記者 あとがき
こんにちは。三時間しか働かない国は前回で終えましたが、記者のあとがきがあります。
この本の内容やメッセージを振り返りながら読むと面白いです。それでは労働から開放された世界へと浸ってください。
【一日に三時間しか働かない国】の作者、シルヴァーノ・アゴスティに冠せられる肩書きは実に多彩だ。
小説家、詩人、エッセイスト、映画監督、プロデューサー、映画編集者、俳優、評論家、などなど。
ただし、僕が彼が自分で「私は映画監督です。」などと名乗るのを耳にした試しがない。むしろ彼はこうしたレッテルを嫌い、自分が「一人の人間である」というシンプルな事実を強調する。
それは、人間というのは誰しも自然の生み出した傑作であり、どんな人であっても何かを表現し、優れた何かを生み出す力を持っているとする彼の持論に裏付けられた言い回しである。別にはぐらかしているわけではない。
とはいえ、【一人の人間である】だけではやはりよくわからないので、僕なりにアゴスティにラベルを貼り付けるとすれば、「何にも寄りかからない自由な表現者」くらいが穏当な所だろう。
彼の創作活動は、映画に代表される映像表現と小説や詩といった文字表現に大別する事ができるのだが、そのどちらにおいても、彼は自らの表現が誰かに邪魔されたり何処かの組織に抑え込まれるのを恐れ、作品のプロデュースから公開まで、制作の全てを自分で行っている。
それが、「何にも依りかからない。」ということであり、そうやって自立した誰にも義理立てする必要のない表現は、自然と「自由な」ものになる。
ジャンルが何であれ、一様に想像を超えたテーマを掘り下げる事が特徴で、至上の優しさで包み込んでくれるかと思えば、鋭いナイフの先端を喉元に突きつけることもある。こうした表現の幅広さと高い跳躍力は、ぶれる事を知らずにどっしりと構え続ける創作の姿勢に多くを背負っているのではないかと僕は見ている。
例えば映画の場合、アゴスティは自身の制作会社を持っていて、ほとんどの作品で脚本や撮影、編集を自分で手掛け、作家主義の極みといった様相を呈している。一般にこうした手法は、確かに表現の自由を高めてくれはするものの、大規模な制作会社や配給会社による様々なバックアップを得られなくなるわけで、そういう意味では諸刃の剣とも言える。
「僕のハンディキャップは、誰も自由ではない社会の中で一人自由でいる事だ。」とは、彼自身の言葉である。所が、彼がこれまでに監督したフィルムは、常連であるヴェネツィア映画祭をはじめ、世界各地で頻繫に公開されているのだ。まったくもって驚嘆に値する事実だと思う。
また、彼が経営している映画館の壁には、イタリア内外の著名な映画人や作家のメッセージがびっしりと書き込まれており、この監督の広い交友関係を雄弁に物語っている。
例え日本でも有名な作曲家エンニオ・モリコーネはアゴスティの盟友であり、彼の多くの映画にオリジナル曲を提供している。これらのサウンドトラックはモリコーネのスコアの中でもかなり人気が高く、アゴスティ映画のサントラ集がコンピレーション・アルバムとして発売されているほどだ。
映画表現と比して、文字表現の活動は遅咲きであったのだが、採用する方法論は映画製作と変わらない。84年、アゴスティは一冊の小説を書き上げると、原稿を片手に家を出てぶらぶら歩くこと数分、初めに目についた印刷所に足を踏み入れた。作業中のおじさんに一言、
「暇な時でいいから、この小説を製本してくれるかな?」。こうしてアゴスティは自分の出版社リンマージネを設立し、この処女作はイタリアで最高峰の文字賞であるストレーガ賞にノミネートされた。
その後も精力的に小説や詩、評論を発表。2003年には自伝的な長編小説が再びストレーガにノミネートされた。批評家の好意的な反応が手伝ったという要因もあるだろう。リンマージネの出版物は、基本的には提携しているフェルトネッリ系の書店百店ばかりでしか購入出来ないにも関わらず、どの作品も好調な販売数を誇っている。
中でも今回訳出した『一日三時間しか働かない国』は発売から一か月で3000部、これまでに50000部以上を売り上げ、現在ではリンマージネだけではなく、大手のリッツォーリ社が著名に書き下ろしを依頼した改訂版を出版しており、それが全国の書店で平積みされるなど、いよいよ世間的な知名度も上がって話題を呼んでいる。
さて、前置きが長くなってしまったが、この小説の舞台となるのは、アジアの何処かにあるキルギシア。この国では、人々の暮らしのあり方、価値観、行動規範といったものを根底から問い直す改革が実現した所だ。モットーは、人間らしさを尊重する社会であること、誰もが自分の運命の指揮者になれる事。不安のない穏やかな暮らしを生涯送れる事。
こうした当たり前に思えるものの、中々他の国が成しえない社会作りを可能にしているのは、物質的な事だけでなく、ゆとりある「時間」を国民に保障したことだ。
主人公である「僕」は偶然この国を訪れ、色々とつぶさに教えてくれる案内人との対話を通して見聞を広めながら、ただただ感激する。そしてイタリアにいる友人達に向けてその感動をSNSで伝え始めるのである。政治、経済、司法、安全保障、教育、医療、老い、性、犯罪、住宅、メディア・・・。
