第十五話 別視点
※本話は前半が隠密隊員視点、後半がグレゴリオス視点となっています。
ウィンターガルド軍隠密隊の一員である俺は、この一年ほど、ある男爵令嬢の護衛任務に就いている。
将来の公爵夫人候補だと聞いていたから、きっと典型的な貴族令嬢なのだろうと思っていた。
――だが、まったく予想外だった。
放課後は恋人たちの逢引をこっそり覗いては、なぜかその様子を詳細に書き留める。
変わった……というか、変態……いや、やっぱり変わったお嬢さんだった。
しかも、彼女はなぜか強かった。
あの回し蹴りは普通に効いた。
不意打ちと言うのもあったが、まさか貴族令嬢が回し蹴りをかましてくるとは思わないだろう。
助けようとしたら蹴られた俺って、不憫すぎないか?
そんな変わり者のお嬢様は、次期主であるグレゴリオス様の求婚を、何度も断り続けている。
そして今夜、卒業パーティーを最後に、グレゴリオス様はついに諦めるらしい。
だが、念のため隠密隊から数名がエーベル領へ派遣されることになっている。
しばらくは、領民に扮して、お嬢様の身辺を密かに見守るように命じられている。
……切ないな。
俺は、お嬢様に顔を見られてしまったため、今夜で護衛は終わりだ。
変わり者だけど、面白いお嬢様の護衛は、正直ちょっと楽しかった。
責任感が強く、真面目なグレゴリオス様が、あんなに楽しそうにしているのを見たのは初めてだった。
あの方は、王家に次ぐ力を持つ公爵家を背負うお方だ。
領地は今でこそ安定しているが、先代は王弟として、荒れ果てた土地と領民を押しつけられたような形で継ぎ、相当な苦労の末に立て直したと聞いている。
そんな家を継ぐ立場として、グレゴリオス様は幼いころから、相当なプレッシャーを感じながらお育ちになったんだろう。
俺の知る限り、自分の気持ちを優先したことなど、一度もなかった。
だが、あのお嬢様のことに関してだけは、あのグレゴリオス様が年相応の、少年の顔を見せた。
どうしたらいいか隠密隊にまで聞いてきて、お嬢様に声をかけるまで三ケ月かけてたもんなぁ。
それが、今夜、終わる。
俺まで胸が苦しくなってくる。
なんでダメだったんだろうな。
やっぱり身分差が大きすぎたのか。
お似合いの二人だったのに。
……もったいねぇ。
「銀花の誓い」と呼ばれる告白イベントが始まると、お嬢様は気まずそうに化粧室へ向かった。
俺は化粧室の前で、魔道具のマントで姿を消しながら待機していた。
――すると、中から鼻をすする音と、小さく震えるお嬢様の声が聞こえてきた。
「うう……護衛がいたら聞こえてしまぅ……もしいるなら、今だけは、遠くに行っててほしいよぉ……ぐすっ」
……俺のことだ。
気まずかった。居たたまれなかった。
俺は化粧室の出入口付近に身を潜めていたが、そっと距離を取ることにした。
目は離さない。ただ、声が届かないくらいの距離へ。
――この判断を、俺は一生、悔やむことになる。
あの隙に、お嬢様は誘拐された。
後になって、そう知らされることになるのだ。
***
銀花を渡し、受け取る恋人たちを眺めながら、俺は静かにため息をついた。
(……俺は、本当に諦めが悪いな)
なんでも、諦めて生きてきた。
特に欲しいものなど、なかったが。
生まれた時から、大きな責任を背負っていた。
王家には常に睨まれ、領民は荒くれ者ばかり。
たまたま領内で魔鉱石の鉱山が見つかり、なんとか持ち直したが――
俺の代で着手しなければならないことは、山ほどある。
領地と領民を豊かにするため、俺はただそれだけのために、生きていくつもりだった。
だが、彼女に出会って初めて、心から望むものが出来た。
こんなに浮かれたことはなかった。
だが、同時に焦燥感も生まれた。
なぜ彼女は俺を受け入れてくれない?
彼女は手に入らないのか?と。
……彼女は、物ではないのに。
そう思ってはっとするたび、自分の思考が信じられなくなる。
彼女のことになると、自分が自分でなくなっていくようだ。
もし、どうしても受け入れてもらえないのなら――
いっそ、閉じ込めてしまいたい。
……そんな衝動がよぎるたび、
自分の執着に、強烈な嫌悪を感じる。
彼女は自由だ。
俺なんかが、彼女を閉じ込めていいはずがない。
今ならまだ、離れられる。
彼女に断られたのだから、離れないといけない。
今夜が最後だ。
卒業パーティーために彼女に贈ったのは、すべて俺の色だった。
宝石はゴールデントパーズ。
俺の髪とよく似た、淡い黄色の石で作ったネックレスとイヤリングだ。
以前、俺は彼女の髪を「蜜を溶かしたトパーズを編んだようだ」と例えたことがある。
今回贈ったのは同じトパーズでも色違いで――俺の色だった。
――俺の色に、染めたい。
そんな執着じみた願いを、今も振り払えずにいる。
彼女にとっては、迷惑に決まっている。
売るなら、エメラルドやダイヤの方が高く値が付く。
実用的な価値を考えれば、俺の選択は最悪だろう。
それでも。
最後の悪あがきだけは、どうしてもやめられなかった。
――だめだ。
彼女のことを考えていると、自分を抑えきれなくなりそうだ。
俺は、胸のざわめきを誤魔化すように、会場を見渡した。
(……少し、遅くないか?)
