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壁の絵

作者: 村崎羯諦

 いつものように最寄り駅の構内を歩いていた時、僕はふと壁に描かれた一枚の絵に目を奪われた。その絵は壁に描かれたリアルな女性の等身大の肖像画だった。


 絵の中の女性は、流れるような長い黒髪を持ち、その髪は優雅に彼女の背中に沿って流れていた。その美しい容姿にもかかわらず、彼女の表情には深い疲れがにじみ出ており、何とも幸薄そうな印象を与えた。その瞳は澄んでいるが、どこか遠くを見つめるような哀愁が感じられ、見る者の心に静かに訴えかけた。


 そして何より、彼女の全体的な佇まいは、現実世界から抜け出してきたかのように自然で、まるで街中を歩いている普通の女性がそのまま絵になったかのようなリアリティがあった。


 よくできた絵だ。僕は感心しながらじっと絵を眺め続けた。しかしその時、先ほどまでは遠くを見つめていた彼女の瞳が、僕をじっと見つめていることに気がつく。そして、不思議なことに、彼女の唇が僅かに動き、何かを伝えようとしているように見えた。僕は自分の目を疑った。しかし、何度見ても、彼女の口元が確かに動いている。私は狐につままれた気分のまま、その場で立ち尽くす事しかできなかった。そして、その間も彼女は、僕に何かを伝えようと口を動かし続けていた。


 その日からというもの、前を通り過ぎるたび、僕はその絵を気にするようになった。毎回、彼女の目と目が合い、彼女は僕に何かを伝えようと口を動かしている。日が経てば経つほど彼女のことを考える時間が多くなり、気がつけば僕は美しい彼女に対して恋に似た感情を抱くようになった。彼女が何を伝えようとしているのかを知りたい。彼女への気持ちが強くなればなるほど、その思いが強くなっていった。


 そして、ある日の深夜。その日の駅から人の気配が消え、静寂が支配していた。僕は周りに誰もいないことを確認した上で、絵の前に立った。絵の彼女はいつものようにじっと僕を見つめ返し、何かを伝えようと口を動かしている。


 僕はためらいながらも絵に手を伸ばしてみた。すると、信じられないことに、彼女も絵の中で手を動かし、僕の手に重ね合わせてきた。僕は目の前の怪奇現象に言葉を失った。しかし、それ以上に、彼女と心が通じたことに対する喜びが勝っていた。


 もっと彼女に触れたい。僕の気持ちが通じたのか、身体全体が彼女に引き寄せられるように、壁の中へと吸い込まれていくのを感じた。重ね合わせた手には柔らかい彼女の手の感触があった。全身が壁を通り抜けていく。絵の中の彼女と目が合い、彼女は僕に微笑みかけてくれる。僕の身体全てが壁の中に潜り込むと、目の前には彼女の身体があった。僕は身を乗り出し、彼女を抱きしめようとした。


 しかし、その瞬間、彼女は僕の腕をすり抜けて、壁の外へと逃げていった。僕は彼女を追いかけるように壁から出ようと試みたが、どうしても出ることができない。壁の外へと出た彼女はその場で泣き崩れていた。状況が理解できない私は壁の中から彼女を見つめ続ける事しかできなかった。そして、彼女は哀れみの表情で私を一瞥した後で、その場を去っていくのだった。


 それから僕は何度も何度も壁から出ようと試みた。しかし、どうやっても壁の中から出ることはできず、絶望は諦めに変わり、壁の中から通り過ぎる人々を眺める日々が続いた。


 長い長い時間が経ったある日。一人の女性が僕の前で立ち止まった。彼女は壁に描かれた絵を見て、以前の僕と同じように感心していた。そして、次の瞬間、僕と彼女の目が合う。僕は僕に気がついてくれた彼女に対し、決して彼女には届かない声で叫ぶのだった。


「代わって」

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