アンゼリカ様の淑女教育①
「この一週間は、いかがでしたの?」
そう言って、優雅に紅茶を口にして微笑んでいるのは、リオスによく似た美女だ。リオスの母であり、ウィンターガルド公爵家の夫人のアンゼリカ様。
「は、はいっ。とても、有意義に過ごさせて、いただきました」
「そう?」
微笑みを浮かべたまま、アンゼリカ様の瞳が冷たく光る。
身が凍るような視線だった。顔立ちはリオスと同じなのに、表情ひとつでこれほど印象が変わるのかと、思わず息を呑む。
「あなた、儀礼とマナーの授業が特に苦手みたいね? せっかく家庭教師に元宮廷女官長を招いたのだから、もっと高度なことを学んでもらいたいわ」
「も、申し訳、ありませんっ……!」
「まあでも、家政と経営はまずまずね。政務科での学びが効いているのかしら。あとは教養と社交ね。教養は得意不得意の差が激しいわね。社交が一番ひどいわ。あなた、優雅さに欠けるのよ。元気が良すぎるというか」
「申し訳っ、ありませっん!」
言葉と同時に、私はその場に崩れ落ちた。
荒い息を吐きながら、足の筋肉が悲鳴を上げている。
「あらあら、まだ砂時計は終わっていませんわよ? まあでも、初めてのカーテシーで二分もできたなら上出来ですわね」
「はぁ、はぁ………合格は何分ですかぁ?」
「三分よ」
「あとちょっとだったのにぃー!」
悔しさのあまり、大声を上げてしまった。
「ちょっと……あなたねぇ、行動がガサツすぎますのよ。これからは貴族の世界で生きていくのですから、その態度は自分の首を絞めることになりますわ。直しなさい」
「は、はいぃ」
先日、お互いの愛称を決めたあと、リオスから「母の淑女教育を受けてみないか」と提案された。
結婚後の社交をアンゼリカ様が代行してくれる代わりに、真面目に受けることを条件に出されたらしい。
公爵家に嫁ぐと決めたときから、淑女教育は避けられないと覚悟していたので、もちろん了承した。
すぐにアンゼリカ様から、これまで受けてきた淑女教育について簡単な質問を受け、そのあとため息とともに、一日三時間の時間割を渡された。
午前中は淑女教育、午後からは自由時間。
幸い自由時間が多いため、思う存分執筆に打ち込めている。
アンゼリカ様の淑女教育が始まって一週間。
日曜日の今日は休みだと思ってのんびりしていたら、違った。
アンゼリカ様とお茶をしながら、一週間の総括をするらしい。
そこで「カーテシーは基本ですわ」と言われ、軽い確認かと思いきや、そのまま指導が始まり、ついにはカーテシーの静止ポーズで耐久訓練がスタートした。
カーテシーとは、貴族女性の基本的なお辞儀だ。
優雅に見えるが、片足を後ろに引き、両膝を曲げたまま腰を落として維持するので、見た目以上にハードである。
淑女って、実は下半身ムキムキなのかもしれない。
スカートで隠れていて分からないもんね。きっと全員マッチョなんだ。
私も負けていられない。
汗をハンカチでぬぐいながら席に着く。
まだ息は荒く、足は使いすぎで小刻みに震えていた。
向かいに座るアンゼリカ様は、涼しい顔で紅茶を口にしている。
「この一週間の授業は、しばらく継続します。習得できたら次のレベルに進みますわ。何か質問はある?」
「あの、ダンスレッスンについてなんですが……」
「そういえばあなた、ダンスを踊れないらしいわね? まさか基本のステップからだとは思わなかったわ。学園では一体何を学んできたの?」
「す、すみません。あの……練習なんですが、男性パートを踊ってくれる人がいなくて困ってるんです」
「……なんですって?」
「予定していた方が、ことごとく体調不良になるらしくて」
「……まあ、誰かさんが余計な配慮をしているのでしょうね。あの子ったら、嫉妬深いのよ。夫婦で社交界に出たらどうするつもりなのかしら、まったく」
「え……?」
「いいえ、こちらの話よ。仕方ないわね。相手役はこちらで用意しましょう」
「本当ですか!」
「ええ。公爵家の騎士の中から、既婚者に限定して選んでおきます」
「……ありがとうございます?」
(なんで既婚者に限定するんだろう? 既婚者の方が体調管理が上手いのかな?)
まあとにかく、アンゼリカ様に任せておけば間違いないだろう。
その日のお茶会は無事に終わった。
これからも予定が合う時は、日曜にお茶会を開き、淑女教育の成果を見てくださるそうだ。
アンゼリカ様は、大変お美しく、眼福そのものだった。
あのツンとした気の強さも、気高くて素敵だ。
***
月曜日の朝。今から大広間でダンスのレッスンが始まる。
今日こそはペア練習ができると、相手役が現れるのをダンスの先生と一緒に待っていた時だった。
廊下から、男性たちの話し声と騒がしい足音が近づいてくる。
「アリィー、遅れてすまない」
そこに現れたのは、爽やかな笑みを浮かべたリオスだった。
後ろにいた部下たちは、大広間には入らず、廊下でさっと散っていく。
「あれ、リオス? どうしたの?」
「ダンスの相手役の男は、都合が悪くなったそうだ。俺が練習相手をしよう」
「えっまた!? なんでだろ……呪いでもかかってるのかな。でも、リオスも執務で忙しいんじゃないの?」
「問題ない。予定を空けてきた」
ちらりと廊下を見ると、リオス付きの従者が一人控えており、苦い顔でこちらを見ていた。
うーん、これは、問題がありそうだ。
公爵家に来てから知ったが、リオスは意外と頑固だ。
こうと決めたことは最後まで貫くし、譲れない一線があるらしい。
そして今まさに、その「一線」が発動している気がする。
たぶんここで「仕事に戻ったほうがいい」と言っても、聞く耳は持たないだろう。
それなら、さっさと練習して満足してもらったほうが早い。
「わかった! じゃあお願いします」
「ああ。……アリィー、俺と踊っていただけますか?」
「よ、喜んで……?」
ダンスの先生に習ったばかりの受け答えで応える。
リオスが差し出した手を取って、広間の中央へ歩いた。
さすが、生まれながらの高位貴族であるリオスは、立ち居振る舞いも堂に入っている。
私は、慣れないハイヒールで転ばないように注意しながら、必死についていく。
……もしかして、リオス、忘れてないよね?
