悪夢のおわり
「ほんとーに! ごめん!!」
朝起きると、ゴリラが優しく微笑んでこちらを見ていた。
夢かと思ったけれど、すぐに夜中の出来事がよみがえり、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
悪夢で泣くなんて、まるで幼い子供みたいだ……。
しかもずっと手を繋いで寝かせてもらうなんて……。
今はひたすらにゴリラに謝っているところだ。
私を起こさないようにと、一晩中ずっとベッド脇で手を握ってくれていたらしい。
(でも、おかげで久しぶりに熟睡できたかも)
思えば、この数日はまともに眠れていなかった。
でも、ゴリラに手を握ってもらうと、不思議と怖い夢は見なかった。
「謝ることは何もない。君の寝顔が見られたんだから役得だな。またいつでも呼んでくれ」
きっと眠っていないだろうに、ゴリラは爽やかな顔で言った。
私の恋人が神すぎる。
そのあと、夜中に迷惑をかけた護衛の人たちにも、謝りまくった。
「迷惑じゃないですよ」「気にしないでくださいね」と、みんな優しかった。
……泣きそうになった。
一人で熟睡しようと意気込んだものの、それからも毎晩うなされてしまい、駆け付けたゴリラに手を握ってもらっていた。
朝、目を覚ますと、いつもベッドの隣に置かれた椅子に、ゴリラが腰かけていた。そんな日々が続いた。
ゴリラは夜に眠れていないらしく、昼に仮眠を取っていると聞いて、申し訳なさすぎた。
数日経った頃、就寝前にゴリラが私の部屋にやってきた。
「うなされるのは辛いだろう? 今夜から君が眠る前から、目覚めるまでずっとそばにいる。安心するといい」
「えっ、寝始めからずっと……? でも悪いし……。私のせいで、夜に眠れていないんでしょう? 昼に仮眠をして、執務に支障が出てるって聞いたわ」
「誰がそんなことを……。昼にできないなら、夜に仕事をすればいいだけの話だ。ほら、今日は書類を持ってきた。俺は君の隣で、ただ仕事をするだけだ」
ゴリラは微笑みながら、手に持った書類の束を掲げて見せた。
「……でも、寝るところを見られるのは、恥ずかしいわ……」
「ははっ、今さらだろう? もう何度も見ている。君は安心して眠るといい。俺が君を守る」
「……本当にいいの?」
「ああ」
「ありがとう」
その日から、ゴリラは私が眠っている間に執務をするようになった。
書類をめくる音や、ペンが走る音を聞きながら、私は眠りについた。
朝までぐっすり眠れた。
ゴリラは相変わらず昼に仮眠をとっているらしい。
本人は「夜に仕事をしているだけ」と言っているけれど、どうやら部下の人たちまで夜勤に巻き込まれているようで、最近はみんな昼間に眠そうな顔をしている。
私のせいで申し訳ないから、「もう大丈夫」と何度も伝えたけれど、「補佐役の部下は、日替わりで担当を変えて夜勤を調整しているから問題ない」と言ってゴリラはやめようとしなかった。
しばらくして、私の部屋の改修が始まることになった。
驚いたことに、内装のデザインをしたのはゴリラらしい。
淡いピンクの壁紙に、白い家具。花柄とレースでまとめられた空間は、可愛いのにどこか上品だった。
あ、あんな可愛いデザインを、ゴリラが……?
