起点
ナタリーが公爵領に来て、二週間が過ぎた。
彼女が俺の部屋で眠るのは、もはや日常の一部となっていた。
今では、手を繋いだまま眠るための工夫も身についた。
そう、雑念を事前に落ち着かせておけばいいのだ。
彼女が来る頃には、俺はもう悟りを開いた賢者のような境地だった。
彼女が眠ったあとは、俺も頭を空っぽにして眠る。
そうすれば、朝になる。
……ただ、使用人たちが毎晩、意味深長な差し入れをしてくるのは、本当に勘弁してほしい。
わざわざ寝る前に、精がつくとされる菓子や飲み物を選んで置いていくのだ。
干しイチジクとアーモンドの焼き菓子。蜂蜜入りのホットチョコレート。
そしてナタリーは、それらを嬉々として頬張る。
「寝る前に食べるお菓子、サイコー!」
……使用人たちの意図を、彼女に説明するのはさすがにためらわれ、俺はそれを微妙な心持ちで見つめている。
持ってこないように何度も言ったが、ナタリー自身が「今日はないの?」と侍女に訊くものだから、結局は持ってこさせることになった。
俺は、彼女から勧められても絶対に口にしなかった。
せっかく心を落ち着けているのに、意味がなくなるではないか。
彼らはおそらく、俺とナタリーが寝室を共にしていることで、変な誤解をしている。
そんな余計なことは考えたくない。
今はただ穏やかに、彼女と過ごすことを心がけている。
彼女は就寝前に、明かりを消すことを嫌がった。無理もない。
彼女が誘拐され連れていかれた部屋は、暗い小屋だった。
怖い経験を、思い出してしまうのだろう。
寝室では、毎晩、小さな灯りを点けたまま眠る。
彼女が少しでも安心できるのなら、それでいい。
今夜もまた、彼女と手を繋いで横になった。
いつもなら、驚くほどすぐに眠る彼女が、今夜はなかなか寝付けないようだった。
静かな闇の中、ふいに彼女が囁いた。
「……迷惑かけちゃって、ごめんね?」
彼女にしては、元気のない声だった。
「……何のことだ? 迷惑なんて思っていない」
「でも、灯りを点けてたら、眠れないんじゃない?」
眠れない理由は灯りではなかったが――
そんなことは言えるはずもなく、心の中でそっと打ち消した。
「そんなことない。問題ない」
「そう?」
「ああ」
「……あのね、あなたが近くにいるって思うと、なんだか安心して、ぐっすり眠れるの」
「そうか」
「怖い夢も、見なくなったわ」
「それなら、よかった」
ゆっくりと何かが染み込んでいくように、胸の奥が温かくなった。
繋いだ手はそのままに、彼女はもう片方の手で俺の腕に絡まるように身を寄せた。
しばらくの沈黙のあと、彼女がぽつりと口を開いた。
「私ね……あのとき……女の人がナイフを振り上げたときね。……死ぬって、思ったの」
「……」
「……すごく、怖かったんだと……思う。でも、あなたが助けに来てくれた。私をかばって、身代わりになってまで……。私にとって、あなたって、小説に出てくるようなヒーローなのよ」
彼女の声は、震えていた。
俺の左腕が、彼女の涙で濡れている。
「ねえ。もし、また……攫われても……助けに来てくれる……?」
「もう二度と攫わせない。だが……もしも、万が一そんな事態になったら、必ず、君を助けに行く」
「絶対、だよ?」
「もちろんだ」
俺は右手で、彼女の背中をそっと撫でた。
しばらくそうしていると、彼女の寝息が聞こえてきた。
その音に耳を傾けながら、俺も静かに目を閉じる。
昼間の彼女は、あの事件を恐れている素振りなど一切見せない。
むしろ、悔やむ俺を励ますほどだ。
だが、そんな単純なものではないのだ。
彼女の心の傷は、きっと深い。
当然だ。
すべて俺が悪い。
彼女を守り切れなかった俺の責任だ。
あの時、もっと……護衛を増やすべきだった。
彼女の傷は、短期間で癒えるものではないだろう。
ならば俺は、一生をかけて、彼女が心穏やかでいられるように努めたい。
そのためには、まず彼女の周囲の守りを、確実かつ強固に整えなければならない。
だが、それだけでは足りない。
最近ずっと、俺が彼女のためにできることは何だろうと考えていた。
俺ができること。
――ウィンターガルド公爵家を強くし、彼女に手を出そうと考える愚か者が生まれないようにすることだ。
これまでは、王家に対して控えめに振る舞ってきた。
だが、もうその時代は終わりだ。
これからは、「扱いにくい公爵家の次期当主」として、堂々と強気で渡り合う。
