アンゼリカ視点
(……なんなの、この娘?)
目の前でカーテシーのポーズを取り、その姿勢のまま耐えている少女を見つめた。
事前の調査では、礼儀作法の素養は乏しいと聞いている。男爵令嬢とはいえ、末端の貴族。十秒も経たず崩れ落ちると思っていた。
ところが、淑女とは到底言えない形相でカーテシーに耐えていた。すでに一分半。信じられない。
こんな醜悪な表情をしてまで、どうして頑張るのかしら。
元々の顔立ちは美しいのに、これじゃあ台無しじゃないの。
「この一週間は、いかがでしたの?」
「はいっ。とても、有意義に過ごさせて、いただきました」
それとなく邪魔をするつもりで質問を投げかけたけれど、娘は醜い表情のまま必死に答え続ける。頬は震え、声も上ずっている。そんなに辛いなら、早く降参すればいいものを。
「せっかく家庭教師に元宮廷女官長を招いたのだから、もっと高度なことを学んでもらいたいわ」
「も、申し訳、ありませんっ……!」
そろそろ限界と見て、さらに畳みかける。
「……あなた、優雅さに欠けるのよ。元気が良すぎるというか」
「申し訳っ、ありませっん!」
ようやく娘は崩れ落ちた。
私は静かにほくそ笑む。
「あらあら、まだ砂時計は終わっていませんわよ? ……まあでも、初めてのカーテシーで二分もできたなら上出来ですわね」
嘘だ。二分など、ベテランの令嬢でもできない。
通常のカーテシーなら静止するのはせいぜい数秒。もちろん、長くできるに越したことはない。姿勢が安定するから。だが、初めてでここまでできる貴族令嬢はまずいないし、そもそもそこまでする必要もない。
私でも、カーテシーのポーズは三分が限界。あれは中腰で、思いのほか辛いものなのだ。
本当は、一分できれば合格にするつもりで始めた。ところが娘はあっさり一分を超えてしまったため、引っ込みがつかなくなった。一分の砂時計を一度ひっくり返して様子を見た。二分きっかりで娘は崩れ落ちた。私はその隙にもう一度砂時計を返し、まだ課題は終わっていなかったように装った。
「はぁ、はぁ………合格は何分ですかぁ?」
「……三分よ」
二分はすでに突破されたため、基準を三分に引き上げるしかなかった。これなら、しばらくは苦戦するはず。……ただ、もし「お手本を」と言われたら困る。秘かに訓練しておかねばならないわね。この娘に負けるなど、あってはならない。
「あとちょっとだったのにぃー!」
娘は大声で悔しがった。本当に、野蛮で粗雑な娘だこと。
総括のお茶会は毎週日曜日に行うこととし、今日のところは解散とした。
グレゴリオスは、なぜこんな娘を選んだのかしら。
ウィンターガルド公爵家は竜人の血を継ぐと、結婚してから聞かされた。竜人には「番」と呼ばれる運命の相手がいて、出会った瞬間に分かるらしい。つまり、竜人の番は本人が選べるものではない。けれど、まさかこんな規格外の娘を連れてくるなんて。
娘の教育報告書をめくりながら、思考を巡らせる。
この娘、座学は悪くないのよね。
暗記ばかりの勉強は苦手のようだが、ストーリー性のある歴史や法律はすぐに頭に入るらしい。複数の教師を雇っているので、早々に特徴を見抜いた教師は、逸話などを交えて授業をしているという。
学園でも二年生のとき、学内コンテストで賞を取り、下位クラスから上位クラスに上がっていた。知能は確かに高いのだろう。
なのに、マナーが壊滅的なのは一体どういうことなのか。
貴族の娘に頭の足りない者は珍しくない。けれど、それでも最低限の礼儀作法くらいは身についているものだ。頭は悪くないのに、マナーができないなんて……やる気がないとしか思えない。