もしかすると、タウンハウスの客室のデザインも、ゴリラの趣味なのかもしれない。
でも偶然、私の好みにぴったりだったから、ありがたく使わせてもらおう。
ゴリラが好きなデザインなんだったら、頻繁に部屋に招いてあげようかな。
改装工事の間、私は別の部屋に移ることになった。
通されたのは、扉で仕切られた二部屋続きの豪華な客室だった。
手前の部屋には、小さなティーテーブルと、壁際に書き物用の机が置かれていた。
私の執筆用に、わざわざ用意してくれたらしい。
ありがたい。
奥の寝室には、ふかふかのベッドとドレッサーがあった。
タウンハウスの部屋よりもずっと広く、どこか落ち着いた温かみがあった。
客室とゴリラの部屋は少し離れているから、もし夜中にうなされても、私の声は届かないかもしれない。
もうゴリラが駆けつけることはないだろう。
「本当に、一人でいいのか?」
「……うん! 今日こそ一人で寝るよ。客室だったら、案外眠れるかもしれないし!」
ゴリラはまだ心配そうにしていたけど、私が強く言うと、しぶしぶ納得してくれた。
いつまでも迷惑をかけてはいられない。
ゴリラだけじゃなく、部下の人たちにも迷惑をかけてるんだから。
夢見が悪いのは、もしかしたらあの部屋のせいかもしれないし。
きっと、あの部屋と私の相性が悪いだけだ。
だって、それまでは普通に眠れていたのだから。
***
ここに来てからというもの、入浴後は毎晩、侍女にお手入れをしてもらっている。
それだけじゃない。朝は起こしに来てくれるし、顔を洗うぬるま湯も用意してくれる。
服を選び、髪を結い、化粧まで、すべてしてくれるのだ。
ちなみに、学園寮時代は寝坊の常習犯で、顔を洗わない日もあった。
着るものは毎日制服で、髪はそのまま。邪魔な時だけ結ぶ程度。
化粧なんて、自分でしたことがない。
そんな私だから、正直、いろいろと面倒に思うことも多い。
けれど、公爵家ではそれが当たり前だから、慣れていくしかない。
今夜もドレッサーに座り、髪を乾かしてもらう。
公爵家には、温風魔道具があって、髪が乾くのが速く、しかもふんわりと乾くのだ。
普通なら、布で水気を拭き取るだけ。
冬場は暖炉の前で乾かすのがせいぜいだ。
魔道具は高級品で、平民はもちろん、男爵家でもめったに見かけない。
例外は、王国がインフラ整備の一環として配っている水道魔道具くらいだ。
公爵家では、それ以外の魔道具が当たり前のように使われていた。
「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」
「うん、ありがとう。おやすみなさい」
侍女が退室し、部屋には私一人だけになった。
途端に、しん……と、静まり返る。
初めて使う客室。
そういえば、この部屋には、いざという時用の隠し通路はないんだっけ……?
(……いざという時は、どうしたらいいんだろう)
胸の奥がざわついて、寝室の窓を開けてみた。
ここは二階。そっと身を乗り出して、下を覗き込む。
数人の兵士が、距離を取って立っているのが見えた。
ほっと胸をなでおろしたのも束の間、嫌な想像が頭をよぎる。
(……この人たちが、もし裏切者だったら……?)
ぞくりと寒気がした。
「ひっ……」
窓を開けていた私に気づき、窓の下の兵士たちが一斉にこちらを見上げた。
慌てて窓を閉める。
(そうだよ……あの時だって、突然誰かが化粧室に入ってきて、眠らされたんじゃん。またいきなり誰かがこの部屋に入ってきて、眠らされて、さらわれるかも……)
嫌な妄想が頭を占めた。
首筋に、じわりと冷たい汗が伝った。
(遠くに連れていかれて、今度は……助けに来てもらえないかも……)
鳥肌が立つ。
両腕で自分を抱きしめるが、心は少しも落ち着かなかった。
(……安全な場所は、どこ? どこに行けば……)
そんな問いかけに、浮かんできたのは――彼の顔だった。
***
俺の部屋の扉に、ノックの音が響いた。
「ナタリーだけど、開けてもいい?」
彼女だ。
やはり、心細くなって俺を呼びに来たのだろう。
「ああ、今開ける」
最近は、ナタリーが眠りについたあとも、彼女の手を握ったまま夜に執務をこなしている。
ベッドのすぐそばに、簡易の机と椅子を置かせた。
左手が使えないのは不便だが、右手だけでも作業できるように配置は調整済みだ。
仕事を持ち込む前は、床に座りベッドにもたれるようにして眠ろうとしたこともあった。
眠れなくはないが、体に痛みが残り、眠りも浅かった。
そのせいで日中に仮眠を取る羽目になり、仕事の効率も落ちる。
それならばいっそのこと、夜中に執務を済ませたほうがよいと判断した。
付き合わせる部下には申し訳ないが、今は彼女の安心感を優先したかった。
ナタリーの部屋は明日から改修に入るため、今夜から客室に移ってもらっている。
俺は、客室でも彼女の手を握って過ごすつもりだった。
彼女が安心して眠れるようになるまで、ずっと続けてもいいと思っている。
一人で眠ると言われて心配だったが、やはり、心細くなって俺を呼びに来たのだ。
俺は扉を開けて、彼女に声をかけようとした。
「やっぱり客室に――」
その言葉は途中で止まった。
目に入った光景が、理解できなかったからだ。
白いワンピース型の寝間着を着た彼女が、大きな枕を抱きしめるように抱えて立っていた。
……どうして、枕を持っているんだ?
