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掌編小説/復員兵タフマン

 吉田元上等兵は偉丈夫で、戦地にいたころ、部下の一、二等兵たちから憧れられたものだ。戦争が終わって少し経ったころに復員。結婚というものをしてみたが長続きはせず、二年を待たずして破局。やけになって酒ばかり飲んでいた。

 そんな吉田をみかねた昔の上官・木村元軍曹が、「チームのメンツが足りなくってなあ」と漕艇場に誘った。

 漕艇場は大きな橋の下にあって皆で練習したものだった。

 ボウトは世捨て人のスポーツだ。否、スポーツというより、自然観察のための手段と言い換えたほうがいいかもしれない。小魚が跳ねること、セキレイやらサギといった鳥が同じ目線にいて、羽を休めたり走ったり、上からのアングルはそんな風景をとらえることなどできない。

 木村元軍曹は闇市で生計を立て、余暇でボウトをやった。金回りはいいとみえて、進駐軍払下げのカメラとギルむで撮影し、パネルに収めて壁掛けしていた。――その職業と趣味に吉田を引き込んだ。

「進駐軍兵士相手のパーティーがある。どういうわけだか招待された。吉田もいかんか?」

「いえ自分は、漕艇場で練習してます」

「まあ、無理強いはせんが、気がむいたらこいよ」

 一人きりのクリスマスイブは小春日和の日だった。川原で一漕ぎしてから、ガソリン式の携帯コンロで火をつけ飯ごうを炊こうとしていたら、火が消えているのに気づいた。

(あれ、なくなってしまったかなあ)蓋を開けてみたら、まだ十分ある。

 冬の漕艇は寒い。吉田はボウトに乗るときウットスーツを着ていた。ゴム製でだ。

 掲げた携帯コンロからガソリンがこぼれてスーツにかかった。

(まっ、いいかあ)

 ライターで点火。

 やばい、コンロじゃなくて、こっちに火がついた。足元の炎は、瞬くまに、腰のあたりまで駆けあがり、吉田の脳裏に、走馬燈のように過去の物語が噴きだしてきた。

 ――あの娘、桃子と出会った日のこと、結婚式の日のこと。喧嘩の絶えない生活。けして愛がないわけではなかった。「誰も愛してはくれない」というのが、桃子の口癖だった。

 なんという暴言なのだろう。そういうことを、平然といってのけることに、腹をたてていただけのことだったのに。けっきょく桃子とは別れた。そのくせ、どういうわけだか、別れてからも電話をかけてくる。「仕事をしたいので保証人になってくれ」という。いつもそうだ、少し働くとすぐ辞める。その都度、先方から事情を聞かれる。

 そういうわけで保証人になるのを断った。すると桃子は、「あんなものただの紙っぺら一枚じゃない。最後くらい優しくしてよ」とごねてくる。それで、なんだかんだといいくるめられて、吉田はしぶしぶまた書類にサインした。

 捺印のあと桃子と桜並木の下を歩いた。先を歩いていた桃子が振り返って、「私ね、彼にあなたの悪い癖や、破った約束を並べ立てたの。彼は、あなたのことを、(会ったこともないから判らない)って答えたのよ」といった。

 吉田は、「そ、そうだ。自然な流れだな」とやっと答え、ゆっくり息をはいた。

 ガソリン炎上事件当日の朝。「舟遊び」のでかけぎわ、貸家の郵便受けを開けたら裁判所からの手紙があった。

「吉田様。1月20日に、調停があります。欠席しますと、法令により処罰されますので、必ず出頭してください。桃子さんの第一子・小梅ちゃんの親権についてです。                       〇△裁判所」

 桃子に電話をかけたらすぐに通じた。

「子供? 自分との?」

「まっさかあ。八月に出産したの。いまの彼とのよ」

 吉田によって、「人生を滅茶苦茶にされた」と言い残し、別居したのが昨年末。それから何度も離婚届を迫ってきたのは感情が乱れていたのではなくそういうことだったのか。今年四月に用紙に捺印した。

 火だるまになったウェットスーツに砂をかける。なかなか消えない。ガソリンというのは不思議な液体だ。気化が早くて、なかなかスーツそのものを燃やさず、気化したガソリンだけが燃えている。だがいつかはスーツに火がつくだろう。

 これで死んだら、「妻の不倫、離婚、出産。人生を悲観しての焼身自殺」とか書かれ、死んでな笑いものにされるんだ。よくある新聞ゴシップ記事の見出しを思い描くことは容易だった。あがかねば。焼け死ぬより心臓麻痺か肺炎にかかって死ぬべきだ。吉田は1月の利根川に飛び込んだ。氷こそ張ってはいない水面ではあるのだが、冬の水には違いはなく凍てつく。水面に頭をだすと、遠くにいた釣り師たちの、「おおい、大丈夫かあ」という声が訊こえてきた。

 裁判の日、きたのは元妻一人だけ。はじめは別室、つぎに同じ部屋に通された。職員は六人。五十歳前後の男女だった。不和となった理由、離婚届け提出日、そして最後に愛し合った日。要点だ。子供が誰の子かということ。血液を採取すればすぐに判ることではないか。いまさら、なにゆえにこんなことをするのだろう。役人どもは失笑していた。ずっと悲劇のヒロインをきどっていた桃子が、実はピエロであることにようやく気づいたか、うつむいた。 

 離婚から親権裁判の一年でそれなりに滅入った。心臓は痛むし、胃腸の具合もかんばしくない。そこで、(重病にかかっているのではないか)と医者に診断してもらったところ、「ちょっと心臓は弱っていますが問題ないですよ」とのこと。

しかしその割に調子が出ないからやはり信用ならない。その医者が、「なんなら当医院には精神科もありますからご相談なさったらいいでしょう」といって、そっちの部署を紹介してくれた。

「まったく問題ない。あなたは、とても安定した精神状態です」と診断を下した。

 正月明け、木村元軍曹の家に挨拶にゆくと、ちょうど宴席のまっただなかで、闇市仲間全員で漕艇初乗りをしようという話になった。

「おおっ、吉田上等兵殿のどんぶり酒一気飲み。豪快だな、久しぶりにみたぜ」

 事情は皆知っている。

 案外、彼はタフだった。

 桃子から電話はきたがその都度、怒鳴りまくることにしたところ、そのうちこなくなった。元上官の知り合いがいい娘を紹介してくれたので、半年後には結婚する予定だ。

     了

.

ノート20120627/校正20160508

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