第十六話 「恋は命がけ」
※ 今回の話には暴力や流血の描写があります。
これまでよりもさらにシリアスな内容となっておりますので、苦手な方はご注意ください。
なお、物語はちゃんとハッピーエンドに向かっています。ご安心を!
気がつくと、そこは薄暗く、湿った空気の漂う小さな小屋だった。
床には土と古い木材が置かれ、ごちゃごちゃと道具が積まれている。ここは――何かの作業小屋……?
ドレスはそのままだったが、ところどころ汚れていて、手足は縛られている。
(……目の前に、誰かいる……?)
まだぼんやりとした思考の中で、かすむ視界の先にいるその影を、必死に見極めようとする。
そこに立っていたのは、見覚えのある女の子だった。――学園の女子生徒だ。
私をいじめていた誰かじゃない。
水かけ事件や襲撃事件のとき、少し離れた場所からそれを見ていた、大人しそうなモスグリーンの髪の女子生徒。
「え……? なんで、あなたが……」
彼女と目が合った瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。
息が止まるほどの痛みだった。
「なんであんたなんかが! なんでなんでなんで!! なんでグレゴリオス様に、選ばれたのが私じゃないのよ!!」
半狂乱になった彼女は、私を素手で叩き続けた。
縛られた両手で顔をかばう。
痛みはあるけれど、非力な彼女の攻撃は致命的ではない――と思いかけていた。
だが、私の予想はいつも外れる。
彼女は後ろへ下がると、鞄から何かを取り出した。
金属製のそれは、月の光に反射して鈍く光る。
刃渡り十五センチほどの,ナイフだった。
(……さすがに、これはシャレにならない)
これまで私は、どんなピンチでも「物語のネタになる」と前向きに考えてきた。
だけど今は、そう思えなかった。
彼女はゆっくりと、近づいてくる。
私は縛られた手足を必死に動かし、縄がほどけないか試みる。
だが、どれだけ力を込めても、縄はまったく緩まなかった。
彼女の髪は乱れ、目は血走り、口は半開き。
――もう、正気ではないことは、一目で分かった。
その口からは、小さな声で「死ね、死ね、死ね……」という呟きが、途切れることなく漏れ続けている。
……たぶん、私はここで死ぬ。
彼女に殺されるんだ。
だからもう――物語なんて、書けない。
じわりと、涙があふれた。
あーあ……小説家に、なりたかったなあ。
なーりーたーかったなぁぁーーぁ!
恐怖で、息が乱れる。
聞こえるのは、自分の呼吸音だけだった。
……どうせなれないなら。
どうせ、小説家になれないのなら。
――ゴリラのお嫁さんになりたかったなあ。
ナイフが、月明かりを受けて天高く掲げられた。
本当に終わる。そう覚悟した、その瞬間だった。
バンッ!
ドアを蹴破る轟音が、小屋の空気を切り裂いた。
「ナタリー!!!」
……ゴリラだった。
「ゴリ…」
私がその姿を目にした時、
彼女が我に返ったように、ナイフを振りかぶった。。
「死ねえぇぇ!!!」
嘘。やっぱり私、死ぬんじゃん。
でも、最後に、彼を見られて良かった。
死を覚悟した時、何かが私を包み込んだのは――あたたかくて強い、彼の腕だった。
「――っ!」
鈍い衝撃。
そして、目の前で血の気の引くような叫びが響いた。
「いやあああああ!!! グレゴリオス様ーっ!!」
……彼女は、ゴリラを刺していた。
私を庇うように抱きしめた彼のもう片方の腕に、ナイフが深々と突き刺さっていた。
シャツの布地が、じわりと赤く染まっていく。
私は、ただ震えることしかできなかった。
声も出ない。手も動かない。
目の前で彼が血を流しているというのに、何も、できなかった。
「早く女を確保しろ!」
「はっ!!」
ゴリラの怒号が飛ぶ。
その声に応じて、彼のまわりの黒服の人影たちが、一斉に動き出した。
女の悲鳴と怒声が、小屋の中をかき乱すように響く。
ゴリラの腕から伝った血が、滴となって床を濡らしていく。
あんなに凛としていた彼が、痛みに顔をしかめていた。
物語の中なら、こういう時、ヒロインは傷口を押さえるのかもしれない。
でも私は、動けなかった。
「グレゴリオス様を、水魔法で止血だ!」
「ナイフが邪魔で止血できません!」
「治療できる場所まで運ぶべきです!」
「ナイフは抜くな! 余計に出血する!」
「誰か、固定できるものを!」
混乱の中、彼は怪我をしていない方の手を伸ばし、
そっと、私の髪に触れた。
その指先は、かすかに震えていた。
でも、優しくて、あたたかかった。
「君は……無事か? 怪我してないか?」
「わ、私なんて、何ともないわ……!」
「……良かった」
ふっと、彼が笑う。
その笑顔があまりに穏やかで、胸が締めつけられた。
こんなに血が出て、すごく痛いはずなのに。
なのに、私の心配をするなんて。
ナイフが突き刺さった腕のまわりは、じわじわと赤に染まっていく。
けれど、彼の笑顔は崩れなかった。
「君が無事なら……それでいい」
それだけを言い残して、
彼は隠密隊の一人に支えられ、よろめくように立ち上がった。
運ばれていく彼の背を、私はただ見つめることしかできなかった。
(こんなの……好きにならないのなんて、無理でしょ)
ただの男爵令嬢を助けるために、
公爵家の嫡男が命をかけるなんて、普通ある?
私の代わりはいくらでもいる。
でも……あなたの代わりは、どこにもいないのに。
私は、あふれる涙を止められなかった。




