一触即発と接触禁止令
ナタリー視点です。
「この結婚は認められない。諦めるんだ」
父さんのその言葉で、場の空気が一気に張り詰めた。
私たち以外にも、廊下には執事や使用人が数人いた。
でも誰も、一歩たりとも動こうとしなかった。息を潜めている。
重い沈黙を破ったのは、父さんだった。
「さあ、一緒に男爵領に帰ろう」
「エーベル男爵、理由を伺っても?」
すかさずゴリラが、冷静な声で切り返した。
一触即発――まさに、そんな空気だった。
「……男爵家と公爵家では、家格差が大きすぎます」
「家格は関係ありません。両親も認めています」
「……娘が不幸になる結婚は、認められないということです」
「不幸?」
ゴリラはわずかに眉をひそめた。
父さんは、私の方をじっと見つめてきた。
「ナタリー、少し二人で話せるか?」
「え、うん……」
返事をしたあと、ゴリラの方を窺うように見た。
彼が不愉快になっていないかも気になった。
それにしても、まさか父さんが反対するとは思わなかった。
ゴリラは緊張を滲ませつつ、執事に命じて私たち親子を応接室に案内させた。
……私は、ここで気づいてしまった。
(いる。応接室の中に……姿を消した隠密隊が)
慣れとは恐ろしいもので、数日間タウンハウスにお世話になっているだけで、隠密隊の気配をなんとなく感じられるようになった。
目には見えないけど、なんとなくわかる。
最初は分からなくて、ゴリラに確認した。
「今いるの?」「いる」「いない」と……挨拶みたいな調子で気軽に。
だいたい、ゴリラの部屋で執筆するときは、隠密隊は部屋に入って来なかった。
さっきキスしたときも、いなかった……はずだ。――いないでほしい。
でも庭園に散歩に出るときや、屋敷の中を歩いているときなどは、侍女以外にも気配があった。
実際に私は誘拐されたわけだし、安全のためなのだろうと特に気にしていなかったけど。
その気配が、いまある。
盗み聞きしてる。
父さんが不敬なことを言い始めたら、私が殴ってでも止めなければ。
公爵家のタウンハウスの応接室は、男爵家とは比べ物にならない豪華さだった。
そのソファに、私たちは向かい合って腰を下ろした。
紅茶が運ばれてくるまで、父さんは一言も話さなかった。
使用人たちの足音が完全に消えたころ、父さんが重い沈黙を破った。
「ナタリー……。どう考えても……お前は騙されている」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に、一瞬、理解が追いつかなかった。
……え?
もしかして、ゴリラが私を騙してるって言ってる?
こ、これは不敬に入る……?
詐欺ってこと?
不敬? 不敬だよね? 殴る?
じゃないと父さんが不敬罪で罰を受けちゃう?
「お前に何度も求婚状をくださる方だから、よほどお前を好いてくれているのかと思っていたが……」
「え? そうだよ? 彼は私をすっごい好きでいてくれてるの!」
父さんはため息をついて、私を憐れむような目を向けた。
なんだかすごくムカついた。
「お前は、私たちの大切な子だ」
「えっ、なに急に……う、うん」
「私たちにとって、お前は可愛い」
「えへへ……」
急に褒められて照れた。
父さんからこんなふうに言われたのは初めてで、ちょっとうれしかった。
「だが、こんな豪華な屋敷に住んで、公爵家の嫡男で、さらにあんな美男子が……お前を選ぶわけがないだろう?」
「ひ、ひどい!!」
驚きの急転直下だった。
「何か裏があるに違いない。別に、結婚相手はお前じゃなくてもいいはずだ」
「そんなことないってば!」
「ろくに貴族のマナーも身につけていない、野原を駆け回っていたようなお前が、選ばれるとは思えん。もしかすると、公爵令息の本命は平民なのかもしれないぞ? お前を隠れ蓑にして、形だけの妻にしようとしているのではないか?」
「そんなことっ……! ……って、なにそれ、面白い!!」
思わず、その話の続きを想像してしまった。
(お飾りの妻からの、離縁で田舎で事業を起こして――それで大成功する話とか?)