彼女は言いづらそうに、下から窺うように話し始めた。
「あのね、一緒に、寝てもいいかな……?」
「……は?」
「できたら、こっちの部屋で」
「……は?」
言葉の理解が追いつかなかった。
聞き間違いかもしれない。
頭の回転が遅いのは、視覚的な破壊力のせいか……いや、寝不足だからだ。
「ちょっと……向こうは、怖くて……」
心細い表情をした彼女を見て、俺はやっと我に返った。
今は、彼女を安心させることが最優先だ。
とりあえず、中に入ってもらうことにした。
「そうだな。入ってくれ」
廊下には見張りの兵士もいる。
彼女の寝間着姿など、他の男に見せたくはない。
廊下を覗いて、近くにいた兵士を鋭く睨む。
「今のは忘れろ」と、無言の圧を込めて。
兵士は慌てて姿勢を正していた。
扉を閉めたところで、やはり我に返った。
(……枕? 枕を持ってきたって、どういうことだ??)
少し考え込んでから振り返ると、そこにはもう、彼女の姿はなかった。
「……ナタリー?」
おそるおそる、隣の寝室に向かう。
彼女は、俺のベッドの前にいた。
「おじゃましまーす」
そう言うと、もぞもぞと布団の中にもぐり込んだ。
持参した枕を並べて、ベストポジションを探っている。
「……え? な、なにしてるんだ?」
「あ、左側で寝る派だった? じゃあ右側に行こうか?」
「え? あ? 一緒に寝るつもりなのか?」
「そうだよ! ここだったら安心だもん」
「……いや、それはさすがに、まずいだろう……」
「なんで? 今までも、手を握って一晩中そばにいてくれたじゃん」
「……今までと同じように、俺は床か、椅子でいい」
「なんで?? あなたも横になった方が眠れるでしょう?」
眠れるはずがない。
「いや、じゃあ俺は、隣の部屋のソファでいい……」
「ええ!? そばにいてくれないの? 手を握ってくれないと、また変な夢を見ちゃうよ……」
「……くっ!」
俺は彼女に逆らえず、迷いながらベッドに近づいた。
彼女は笑顔で隣をポンポンと叩いている。
渋々という動作で、ベッドの右側に入った。
だが心は浮足立っていた。
そして心臓はかつてないほど速く打ち付けていた。
彼女は横になったまま、右手を差し出した。
俺はその手を、左手で握った。
「おやすみなさい」
「あ、ああ、おやすみ……」
俺も体を横にした。
すぐに彼女の寝息が聞こえてきた。
いつもの可愛い寝息だ。
……やはりまずいと思い、そっと手を離してベッドを抜け出そうとした。
だが、その瞬間、彼女が気づいた。
「……う、ん……」
寝言のような声とともに、彼女の指がきゅっと俺の手を掴み直した。
(……離せない……)
仕方なく再びベッドに戻る。彼女の寝息を聞きながら、諦めて目を閉じた、その時だった。
「むにゃむにゃ」
「……!?」
ナタリーが寝返りを打ったかと思うと、そのまま俺の胸元に抱きついてきた。
足まで絡められて、俺は抱き枕のようになっている。
柔らかな体温と甘い匂いが、容赦なく俺の理性を削ってくる。
(……これは……これはさすがに……)
俺は朝まで、ひたすらに動かず耐え続けた。
そして――もちろん、一睡もできなかった。
ナタリー「これだったらゴリラも眠れるし、いいじゃーん!」
※なお、グレゴリオスは三日ほど寝不足が続きました。