決して、弱みは見せない。
武力、経済、政治――三本の柱で、誰にも揺るがせぬ公爵家を築く。
武力は力になる。
経済力は武器になる。
政治は守りとなる。
すべては、ナタリーを守るためだ。
まずは、武力だ。
軍の再編と拡大に着手する。
訓練水準を引き上げ、騎士団だけでなく常備兵の質も高める必要がある。
特に隠密隊は、重要な戦力になり得る。
忠誠心の高い者をどう育てるか。今から構想を練っておくべきだ。
徹底した訓練と思想教育を施さねばならない。
闇魔法士の隊員を増やせたら理想的ではあるが、闇魔力は生まれ持った資質に左右される。容易ではない。そういえば、ナタリーを襲ったあの忌々しいグレイン伯爵家は、代々闇魔法の家系だったな。どうやって闇魔力を受け継いでいったのか聞き出そう。そして公爵家に活かすのだ。
領地の防衛体制も見直す。
外郭に壁を築く。
出入口には検問所を設け、領民および来訪者には身分証を発行し常時携帯を義務づける。
来訪者には滞在期限を設け、違反者には罰を科す。無許可の侵入者には、より厳しい罰を。
これで、ある程度の不審者は排除できる。
転入に関しても、審査を厳格にし制限する。
理由は「人口増加による混乱防止」とでもしておけばいい。
次に、経済だ。
公爵領内には、魔鉱石の鉱山がある。
これを軸に、流通と価格を公爵家主導で管理できる体制を整える。王国内の魔鉱山所有者たちを集め、機関を設立しよう。魔鉱石鉱山協会と名付けよう。協会内で年単位の流通調整を行い、価格操作も可能とする。王家に一目置かれる存在に育て上げる。
さらに、商会も設立する。
表向きは交易を目的としながら、裏では情報収集を担わせる。
諜報員を王国各地に潜らせる際、商取引の名目があれば自然に動ける。
従業員の大半は、事情を知らぬ領民たちだ。
諜報活動の拠点であり、同時に雇用創出の場にもなる。
経済が回れば、人々の生活は安定し、心にも余裕が生まれる。
経済が潤えば、領民の心が潤う。
莫大な経済力は権力を生む。
その権力は、敵意を抱く者の足を止める、見えない剣となるのだ。
そして最後に――政治。
設立予定の魔鉱石鉱山協会が肝になる。
数年のうちに、協会を議会において無視できぬ派閥へと成長させる。
俺が中心に立ち、王家にすら影響を与える政治力を得るのだ。
なんとしても魔鉱石鉱山協会を実現する。
同時に、平民にも最低限の教育と福祉を施す。
ただし、その教育には「公爵家への感謝と忠誠」を組み込む。
公爵家を敬い、忠誠を誓わせ、決して牙を向けようなどと思わぬように。
与えると同時に、誇りと従順を育てるのだ。
民を支配する手段は、恐怖だけではない。
恩義こそが、最も確実に心を縛る。
父上は、武力で公爵家を守ろうとした。
だが、それでは不十分だった。
武・政・経、あらゆる角度から、策を講じねばならない。
すべては、ナタリーを守るためだ。
二度と、ナタリーに害意を向ける者が現れぬように。
(……俺のすべてを懸けて、彼女を守る)
彼女のために、できることはすべてやる。
彼女には、安全な場所で、何の憂いもなく、笑っていてほしい。
そのためなら俺は、何だってやってやる。
そうして、覚悟を決めた。
――この夜をもって、ウィンターガルド公爵家は大改革へと踏み出し、やがて王家すら容易には干渉できないほどの独立性と力を手に入れることになる。
これは、後世にも語り継がれる優れた大改革となった。
だが実のところ、それはただ、愛する妻を守るためだけに行われたものだった。
その事実を知る者は、ほとんどいない。
「番外編:事件の後遺症編」は今回で完結です。
ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございます。
ナタリーの後遺症をきっかけに始まったこの「大改革」は、やがてウィンターガルド公爵家が、王家ですら無視できないほどの力を持つ礎となっていきます。
グレゴリオスは公爵家三代目当主にあたり、この代で公爵家の政治・軍事・経済の基盤がほぼ完成したとされます。
ちなみに、初代公爵と二代目の物語も構想はあるのですが、大改革+バトルものになってしまいそうで、恋愛要素がほとんど消えてしまううえに、長編化が確実なので、今は見送っています。
なお、二代目(グレゴリオスの父)は、次話に登場予定です。
お楽しみに!




