映画/『劔岳・点の記』
「味方砲座から敵砲台は300度00分00秒の方向、2200.000mに補正!」
と闇の中を歩いて帰還した測量手が、将校に報告しました。
―舵手この人、測量器具なんか持ってませんよ。日中に観測して、夜は記憶した方向から、敵陣地まで距離を歩測するのです。測量手が持ち帰ったデータをもとに、旧日本陸軍は、敵陣地へ砲弾を撃ち込んでいたというわけですね。
はい、冒頭から刺激的な話題です。先日、DVD発売日にあわせたリバイバルで映画『劔岳 点の記』(つるぎだけ てんのき)を観てきましたよ。もちろん上記のような話ではありませんけれど。
地図は、日本中を覆う三角点を利用して作図されます。三角点というのは、基準となる杭を見晴らしのよい高台などに基準点を設置して三角形をつくります。この三角形には高さと位置の情報が示されているわけですね。
では本題。
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明治39年、陸軍参謀本部陸地測量部は、日本地図唯一の空白地点である富山県立山連峰〈劔岳〉の測量をしようとしていました。〈劔岳〉は前人未踏の死者の山とされており、ここに基準点を設置しなくてはならなりません。山からは富士山が望めるほどに高く険しく、雷鳥が生息するほどに厳しい自然環境にあります。
陸地測量部にはライバルがいました。最新の欧州製機材を装備した日本山岳会で、〈劔岳〉初登頂を狙っていたのです。マスコミは両者の戦いを報じさかんに煽り立てます。こうして陸地測量部対山岳会の初登頂争いが始まりました。
陸地測量部から隊長に任命された測量手芝崎芳太郎(浅野忠信)は、次年の基準点を設置するため富山県にむかいます。芝崎を富山駅で出迎えたのは、先輩の測量手から紹介をされた宇治長次郎(香川照之)です。長次郎と〈劔山〉視察に行きますが、登り口を発見できぬままに冬となり、翌年の準備のため帰京することに。ただ、一人行者(夏樹薫)が、「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」という謎めいた助言が唯一の成果となります。
翌1940年、測量隊・山岳会双方が富山入りしました。
測量部に雇われた人夫たちは、「山岳会の人夫の日当が80銭なのに、自分たちは60銭で割があわん」と不平たらたら。生田信(松田龍平)も長次郎を信頼せずに暴言ばかり吐いてました。
数ヶ月もの間の中で、二十七カ所の基準点を設置して、少しずつ山頂を目指す測量隊とは違って、単に山頂を目指す小島烏水(中村トオル)率いる山岳会登山隊すらも山頂を攻めあぐんでいました。そんなとき芝崎の脳裏に、前年、行者がいった、「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」という言葉がよぎります。
山頂の長い冬は深雪で登れず、逆に夏になると割れ目ができて進めない渓雪をよじ登り、どうにか山頂にたどり着いた芝崎測量隊は、行者が残した錫杖をみつけ、自分たちが初登頂ではないことを知ります。
落胆する陸軍、はやし立てるマスコミ。しかし、測量隊も山岳会も全員が仲間意識をもち互いに賞賛し合います。
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素晴らしい映画でしたよ。
さて、またまた余談――。
陸地測量部といえば、母校の大学にも、測量部OBの教授がいらっしゃいましたよ。高台の上にキャンパスがありましてね。えらく急な坂道があります。その坂が上れなくなると先生方がお辞めになるから、「停年坂」などと呼ばれておりました。よぼよぼ、って感じで歩いておられたけれど、昔は精悍だったんだろうなあ。少佐待遇だったのだとか。
卒業してから、遺跡関係の会社に入りましたけれど、陸地測量部発行の『陸軍迅速図』というものを報告書につかいます。現代の地図では構造物が多くなって地形が判らなくなるため、古い地図でもともとの地形をみようというわけですね。
冒頭のエピソードは、群馬県には、故山崎一先生という陸地測量部あがりの方に関するまたぎきです。この方を昔、社長がジープでお迎えにあがったところ、「戦犯にされてGHQのジープで護送されたんだよ」と遠い目をなされていたのだとか。
戦後、山崎先生は、『群馬県古城塁址の研究』という著書をお書きになられ、群馬県中の中世城郭実測図を掲載なされています。ある教育委員会の職員が、「ふん、アマチュアの歩測図なんかつかえるかよ」と笑いながら、航空測量による図面に重ねてみたら、なんと地形がぴったり合ってしまったのです。以後、群馬県では中世城郭の研究をするとき、山崎先生の図を利用しない研究者はいなくなりましたね。
うーむ、陸地測量部、恐るべし。
了
ノート2009/校正20160506