかった。
けれど今の世の中、どちらに問題があるか調べる術などない。大抵は女性に責任を押しつけられ、非難されるだけだ。社交界でどんな噂をされているのか。表舞台に出ていないから耳に入ってこないが、やはり陰で囁かれているのだろうか。
やはり最近は公爵家の使用人たちの態度がおかしい。以前から薄々感じていた違和感が、ここにきて確信に変わりつつある。表面上は変わらず優しいのに、どこかよそよそしい。子どもを産めない私を、内心では良く思っていないのだろうか。何か隠し事をしているような気さえする。
先日、リオスが突然バリウス侯爵令息を殴り飛ばした。少なくとも私の耳に届いた限りでは、バリウス侯爵令息は私を傷つけるようなことを言っていない。
それなのになぜ、穏やかで優しいはずのリオスが、あんな暴力行為に及んだのかは分からなかった。理由を聞いても、「当然の処置だ」と冷ややかに諭されるだけ。
いつものリオスと様子が違い過ぎて、怖くてそれ以上は聞けなかった。
(なんだか最近、リオスの機嫌が悪い気がするなぁ)
あの猟会以来、リオスは時折、冷たい空気をまとっている。私が上手く立ち回れなかったことに、さすがにがっかりさせてしまったのかもしれない。以前はよく日中に私の部屋に会いに来てくれていたのに、その頻度がめっきり減った。こんなことは初めてで、どうすればいいのか分からない。……とても寂しい。
かと思えば夜、二人で話しているときに、何か言いたげに口を開きかけては押し黙ることがある。問いかけても、答えてはくれなかった。
バリウス侯爵令息には好意を持てず、触れられそうになるだけで強い抵抗を覚えた。思わず扇子で手をはじいてしまったほどだ。けれど、バリウス侯爵令息が場に現れたことで空気が和み、助かったのも事実だ。女たらしの侯爵令息を上手くあしらえなかった私にも落ち度がある。公爵家の夫人なら、男性くらい軽くいなして掌で転がすくらいでなければ務まらないのだ。きっと。
殴られてしまった侯爵令息に対して、申し訳ない気持ちが残った。そして殴らせてしまったリオスにも。本来は優しい彼を怒らせてしまったし、あれからどこか変わってしまった気がする。私が公爵家の夫人らしく振る舞えないばかりに、周囲に迷惑をかけている気がしてならなかった。
だから今日は、お義母様を見本に公爵家の夫人らしい振る舞いを学びたくて、急遽お義母様とお茶会に参加することにした。突然の思いつきにもかかわらず、お義母様はたいそう喜び、すぐに参加できる席を手配してくださった。
主催者のアルトハイマー侯爵夫人は、お義母様のご友人で、公爵領に隣接する領地に住んでいる。距離も近いため、こうして気軽に足を運べたのだ。お義母様の配慮で、まずは気心の知れた身内のお茶会から始めることになった。
侯爵邸の庭に置かれたテーブルには色とりどりのお菓子が並べられ、私は緊張でぎこちなくなった手足をなんとか動かし、お義母様の隣に腰を下ろした。
侯爵夫人にお目にかかるのはこれが初めてだったが、温かく迎えてくださった。その笑顔に少し安堵しつつも、初めてのお茶会に胸の中は張りつめたままだった。
やがて全員が席に着くと、アルトハイマー侯爵夫人が柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。気取らないお茶会ですから、どうぞ皆さま、くつろいでお過ごしくださいませ」
続いて、この場で最高位にあたる公爵夫人のお義母様へと皆の視線が集まった。お義母様が穏やかに皆に挨拶をする。
「本日は義娘のナタリーもご一緒いたしました。病弱ゆえこれまで社交の場に出られませんでしたが、ようやく体調も落ち着いてまいりました。まだ慣れない場ですが、どうぞ温かく見守ってくださいませ」
