娘を託した夜
ナタリー父視点です。
俺は部屋で一人、これまでに得た情報を整理していた。
(もしかして公爵令息は、本当に、娘が好きなのか……?)
使用人に嘘を言わせた可能性もあるが、だが、それにしては話の中身が、あまりにもナタリーらしすぎた。
公爵令息に「ヒョロ男」と言える奴なんて、あいつ以外にいないだろう。
昼過ぎ、俺はナタリーを部屋に呼び、あらためて問いかけた。
「本当に公爵令息と結婚したいのか? 公爵家ってのはな、お前が思ってる以上に、ずっと大変なんだぞ?」
目を丸くした娘は、しばらく考えた後にこう答えた。
「たしかに、すごく大変かもしれないけど、結婚するなら彼がいい。あのね、誘拐されて、死ぬかもって思ったときに浮かんだ後悔が、小説家になれなかったことと、彼の求婚を断ったことだったの。彼は、その両方を叶えればいいって言ってくれたんだよ。実際に結婚したら、今ほど小説を書けないかもしれないけど……それでも、私は彼と結婚したい。それに、やってみないと分からないでしょ?」
……甘い。
娘の考えは、あまりにも甘い。
貴族の世界は、そんな甘いものではない。
男爵家に生まれ育った娘に、公爵家に入った後の苦労など、分からなくて当然かもしれない。
だが、娘の決意が固いことは分かった。
どうか娘が傷つくようなことにはならないでほしい。
結局、親にできるのは、そう願うことだけなんだろう。
***
夕食の席には、公爵令息の姿があった。
どうやら、安静期間を終えたらしい。
マイペースに食べる娘と、それを嬉しそうに見守る公爵令息の姿は、誰がどう見ても相思相愛だった。
公爵令息は俺にも話しかけてきた。気の利く、礼儀正しい男だ。
……気に入らん。
この男、欠点はないのか。
娘は食べ終わると、書きたいものがあると言って、すぐに自室に戻った。
マイペースにもほどがある。
少しは、俺と公爵令息との仲でも取り持とうって気はないのだろうか。
仕方なく、公爵令息に声をかけた。
「……二人で、少しお話ししませんか?」
「……もちろんです」
案内されたのは、屋敷の一番奥にひっそりと構える、重厚な扉の向こうだった。
扉の内側は、薄暗い照明と古木の香りに包まれた空間だった。
革張りの椅子と、小さなバーカウンター、その奥のキャビネットには銘酒の瓶が並べてあった。かすかに漂う葉巻の香りが、この部屋を男たちの静かな聖域にしていた。
公爵令息は、キャビネットから琥珀色の液体が揺れる小ぶりな瓶を取り出し、慎重に栓を抜いた。
あれは……幻の蒸留酒と名高い銘酒じゃないか。
「それはまた……ずいぶんと希少な酒をお持ちですね」
思わず声を上げた俺に、公爵令息は少しだけ肩をすくめて見せた。
「父のコレクションなんです。俺はまだ飲んだことがないのですが……なかなか美味しいそうですよ。父には内緒です」
そう言って、琥珀の雫をグラスに注ぎ入れる。
蒸留酒の深い香りが、グラスの中から立ちのぼっていた。
続いて、彼のグラスには、淡いルビー色の若いワインが注がれた。
かつてこの国では、安全な飲料水の確保が難しく、軽い酒は水分補給の代わりとしても重宝されていた。
今では水魔道具が全世帯に普及し、そうした必要性は失われた。だがその名残で、若者が葡萄酒やエールを嗜むことに、年齢による厳密な線引きはない。
「今宵は……お時間をいただいて、ありがとうございます。ご縁に感謝して」
若者は緊張した面持ちで、グラスを軽く掲げた。
俺も応じてグラスを傾ける。
音を立てずに、そっと酒を口に含んだ。
琥珀色の液体をひと口含めば、舌の上で広がる芳醇な香りと、喉を抜ける深い余韻に、思わず目を細めた。
これは、すぐ酔ってしまいそうだ。
「――エーベル閣下、昨日は大変失礼しました。閣下がお怒りになるのも、もっともです。ただ、私が彼女を騙したり利用することは断じてありません。今までも、そしてこれからも。彼女には、いつも笑っていてほしい。私の願いはそれだけ……でした」
「……でした? 過去形ですか?」
思わず口に出た。
それまでまっすぐに俺を見据えていた碧い目が、言葉の最後で伏せられた。
そして何かを決意するように、再び俺をまっすぐ見つめてきた。
「正直に言いますと、今は違います。今は……彼女には、俺の隣で笑っていてほしいと、思っています」
……そういう意味か。
純粋な想いを真っ向からくらって、俺は酒以外でも酔いそうな気分になった。
公爵令息の目元は少し赤みを帯びていた。
いろいろと勘ぐっていた自分がバカらしく思えた。
俺は勢いよくグラスを空にした。
彼はすぐに次を注いだ。
大事な娘をやるんだ。
これくらいはいいだろう。
……いいよな?