ため息をつきながら、来週の教育計画を立てた。
その翌日、グレゴリオスがまた勝手に娘のダンスのパートナーを妨害し、自分が練習相手になったと聞いた。
これまでも、相手役の教師や騎士に従者を差し向けて断らせていたらしい。まったく、困ったものだわ。
ただの教師や騎士では、グレゴリオスの従者に言い負けてしまう。そこで仕方なく、既婚者である騎士団長に来てもらったのに、今度はグレゴリオスが自ら足を運んで、来ないように言ったらしい。次期公爵からの命令とあれば、騎士団長といえど逆らえはしない。意志の強さが恐ろしいわ。
最近は領地改革で激務と聞いていたけれど、娘のために時間を捻出しているらしい。呆れるしかない。
しかも、ダンスの練習中に踏まれて足を痛めたという。娘の前では平然と歩いているけれど、娘がいないところでは明らかに足を庇っていた。竜人は身体が頑丈で治りも早いから、数日で回復したけれど。
どうやら娘は相当にダンスが苦手らしい。そこでグレゴリオスは、「これでは相手が怪我をする。自分が務めます」と言い出した。さらには職人に命じて、靴に鉄を仕込んだ特注品まで作らせた。しかも納期は二日。かなり無茶を言ったようだ。
けれど、その甲斐あってかダンスは順調に上達しているらしい。もともと運動神経は良いようだから、もう問題なさそうだ。
やはり、問題はマナー。
特に上品な所作や表情、洗練された会話が壊滅的。
それなのに、カーテシーの三分間静止の課題はあっさりと達成してしまった。もちろん淑女らしい顔ではなかったけれど。次の目標は、表情を崩さずに静止すること。おそらく、カーテシーだけはどの貴族令嬢よりも完璧になる。カーテシーだけは。
「悪い子じゃないのだけれど……ねぇ」
ガサツではあるけれど、明るく素直な娘だ。
先日のお茶会では、私がこれまで取り組んできた公爵領での女性保護や地位向上について、熱心に聞いてきた。
「すごい! カッコいい!」と羨望の眼差しを向けられ、悪い気はしなかった。私の功績を理解できるなんて、なかなか見る目があるのではないかしら。
あとは、マナーさえ身に着けてくれたら何の問題もないのに……。
彼女はいずれ公爵夫人になるのだから、しばらくは私が代わりを務めても構わない。けれど、社交の場は避けられない。
公爵夫人たるもの、貴族女性の頂点に君臨しなければならない。多少時間はかかるかもしれないが、彼女を立派な淑女に育て上げる必要がある。
あの娘のためにも、しっかりと、厳しく教えてあげなければならないわ。
***
「いやあぁぁ!!」
ある晩、自室で就寝の準備をしていた私は、突如響いた叫び声に息を呑んだ。
隣室にいた夫エイゴリオスが駆けつけ、無事を確かめる。
私と彼は視線を交わした。
(……では、あの叫び声は誰?)
夜の静けさを裂くように、再び女性の悲鳴が響いた。
ただ事ではないと判断し、すぐに護衛に確認を命じる。護衛は気まずそうな顔で私たちを案内した。
夫と共に声のした方へ急ぐ。そこは、グレゴリオスの夫婦の寝室だった。
ベッドの上に腰掛けるグレゴリオス。その隣には、掛け布団にくるまり横たわるダークブロンドの女性――ナタリーさんがいた。
今は静かに眠っているように見える。
グレゴリオスは口元に人差し指を当て、私たちに向かって小声で話し始めた。
「申し訳ありません。どうしても用を足しに行きたくなり……。私の落ち度です。今からは彼女のそばにいるので、大丈夫です」
私は思わず目を見張った。
(……先ほどの叫び声が、この娘のものだというの?)