夫人たちは口々に「まあ、ご快復なさって」「こうしてお会いできて嬉しいですわ」と微笑みを向けてくれた。私は拙いながらも挨拶をし、その後は夫人たちが順に自己紹介をしてくれた。お義母様から事前に参加者リストを渡されていたので名前は覚えていたが、顔と一致させるために必死で耳を傾けた。
当たり障りのない会話が続き、このまま問題なく時間が過ぎると思っていた。けれど、いつからか場の空気が妙に重くなっていた。私はただ、尋ねられたことに素直に答えていただけなのに。
気づけば、口を開くほどに場の雰囲気が沈んでいったのだ。
***
アンゼリカは頬が引きつらないよう、必死で笑みを繕っていた。
義娘のナタリーは、ことごとく夫人たちの地雷を踏み抜いている。せっかくの和やかなお茶会が、重苦しい空気に包まれつつあった。
きっかけは、主催者であるアルトハイマー侯爵夫人の軽口だった。彼女が男性の浮気性を揶揄し、夫の愚痴をユーモアまじりに語り始めたのだ。
貴族の世界では浮気など珍しくもなく、愛人を何人も抱える者も少なくない。男の甲斐性と見なす風潮すら根強く、子をもうける役目を終えた後なら、夫のみならず妻が愛人を持つことさえ黙認されていた。
「皆さま聞いてくださる? この間、主人がふいにわたくしの寝室へ参りましてね。侍女たちが大慌てで香油を用意し、寝具を整えて……まるで新人花嫁のような騒ぎでしたの。おかげで、すっかり疲れてしまいましたわ。だって、もう子どもは成人しているのに、今さら何を考えているのやら……。愛人のところで十分お世話になっているはずでしょうに。まったく、困った人ですわ」
侯爵夫人は困ったように笑いながらも、どこか誇らしげだった。その意図を察した夫人たちは、クスクスと笑いながら「本当、男性って困ったものよねぇ」「そうそう」と声を合わせる。
そして、気を遣うようにアルトハイマー侯爵夫人がナタリーへと水を向けた。
「まあまあ、ナタリー様はまだご結婚三年目でしたわね。若奥様はさぞ旦那様と仲睦まじいのでしょう?」
アルトハイマー侯爵夫人のその言葉は、決して攻撃的な意味合いではなかった。社交界では、三年近く子どもができない息子夫婦には良からぬ噂が立ってた。侯爵夫人はそれを払拭するために、助け舟を出してくれたのだろう。
本来なら、ここでナタリーが「夫にはよくしていただいております」とでも答えていれば、何の問題もなかったのだが――。
「え? ど、どうでしょうか。普通……だと思います」
もちろんそんな噂など知るはずもないナタリーは、思ったままの感想を口にした。その返答は、聞きようによっては仲が良くないとも取られかねない。案の定、場に緊張が走る。侯爵夫人は慌てて場を和ませようと、冗談めかして言葉を添えた。
「あらあら、ご謙遜なさって。まだお若いんだもの。毎日のように寝室を共にしているんじゃなくて? なんてね、うふふ」
「はい? そうですね、毎日一緒です」
「……え?」
ナタリーを溺愛する息子は、できるだけ彼女と過ごす時間を長くするために、さまざまな嘘――いや、誇張した話を吹き込んでいた。
例えば、「ウィンターガルド公爵家は子を十人生むまで務めを果たさねばならない」とか、「体調不良でない限り、夫婦は同じ寝室で眠るものだ」とか。
実際には十人も不要で、三人いれば十分。男の子が一人いれば申し分ない。
貴族の夫婦はそれぞれの寝室を持ち、子を成す時だけ夫婦の寝室を使うのが常識だ。だから急なお誘いがあれば、使用人が慌てて寝具を整える――先ほどの侯爵夫人の話は、まさにそのドタバタ劇を面白おかしく語ったものに過ぎなかった。