後で公爵に怒られないか、少しだけ気になった。
「それにしても……なぜ、ナタリーなんです? あなたほどの方なら、他にも良い縁談が山ほどあったでしょう」
「……前にもお伝えした通り、きっかけは一目惚れなんです。彼女を初めて見た時、時が止まったような気がしました。そして、その時に彼女は……なぜか突然、小走りで弾むように駆け始めたんです。それが、とても可愛くて……目が離せませんでした」
……それは、たぶんスキップだ。
たまに村の子どもたちが遊ぶ時に、しているやつだ。
あいつ、学園で何やってるんだ……。
見る人によっては、ただの奇行だぞ。
公爵令息は、そんな突飛な行動をする女の子を見たことがなかったんだろう。
周りにいないタイプだから、目を引いたのか?
慣れたらすぐに飽きられるんじゃないか?
大丈夫なのか?
少し心配になった。
「すぐに話しかけたかったんですが、なかなか勇気が出なくて……。男らしくないですが、彼女のクラスメイト達に声をかけて、彼女の好みなどを聞き出そうとしました。でも、異性の好みは分からず、皆が口をそろえて『肉が好き』と言ったので、まずは昼食に誘い肉料理を出すところから始めました。その時に一度、彼女には交際を断られてるんですが、諦めきれずにその後も……」
……この男は何を言っているんだ?
その口から語られる娘は、まるで女神のような存在だった。
目の前にいたのは、女神に選んでもらうために必死に努力してきた、ただの男だった。
そして、話の大半は、けっこう不憫だった。
娘が思い付きで仮面舞踏会に行った話は、聞いていてハラハラした。
この誠実な青年に保護してもらえて感謝だ。
公爵領の軍服まで着て、汚名になったかもしれないのに、娘のためにそこまでしてくれる男は他にいないだろう。
娘をかばって刺されたところまで聞くと、もう結婚に反対する理由は見当たらなかった。
むしろ同情しかなかったし、娘の無神経なところに呆れすらした。
無作法だとは思いつつ、俺は革張りの椅子に身を預け、上を見上げてひとつため息をついた。
長女が嫁に行った時も何とも言えない喪失感があったが、娘が嫁に行くのはやはり、寂しいものだと痛感する。
結婚を認めたら、ナタリーはそのまま公爵家の領地へ行き、みっちりと行儀作法を仕込まれるだろう。
それでも次期公爵夫人としての振る舞いは、間に合わない可能性の方が高い。
そこは娘が努力しなければならない。
つい数日前までは、これからも村で一緒に暮らせると思っていただけに、娘が帰って来ないことを受け入れるのは辛かった。
だが、娘をここまで想ってくれる男は他にいないだろう。
「娘は、小さいころから手がかかりませんでした。5人きょうだいの真ん中だったこともあって、俺ら夫婦はついほったらかしにしてしまったんです。そのことに気づいてからは、話しかけるようにしましたが、もうすでに大きかったんであまり効果がなかったかもしれない。卒業後に、村に帰ってくるっていうんで、夫婦で楽しみにしてたんですよ……。畑の手伝いをさせて、余った時間に好きな小説を書けばいい。今までさみしい思いをさせてたんで、ゆっくり時間をかければいいと。そのうち、村の信用できる青年でも選んで結婚させて、孫の顔を見ながら老いていくのを想像してたんです……。……そうか……そうなのか……ナタリーは、もう村には帰ってこないんだな……」
最後は声が掠れた。
視界がぼやけたが、蒸留酒のせいだ。
泣いてなんかいない。
「あなたが大切に育ててくださったナタリーを、生涯大切にすると誓います。俺には、彼女だけです。彼女が笑顔でいられるように、努力します。もう危険な目には遭わせません」
こんな誠実な男に、惚れない方がどうかしているな。
また一口、飲まずにはいられなかった。
「よろしければ、もう一杯いかがですか?」
差し出したグラスに、琥珀の雫が満ちていく。
「……ありがとう。君にも」
俺は彼の空になったグラスに、ワインを注いだ。
「……改めて、娘とグレゴリオス君の結婚に、乾杯」
上手いはずの蒸留酒は、なんだか少し苦い気がした。
グラスの音が、やけに響く夜だった。