昼間は能天気なほどに元気だった。その娘が、夜にグレゴリオスが傍にいないだけで、あのような叫び声をあげるだなんて。
……私も、かつて反逆者に襲われたことがある。
連れ去られそうになり、必死で抵抗した拍子に転んでしまい、身籠っていた子を失った。生まれていれば、グレゴリオスの弟になっていたはずの子どもを。
その一件で、私は二度と子を宿せない身体になった。
それまで外見に反して優しく穏やかだった夫は怒り狂い、反逆者一味を根絶やしにした。その苛烈な報復は、今もなお恐怖の伝説として語られている。
あれは思い出したくもないほど、悲しく忌まわしい出来事だ。
けれど、私は転んだおかげで救出が早く、命に別状はなかった。子を失ったことはショックでしばらく寝込んだが、夜中に無意識に叫んだりはしなかった。
グレゴリオスの一方的な恋慕だったと、本人からも、隠密隊からも報告を受けている。しかも、はっきりと断られ続けていたと。つまり、彼女に一切の落ち度はない。
昼間は気丈にふるまっている、とグレゴリオスから聞いていた。けれど私は、表面しか見ようとせず、能天気だと決めつけた。その愚かさを恥じた。
あれは大袈裟な話でもなく、真実だったのだ。
竜人の番は、必ずしも竜人に恋慕を抱くものではない。
その場合、どちらも不幸な人生を歩むことになる。竜人は番への執着をやめられないから。そのことは夫から聞かされていた。
私は幸運なことに夫の番であり彼に好意を持ったけれど、そうでない番もいる。
グレゴリオスが一方的に彼女を求め、強く求婚した結果――それが今の彼女を追い詰めている。
だとしたら、私にできることは一つ。
少しでもナタリーさんの負担を軽くすること。彼女の心をこれ以上壊させないことだ。
社交は私の最も得意とする分野。できるだけすべての場に私が付き添い、彼女を守ってあげよう。
本当は、社交をすべて代わってあげたい。けれど、公爵夫人として避けられないものもあるし、王家からの命令があれば断れない。その時に、マナーができないと困るのはナタリーさんだ。
貴族夫人の世界では、武器を手にする代わりに、言葉と作法で戦う。私は今まで、その教養という名の武器で向かってくる敵を薙ぎ払ってきた。
しかし、彼女に武器は必要ないのかもしれない。きっと彼女に必要なものは武器ではなく盾だ。最低限のマナーは、彼女自身を守る盾になるだろう。
だから「マナー教育を全て免除していい」とは言えない。けれど、その重荷を少しでも軽くすることはできる。
マナーは必要最低限でいい。その場をやり過ごせればそれでいい。贅沢は言うまい。
そう決めたはずなのに……ナタリーさんのあまりの出来なさに私が途方に暮れたのは、結婚式の一カ月前だった。
淑女の微笑みが五分で限界と言う彼女について、たまたま居合わせたグレゴリオスに相談をした。どうしても、結婚式に間に合わせたかった。
すると、グレゴリオスは彼女に「小説の貴族令嬢になり切ってみては?」と言った。今書いている小説の主人公が立派な淑女なんだとか。
驚くことに、そのあと十分まで耐えられるようになった。家庭教師の報告書を読んだ時も思ったが、彼女を教育するのはかなりコツがいるようだ。
――結局、結婚式までに彼女が身につけたのは、完璧なカーテシーと、十分だけ耐えられる淑女の微笑み。その二つきりだった。
これだけで、どうやって結婚式と披露宴を乗り切ったらいいのかと、私は頭を抱えた。
お読みいただきありがとうございます。
最近少し忙しく、またストックも尽きてしまったため、今週の更新は週1回となってしまいました。楽しみにしてくださっていた方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ありません。
今後もしばらくは週1更新になるかもしれません。
投稿日も、これまでの火曜・金曜から少しずれることもあるかと思います。
それでも読みに来てくださる皆さまには、心から感謝しております。どうぞよろしくお願いいたします。




