悪夢のはじまり
前回、たくさんの評価やブックマーク、リアクションをありがとうございました!
おかげさまで、ランクインすることができました。
今回のお話は、公爵領へ移動したナタリーに訪れる、ある異変のお話です。
どうか最後までお付き合いください。
ゴリラの怪我の安静期間が終わると、私たちはすぐにウィンターガルド公爵領へと向かった。
エーベル男爵領に帰る時は百人の兵を連れて行くと言っていたけれど、公爵領に移動するときも五十人以上の兵が護衛してくれた。
途中の宿も、私が一人でエーベル領に帰る時とは比べ物にならない高級宿で、驚くほど快適だった。
改めて、公爵家の桁違いの経済力と家格を感じた。
無事に公爵領に着くと、私はある部屋に案内された。
そこは、タウンハウスの客室とは違って、シンプルな内装だった。
居間と寝室が扉続きに配置されており、寝室の隣には、将来、夫婦の寝室として使われる予定の部屋があった。ゴリラの部屋は、さらにその隣にある。
つまりここは、ゴリラのお嫁さんのための部屋だった。
「……え? まだ婚約もしてないのに、ここを使っていいの?」
父さんがちょうどエーベル男爵領に着いたくらいの頃、私たちも王都を発った。
だから、婚約の手続きはまだ調っていない。
てっきり客室に泊まるものだとばかり思っていたから、驚いてしまった。
「ああ。近いうちに婚約するのだから、使ってくれて問題ない」
「そ、そういうもの……?」
「ただ申し訳ないんだが……君が来てくれると思っていなかったから、部屋の内装に手を付けられていないんだ。内装を変えるなら、その間は客室で過ごすこともできる」
「内装を変える……? どういうのがいいのかよく分からないし、今のままでも十分よ」
「……君が滞在していた、タウンハウスの客室みたいなのはどうだ?」
「あ! あれはすっごく可愛かった! あんな感じにできるの?」
「もちろんだ」
「楽しみー!」
改装に取り掛かるまでの間は、この部屋をそのまま使うことになった。
「どうせすぐに移動するのなら、客室でもいいんじゃないの?」
不思議に思ってそう尋ねると、ゴリラは薄く微笑んで部屋の扉をそっと閉めた。
そして、静かに口元に人差し指を立てて、寝室の扉を開けた。
中に入ると、ゴリラは声を潜めて言った。
「……実は、この部屋には、隠し通路への扉があるんだ」
ゴリラは私の寝室に入り、ある本棚の前で足を止めた。
「君の寝室のこの本棚には、仕掛けがある。左から三列目、上から五段目の青い背表紙の本を、ゆっくり手前に引く。音がしたら、止めて。次に、その右隣の金文字の詩集を少し傾ける。それで鍵が外れる。最後に、下段の地図帳の背を押しこめば……棚が動く」
本棚が、ゆっくりと静かに動き、奥から扉が現れた。
「……この通路の存在を知っているのは、公爵家の人間と執事長だけだ。他の使用人は誰も知らない。君も、決して口外しないでくれ。客室に隠し通路はないから、できる限りこの部屋を使ってほしい。この扉を開けられるのは、この部屋からだけだ。通路側からは開けられないが、閉めることはできる。起こらないとは思うが、万が一のときは、ここから逃げてくれ。通路側から棚を引けば、自動で棚は元の位置に戻る。避難経路の存在に気づく者はいないだろう」
とんでもない秘密を聞いてしまった気がした。
緊張感に心臓が高鳴った。
「この通路は、公爵家の塀の外に通じている。出口にはいろいろ物資も置いてあるから非常時は使ってくれ」
「う、うん……ここって、そんなに危険なの?」
「いや、念のためだよ。この避難経路を使用したことは、これまで一度もない。公爵家の近くには軍施設があるし、公爵家は多くの兵士に守られている。ここは、どこよりも安全だ。そして君の護衛は、特に多く配置されている。この部屋は二階だが、念のため、窓の下には数名の兵士を常に置いている。だから安心していい。君は、守られている」
「……わかった。ありがとう」
(ここは、安全なんだ。……もう、危険な目には遭わないんだ)
安心して、ふっと肩の力が抜けた。
「……よかった……」
私はゴリラと微笑み合った。