小説にしたら、めちゃくちゃ面白そうだ。
ストーリーを膨らませていると、父さんはまた話し出した。
「とにかく、お前は騙されているんだ。いいように遊ばれて、最後には捨てられるかもしれない。お前が傷つくことが分かっていて、送りだせないだろう」
「……父さん……」
父さんがめちゃくちゃな妄想をしていることだけは分かった。
さすが、我が父である。
(でもまあ、それは……そうだよね)
あんな見た目も家柄も性格もそろった完璧な男性が、私を好きになるとか、普通は思わない。
……私だって、不思議に思ってる。
別に結婚を急いでるわけじゃないし、一度領地に帰って、父さんを納得させれば、それでいいか。
それに、もう荷物は先に送ってある。中には、今まで書き溜めた小説ネタ帳もある。
大事なそれらがちゃんと届いているかの確認もしたかった。
ゴリラには何度か「帰る時期」を聞いたけど、なんとなく曖昧にされていた。
この機会に、帰っておくのもアリだ。
「うーん、父さんがそこまで言うなら、まあそのうち帰ろうとは思ってたし、一緒に帰ろうか――」
そう言いかけた瞬間。
応接室の扉が、バン!と勢いよく開いた。
私と父さんはびっくりして、扉の方を見た。
そこには――
……絶対安静のはずのゴリラが、立っていた。
ていうか、さっきから全然安静にしてないんだけど。
それにしても公爵家のタウンハウスとはいえ、ノックもせずに扉を開けるなんて、なかなか無礼な行為だ。
だが鬼気迫るゴリラに、誰も何も言えなかった。
ゴリラは、当然のように私の隣に腰を下ろした。
……さっきも思ったけど、彼はなかなかの厚顔無恥かもしれない。
キスしてたところを相手の親に見られて、それでも堂々と自己紹介できる人間なんて、なかなかいないと思う。
私は恥ずかしくて死にそうだった。
「エーベル男爵、ナタリーには、ここに残ってもらいたい」
思いっきり私たち親子の話の続きだった。
どうやら話を聞いてたらしい。
おそらく通信魔道具か何かを隠密隊が持っていて、会話の内容は、きっと最初から全部ゴリラに筒抜けだったのだろう。
たまに、彼が寝室で使っているのを見たことがある。
そんな高級品、私は使ったことないけど、公爵家ともなるとたくさん持っているらしい。
「……っ、話を聞いていたんですか。では無礼を承知で伺いますが、あなたの目的は何ですか? どうしてナタリーを選んだんです?」
「彼女に一目惚れをした。彼女と結婚したい。求婚状を送ったはずだ。あなたが思うような、変な思惑はない」
「一目惚れ……まあ、容姿は整っていると思いますが……。ですが、こいつは、見た目のような性格じゃありませんよ。中身を知れば、きっと幻滅して離れたくなるでしょう」
「え!? 父さん、ひど……!」
父さんにそんなふうに思われていたなんて、ショックだった。
さっきは可愛いと言ってくれたのに。ひどい。
「そんなことはない。彼女のまっすぐな性格を好ましく思っている。嘘がつけないところも。回し蹴りができるところも、たくましくて長所だ」
「なっ……! おまえ、学園で何をやらかしたんだっ! 危険なことはするなと、あれほど言っただろう!」
「だって襲われそうになったんだもん! 正当防衛だよ!」
「は!? 襲われそうに!?」
「……それは申し訳ないと思っている。私との仲に嫉妬した女子生徒に、彼女は何度か襲われた」
「なんですと!? あなたが、その女子生徒たちにも思わせぶりな態度を取ってたんじゃないですか!?」
「誓って、思わせぶりにはしていない。ほとんど話したこともない。完全な逆恨みだ。……だが、彼女を危険な目に合わせたことについては、申し訳なく思っている」
彼は静かに言った。けれどその声音には、明確な悔いと、自責の念がにじんでいた。
「報告が遅くなってしまったが、彼女は卒業パーティーの夜に、学園の女子生徒に誘拐された。先ほど話した者とは別の者だ。すぐに救出し、彼女に大きな傷はないが……」
「ど、どういうことなんだ!!」
父さんは声を上げ、ガタリと椅子を押しのけるように立ち上がった。
「そんな危険な目に遭うのに、嫁に出せと!? あんたたちにとってはどうでもいいことかもしれないが……! 俺にとっては、大事な娘なんだぞっ!!」
今にもゴリラを殴りそうな勢いだった。
こんなに取り乱した父さんを見るのは、初めてだ。
不謹慎かもしれないけど、ちょっと感動していた。
公爵家に立てついてでも、私を守ろうとしてくれているなんて。
……さっき、不敬発言を止めるために父さんを殴らなくて、本当に良かった。
娘からのパンチ痕が顔に残ってたら、さすがに格好がつかない。
よく考えたら、殴らなくても口を塞げば済む話だったし。
さすがに父さんが大声で怒鳴り始めると、執事や使用人たちがなだめに入った。
父さんはまだ興奮していたけど、執事がうまく取りなしてくれた。
とりあえず今日はもう日が暮れてきたので、ここに泊めてくれるらしい。
執事が父さんを客室に案内しにいった。
部屋に残った私とゴリラ。
ゴリラは視線を落とし、暗い表情をしていた。
「大丈夫だよ。父さんは何か変な勘違いしてるみたい。誤解が解けたら結婚を許してくれるよ」
「……俺のせいで、君を危険な目に遭わせたことは誤解じゃない……君のお父上が怒るのはもっともだ」
ゴリラは重いため息をついた。
「でも、助けに来てくれたじゃん」
「誘拐させてしまった」
「だから今は、隠密隊をつきっきりにしてるんでしょ? 私ももう遠ざけようとしないから攫われないよ」
「……君は、俺を許してくれるのか?」
「許すも何も、あなたが悪いんじゃないでしょ? 悪いのは犯人たち! それに、あんな事件がない限り、私も覚悟はできなかったと思うし、結果的には良かったんじゃない?」
「ナタリー……これからは君のことを、必ず守る」
彼は私の手を取った。
このまま甘い雰囲気になりそうだったけど、私は一刀両断した。
「そんなことより! 父さんの説得だよ!」
「あ、ああ……そうだな……」
また親に見られたらたまったものではないし、たぶんこの部屋にはまだ隠密隊がいる。
出ていくタイミングを見失ったのだろう。
……気まずすぎる。
ゴリラは公爵家で生まれ育ったせいか、人に見られることに慣れすぎだと思う。
完璧な人だと思ってたけど、羞恥心がないのは大問題かもしれない。
とりあえず、「結婚を認めてもらっていないから」という理由で、触れるのは禁止にしておいた。
ゴリラは絶望の表情を浮かべていたが、大人しく受け入れた。