私、この前ちゃんと言ったよね?
――ダンス、踊れないって。
「……君と踊ってみたかったんだ」
「え? いや私ダンスはまだ――」
そう言いかけたとき、音楽が流れ始めた。
なんと贅沢なことに、毎回、楽団が生演奏してくれるのだ。
とはいえ今回は練習用で、三人だけの小さな編成。上達すれば、もっと本格的な楽団が呼ばれるとか。でも私にとっては十分すぎるほど贅沢な音だった。
すかさず、ダンスの先生の声が響く。
「ナタリー様! 音を聴いて! ワン、ツー、スリー、ツー、ツー、スリー……はい、ここ!」
先生の合図で、慌てて足を踏み出した。リオスもそれに合わせて動き始めた。
(右足を後ろ! 左足をえっと……!)
頭の中で必死に復唱する。
私が習ったのは、基本ステップ――その場で延々と足を動かすだけのものだ。
これが意外に難しい。
1人でならなんとか覚えたので、今日はいよいよ相手役と合わせる予定だった。
……が、リオスはそんな基礎など眼中にないらしい。
当たり前のように、踊る時と同じく私の身体を九十度回転させてきた。
「え!?」
「うん?」
(なにこれ!? 習ったのと全然違う! つ、次は右足を前だっけ!?)
リオスが支えてくれるから動く方向はわかるけど、クルクルと回転しながら足を動かしているうちに、頭の中がどんどん混乱していった。
(次は……!? 足を引くんだっけ? 出すんだっけ!?)
混乱したまま足を出す。
だが、その先にはリオスの足があった。
(ヤバい、踏んじゃう! ダメー!)
引っ込めようとしたが、間に合わなかった。
ダンッ!
大きな音が大広間に響き、楽団の演奏も止まる。
「……アリィー?」
どうやら寸前で足を引いてくれたらしく、私の足は床を踏みつけただけだった。
それでも、リオスは困惑した声を漏らす。
「よ、良かった……」
安心したのもつかの間。
数拍置いて、また恐る恐るというように曲が再開される。
リオスは再び動き出し、私も必死に合わせる。
だが混乱は収まらず、「え? え? え?」と声が漏れるたび、まるで彼の足を狙っているかのように勢いよく床を踏み抜いてしまった。
決して狙ってはいないのに、意識すればするほど、足が吸い寄せられるように彼の方へ向かう。
リオスはそのたびに器用にかわす。……さすがだ。
そして、二分の曲が終わる寸前。
安堵のあまり半拍遅れ、とうとう彼の足を踏んでしまった。
「……っ」
「あ! ごめんなさい!!」
「大丈夫だ。大したことはない。……だが、もしかして、全く踊れないのか?」
「そうだよ! 卒業パーティーの時に言ったじゃん! 骨、折れてない!? 全体重が乗ってた気がするんだけどっ」
「……てっきり、俺と踊らないための口実かと……違うのか?」
「はあ? どういう意味? 踊れるならリオスと踊ったし、もし踊りたくないならそう言うでしょう?」
「……そう、なのか」
「子どもの頃、ダンスの練習を父さんや兄さんとしてたんだけど、足を踏み過ぎて相手をしてくれなくなっちゃったんだよね……。それっきり、もういっかって。それより、足は本当に大丈夫?」
相当痛かったはずだ。ヒールで思いきり踏んだのだから。
下手をすれば足の指が折れているかもしれない。
実際、ダンスの練習中に兄の骨を折ったことがある。それで練習は中止になったのだ。
顔面蒼白で確認したのに、リオスはこれ以上ないくらい嬉しそうな顔をしていた。
「え? なに、どういうこと――きゃ!?」
最後まで言い終わる前に、リオスに力強く抱きしめられる。
「へ?」
「嬉しい」
「なにが?」
「君と、初めて踊るのが俺だということが」
私はそっと彼の胸から顔を上げ、碧い瞳を見つめた。
至近距離で視線が絡むと、胸が妙に熱くなる。
「……そういうもの?」
「ああ」
「でも、まだちゃんと踊れないわ」
「これから踊れるようになる。君の練習相手は俺だけだ。いいね?」
「え、でも……アンゼリカ様に相談しないと」
「それは俺が話をつけておく。次の練習は……三日だけ時間をくれ」
「私はいいけど、アンゼリカ様がいいって言うかな……」
「大丈夫だ」
蕩けるような笑顔で見つめられ、一瞬ここがどこか忘れかけた。
けれど、ここは大広間。
楽団員もいれば、ダンスの先生もいる。
そして、私たちは完全に注目の的だった。皆が頬を染めてこちらを見つめていた。
「きゃー!!!」
恥ずかしさに耐えられず、思わずリオスを押しのける。
変な空気のまま、彼は上機嫌で執務室へと戻っていった。
――やっぱり彼は、羞恥心がなさすぎる。
このままだと私は、いつか恥ずか死ぬ気がしてならない。
今度、しっかりと注意しようと、心に決めた。