彼女が化粧室に立ってから、もう十分は経っている。
胸騒ぎがしたときだった。
黒服の隠密隊の一人が、足音を立てずに駆け寄ってきた。
「グレゴリオス様! エーベル嬢が、化粧室から姿を消しました!」
「……なんだと?」
すぐに簡単な報告を受け、俺はナタリーが姿を消したという化粧室へ急いだ。
化粧室の中は、静まり返っていた。
ナタリーの姿は、どこにもない。
ただ、洗面台の下に落ちていた木彫りのクマのチャームだけが、彼女がここにいた証のように転がっていた。
それを拾い上げ、手のひらに包むように握りしめると、鋭い声で問いかけた。
「――どういうことだ。詳しく説明しろ」
背後で息を切らしていた隠密の男が、一歩前に出た。まだ若い顔に、焦りと悔しさが滲んでいる。
「お嬢様が化粧室に入られたのは、間違いありません。……私が、入口から確認しておりました」
「それで、なぜ姿を見失った」
「……中から、お嬢様のすすり泣く声が聞こえました。『護衛がいたら聞こえてしまう……今だけは遠くに行っててほしい』と。私の存在に気づかれていたようで……そのため、声が届かない距離まで下がりました。ですが、視線は外していません。出入り口は見ていたつもりでした」
鋭く護衛を睨む。男はたじろぎながらも、言葉を続けた。
「その数分後、モスグリーンの髪色に、黄緑の瞳をした大人しそうなご令嬢が、一人で化粧室に入りました」
(……その特徴は、グレイン伯爵令嬢か)
グレイン伯爵令嬢とは一年生のとき、上級貴族クラスで同級生だった。
ほとんど話したことはないが、時折、ねっとりとした視線を感じることがあった。
「嫌な予感がして、私は出入口に近づき、声をかけました。『エーベル嬢は、中にいますか』と。すると、中から知らない令嬢の声で、『いませんよ』と返されました」
「そのまま、鵜呑みにしたのか?」
「いえ……信じきれなかった私は、化粧室の中に入りました。そこにいたのは、モスグリーンの髪の令嬢と、清掃員の男だけ。確かに、お嬢様の姿はありませんでした」
報告を終えた男は、張りつめた表情のまま、顔を上げた。
(……どうしてナタリーを?)
なんてことだ。
彼女は、ずっと狙われていたのか?
なぜわざわざ卒業パーティーの夜に……?
犯人は、ナタリーがエーベル領に帰ることを知らなかったのか?
知っていれば、エーベル領で誘拐するほうが、よほど簡単だったはずだ。
それを警戒して、隠密隊はしばらくつけておくつもりだったが。
――では、犯人はナタリーがウィンターガルド領に行くと思っている……?
今後、手出しできなくなると焦り、ここで動いたのか。
だとしたら、目的はやはり俺か。
そういえば、グレイン伯爵家からは、過去に何度もウィンターガルド公爵家に縁談の打診が届いていた。
そのたびに丁重に断ったが、それでも打診状はやまなかった。
(縁談を断った腹いせか、それとも――)
「お前が見たその時、ナタリーはここにいたかもしれない」
「え……?」
「……おそらく犯人は、その場にいた令嬢――グレイン伯爵令嬢と清掃員に扮した男だ。紛失した姿隠しのマントがあっただろう。あれを、奴らが拾ったんだろう。ナタリーの姿を消し、お前の目を欺いた。その直後に、連れ去った可能性が高い。」
鋭く命じる。
「今すぐ、闇魔法士を呼べ!」
「は、はいっ!」
悔しさと罪悪感が入り混じった顔のまま、男は走っていった。
姿隠しのマントが行方不明になってすぐ、公爵領から王都へ優秀な闇魔法士を呼んでおいた。
魔力の残滓を探索できるのは、希少な闇魔法士だけだ。
もしマントが悪用された場合、魔道具の痕跡を辿ることができる。
何も事件が起きなければ良かったが、そうはいかなかったようだ。
手の中にあるクマのチャームを握りながら、深呼吸をした。
彼女と街に出かけた時に買った、安価な土産。
でも彼女はとても気に入って、いつも持ち歩いていた。
クマに開けられた穴には、碧色の革紐が通されていた。
俺の瞳の色を、選んだ。
彼女に持っていてほしくて。
――本当に俺は、彼女にとって疫病神だな。
彼女に対する卑劣ないじめも、俺のせいだった。
俺は、彼女の平穏な生活の邪魔しかしていない。
受け入れてもらえないはずだ。
――彼女を必ず助ける。
――そして、彼女を自由にするんだ。
その後の隠密隊からの報告によると、
グレイン伯爵令嬢と清掃員の男は、すでに卒業パーティー会場から姿を消していた。
「隠密隊を全員集めろ! 彼女は攫われた! 全力で探せ!」
「はっ」
頼む、間に合ってくれ。
「今からグレイン伯爵家に向かう。あの家の敷地内をすべて調べろ。庭も地下も、物置の中までだ! 闇魔法士が到着次第、姿隠しマントの魔力残滓を調べさせろ!」
どうか――
どうか、彼女が無事であってくれ。