イタリア(ここでのイタリアはあくまで西洋型社会の例証であり、その意味では日本も同類となるはずだ)が抱えこんでいる難題が、キルギシアではあっさり解決されている(あるいは少なくとも解決にむかっている。)SNSを見た友人達は、まるでSFだとそんな国があることを信じない。つまり主人公(すなわち著者)が提起する言わば究極のオプティズムに対し、そんなものは只の理想に過ぎないと軽くあしらってしまうのである。
彼らの反応は、そのまま読者が抱くであろ感覚とも一致するわけで、そいうう意味では読者は反主人公の立場をとりながらこの物語を読み進めていくことになるのだが、後半になると友人達の様子をも次第に変化していく。
例えば、「家庭内に小さなキルギシアを建国してみた」といった返信が、読者も抱いていた猜疑心を取り払ってくれる効果を果たしている。主人公と案内人の対話。主人公と友達の対話。こうしたやりとりに促されて、物語を読み進める行為がそのまま主人公と読者の有意義な対話になっているのが、この小説の構造的な魅力の一つだろう。
本書でも最後に実名で公開されているヴォーロ(幼いころから実際にアゴスティと親交が深く、作家、DJ、俳優としてイタリアでは抜群の知名度を誇る)は、こんな言葉で本書の読書体験をうまく言い当てている。
「あれは実に不思議な本だったね。はじめの内はどこか遠い国のニュースでも読んでいるような気分だったんだけど、そのうちに僕の中で何か目の覚めるような感覚が生まれている事に気づいたんだ。」
もちろん、設定のうまさ以上に読者を圧倒するのが「キルギシア」という理想社会の存在である。ただ、理想社会といっても、作者はあくまで具体的にそのありようを描写し、抽象的に陥らないよう注意を払っている。
新陳代謝が盛んで汚職の起きない、安定と変化を同時に実現する政治の在り方。休暇の概念が崩れ去ってしまうほどに大幅に削減された労働時間と、それによって倍増する生産性、激減する交通渋滞と酒、タバコ、薬品の消費量、そしてストレス。無料の教育制度が育むいきいきとした子供達。勉強ではなく学びのプロセスを通じて知的好奇心を実践的に耕していく学校。宿題もテストによる適当な競争もなければ、卒業という発想すらない。刑務所もなければ、警察官もいない。人間という自然の生み出した芸術品に危害を加える武器は、土の中に埋めてしまって墓とした。
18歳になると家がもれなく与えられ、一日に一度は食事が無料で振る舞われる。老人は「人生のマエストロ」として尊敬され、交通も娯楽も全て無料。病院は患者達自身で管理されているけど、そもそもキルギシアでは入院の必要ある患者がいない。病院がそもそもあまりなく、どこも空いている。
そして何よりも、改革の果実としてキルギシアの人々が実践できるようになった、眠りや食事、労働や人間関係といったことに関する「人が本質的に求めたり望んだりする八つの事」
イタリアの読者はこうした描写に目を丸くした。表と裏といっていいほどに、描かれている内容がことごとく自分達の現状と食い違うからだ。かなりショッキングな風刺。今読んでいるあなたの読後感はどうだろう?やはり同じような印象を抱いているのではないだろうか。
それは、例えばよく言われるようにイタリアと日本が政治的に相似関係にあるといった背景からだけではないだろう。むしろ、東西冷戦以後に社会主義国家が立ちいかなくなり、インターネットの劇的な普及で加速度的に深化するグローバル化の中で、これまで資本主義の機関士気取りだった国に暮らす人々が、多かれ少なかれ共通して持つ意識なはずだ。
山と背負い込んだ問題に対して場当たり的な解決策しか対応できず、僕達は途方に暮れてしまっている。それはきっと、高度に発達し、肥大化した自由主義経済社会の中で近視眼的なものの捉え方しか出来ず、「いったい僕達はどうなりたいんだろう?」というごくシンプルな問いすら答えられなくなっているからにほかならないのではないだろうか。
そこへアゴスティは、わずか100ページそこそこで、「人間が人間らしく生きていける」理想の社会を提示してくれるのだ。それを実現するには、あまりにも多くの障害を抱え込んでいる。それはわかっている。しかし、だからこそ、僕たちは「こうありたい」という希望を原動力にした想像力を養うべきではなかろうか。この小説におけるアゴスティの簡明な言葉は、その手助けをしてくれるように思う。
現状に不満のある人や人生を無駄にしているんじゃないかと訝しんでいる人。何かと絞られているひとや逆に絞りとる人。自分を愛せない人や他人をいたわれない人。こういった人々にこそ、この物語世界に飛び込んで貰いたい。
そして凝り固まった脳をもみほぐし、新たな視点でまずは身の周りから捉え直してもらいたいのだ。希望を胸にする事で全てが始まるのだから。これは、読み終えるのに時間はさほどかからないが、読み終えた後には長い時間考えさせられる小説なのである。
この本を訳すにあたって、実に沢山の方々にお世話になった。2005年春、イタリアの優れた文化人を独断と偏見でチョイスして日本に紹介しようと、僕は大阪ドーナツクラブというグループを結成した。
この翻訳はその活動の一環である。暖かい言葉で後押ししてくれたメンバーには感謝している。
とりわけ特に翻訳家は、イタリア語の知識のみならず、脚本家、役者として培ってきた豊かな才能を惜しみなく発揮して、作業のあらゆる局面で僕を支えてくれた。
精神的にも、実務的にも、彼の協力なしにこの本が陽の目を見ることはなかったであろう。また、家族は辛抱強く僕を見守ってくれた。皆、本当にありがとう。
野村より