ゴリラは私の手をぎゅっと握った。
もう大丈夫だよ、と言われた気がした。
でも、その夜から、私は悪夢を見るようになった。
***
「……ナタリー、眠れていないのか?」
「……え?」
ゴリラからそう指摘されたのは、公爵家に来て三日後のことだった。
「目の下にクマが出来ているが……?」
「え、ああ、うん……執筆が捗ってね! つい夜更かししちゃってるの!」
「そうか……? あまり無理しないようにな」
「うん!」
最近、変な夢を見て、怖くて夜中に起きることを繰り返していた。
内容はいつも曖昧で、朝になればほとんど思い出せない。
けれど、目覚めるたびに心臓が早鐘のように打ち、身体が冷えているのだけは確かだった。
それを繰り返してるうちに、眠れなくなるのだ。
怖くてもそのまま起きなければ、案外楽しい夢かもしれない。
今日こそは朝まで寝ようと、気合いを入れて、眠りについた。
***
「いやああああああ!! 助けて!!」
俺は、夜中にナタリーの悲鳴で飛び起きた。
非常事態だ。
ベッド脇に置いてある護身用の長剣を掴み、廊下に向かって叫んだ。
「警備兵!」
「いま向かってます!」
(まさか……また刺客か? ナタリーの部屋を狙って――)
夫婦の寝室を駆け抜け、鍵を使ってナタリーの寝室へ続く扉を開けた。
ちょうど向かいの扉から警備兵たちが飛び込んでくるのが見えた。
手元の灯りをかざし、目を凝らしてナタリーを探す。
「ナタリー! 無事か!?」
そう言いかけた瞬間、ナタリーの悲鳴にかき消された。
「来ないで!! 殺さないでーーー!!!」
それは、悲痛な叫びだった。
ベッドには、彼女以外いなかった。
彼女はまだ夢うつつのようだ。
すぐに警備兵に命じて、屋敷や部屋の周囲に異変がないかを調べさせる。
ざっと寝室を見た限りでは、誰かが侵入した形跡はない。
窓も閉まったままで、棚や扉に異常は見られなかった。
「いやあぁぁ!」
「ナタリー、大丈夫だ。俺だ。グレゴリオスだ」
「グレ……ゴリラ……?」
「……ああ。もう大丈夫だ」
呆然とした瞳に、涙が止まらずあふれていた。
肩で息をしていた。
部屋の中を調べる警備兵の姿に気付くと、戸惑いの色が走った。
「あ……ごめ……なさい……寝ぼけてた、みたいで……」
「気にしなくていい。もう大丈夫だ」
安心させるように彼女の肩を撫でた。
彼女はさらにぽろぽろと涙をこぼした。
念のため屋敷の周囲をさらに調べ、朝まで廊下や屋敷周りの守りを強化するように警備兵に命じた。
警備兵が下がり、二人きりになると、そっと声をかけた。
「落ち着いたか?」
「う、うん……」
「灯りは点けておくが、一人で大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
「……君が嫌じゃないなら、君が眠るまで、手を繋いでおくが?」
「……ほんとう……?」
「ああ。そばにいるから、安心して休むんだ」
俺はそっとベッドの縁に腰を下ろし、彼女の手を握った。
彼女はゆっくりと目をつぶり、やがて寝息をたてた。
……彼女は事件の後もずっと、何でもない素振りをしていたが、そんなはずはなかったんだ。
彼女は、誘拐され、殺されかけた。
何の訓練も、準備もしていない、か弱い女性だ。
恐怖を感じて当たり前だ。
俺が、もっと気を配るべきだった。
音を立てないように気を付けながら、ため息をついた。
俺が、彼女のために出来ることはなんだろうか。
彼女の眠りが深いものになったのを見計らって、俺はそっと手を離した。
すると……。
「う……うーん」
彼女はすぐに空間を探るように手を動かした。
慌ててその手を握り返すと、彼女はまた、静かに眠りについた。
(……これは、手を離したら起きてしまうか……?)
俺はそのまま、彼女の手を握り続けた。
朝が来るまで、ずっと。
どんなに明るい人でも、誘拐されて殺されかけたら、心が無傷でいられるはずがありません。
そんな思いから、このお話を書きました。
とはいえ、深刻な回は今回のみのつもりです。
次回は【7月25日(金)夜】に投稿予定です。
タイトルは「悪夢のおわり」ですので、ご安心くださいね。