子が数人できて成人すれば、子をもうける義務から解放されるため、夫婦の寝室は使われなくなることが多い。
「あら、うふふ。知らなかったわ、ナタリー様は冗談がお上手でいらっしゃるのね。危うく信じてしまうところでしたわ」
夫人たちが上品に笑い合う。だがその場の空気を読まぬナタリーは、さらなる爆弾を落とした。
「え? いえ、本当に毎日一緒ですよ? 皆さんもそうですよね?」
一瞬の沈黙。空気が凍りついたかと思うと、次の瞬間には「まあ……」と小さなざわつきが広がった。
その響きには、戸惑いと、かすかな冷笑が混じっていた。
ナタリーに悪気がないことを、アンゼリカは分かっていた。息子がそう教え込んでいるのだから。けれど結果として、夫人たちの心に小さな波を立ててしまった。
「え? どうしてこんな空気に……? お、お義母様、私、嘘ついていませんよね?」
「え、ええ。嘘ではないわ。あなたたちが仲良く過ごしていることは、私がよく知っていますもの」
これで、息子夫婦の仲が良いことは伝わるはずだ。だが、伝わりすぎるのも良くない。何事もほどほどが良い。
けれど、アンゼリカが息子夫婦の仲睦まじさを保証すると、今度は質の違うざわめきが広がった。
それは驚きと苛立ち、そして隠しきれぬ嫉妬が入り混じったものだった。
(……これはまずいわ)
良かれと思った保証が、かえって火に油を注いでしまった。だが、この場面でフォローしないわけにはいかなかった。
政略結婚で表向きは冷めた夫婦関係でも、本当は誰もが夫に一途に愛されたいと願っている。だが浮気が当たり前の世界で、女性のプライドを満たすために皆、平気なふりをする。……その均衡を、ナタリーの無邪気さが容赦なく揺さぶったのだ。
アンゼリカは不穏な空気を察し、慌てて話題を変えようとした。
けれど口を開く前に、夫人たちが勢いよく言葉を投げかけてきた。
「まあ! 羨ましいことですわね。毎晩ご一緒とは、さぞ体力がおありでして?」
「いえ、それが疲れてしまって……朝はどうしても起きられなくて。もっと体力をつけなければとは考えているんですけど」
「ええっ? では、朝は旦那様よりも遅く起床なさるの? あり得ませんわ!」
「そうですよね……。私も反省しています。リオス――いえ、夫にも伝えているんですが、寝ていていいよと言うばかりで」
「……っ!」
紅茶のカップを持つ指が震える者、微笑を張り付けたまま口元が引きつっている者、無言で隣と目を合わせて眉をひそめる者。
「それは甘えではなくて? 私は新婚の時でも、夫より早く起きて化粧など身支度を整えておりましたわっ」
「甘えかもしれません。夫は化粧しない方が好きだと言って、そのままでいいよと言ってくれるので……つい甘えてしまって……」
(……見ていられないわ)
ナタリーは、わざとかと疑いたくなるほど、次々に地雷を踏んでいた。
夫人たちの表情は次第に引きつり、抑えたざわめきが広がっていく。
アンゼリカは覚悟を決め、口を開いた。
「おほほほ、まあまあ皆さま。若いっていいものですわね。こういうお話はこの辺にいたしまして……。ほら、侯爵夫人がお心配りくださった焼き菓子、とても香ばしくて格別でございますのよ。皆さまもぜひお召し上がりになって」
アンゼリカが笑顔で場を取り繕うと、夫人たちも渋々ながら頷き、皿に手を伸ばした。
空気は完全に和らいだわけではないが、ひとまずは収まった。アンゼリカは胸の奥で小さく息を吐く。
(良かったわ。後で侯爵夫人には謝罪して、ナタリーにはしっかり説明しておかないと……)
そうして場の空気はどうにか立て直され、話題は自然と別の方向へと流れていった。