覚書/滅亡文明・ローマ
「ローマ戦士」
「カリグラ帝の船」
~出土状況。女神に奉納するため皇帝カリグラの命でローマ近郊の湖に沈められた船は1930年代、ムッソリーニ政権期に、ポンプをつかって湖を干して、発掘調査が行われた。残念ながら出土品は第二次大戦の戦禍で失われてしまった。
「ローマ騎兵」
「ローマ文明」
~同文明(前7‐後4世紀)は、エトルリア人の王を戴いた王政期、共和制期、帝政期を経て、東西分裂する。そして西ローマ帝国が滅亡したことをもって古代ローマの終焉。また15世紀まで生き延びた東ローマが滅亡したことをもって中世の終焉の指標となっている。優れた政治システム、テクノロジーで他の文明を圧倒した。図は帝政期の首都ローマである。
「百人隊長」
ローマ文明を語れば野暮になるだろうか。イタリア半島から地中海を「わが海」とし、当時の世界に君臨した。「ローマは一日にしたならず」という言葉通り、ゆっくりではあるが着実に拡大して行く。そのプロセスは、王政期、共和政期、帝政期、ビザンツ期の4段階に大別できるところであろう。
王政期は、紀元前7世紀から紀元前4世紀にあたる。エトルリア系など7代の王に統治を委ねるイタリア半島中部の小さな王政都市国家だった。フォロ・ロマーノあたりを中心に都市国家が形成されて行く。文化的には北方にあったエトルリア文明、南方にあったギリシャ文明に大きく影響された。カンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設されている。エトルリア人やガリア人と抗争した。
共和政期は、紀元前4世紀から紀元前1世紀にあたる。国王を追放して元老院議員を構成する大貴族たちが実権を握る。市民が戦闘に参加して行くと発言権が増して、選挙権を得るようになった。ローマの征服戦略はインフラ整備にあった。石敷きの舗装路ローマ街道を整備し、拠点には水道橋をもった植民都市を建設して行くのだ。ローマを中心に放射状に線が拡がり、点を結んで兵站を確保する。そうやって拡大していったのである。イタリア半島北部のエトルリア、南部のギリシャ人都市国家を滅ぼし、さらには、北アフリカのチェニジアを拠点に地中海南部を支配していたカルタゴを滅ぼし、アレクサンドロス帝国の系譜であるヘレニズム諸国を滅ぼして、南はバルカン半島・ギリシャ・小アジア・エジプトにまで、北はガリア人のいるフランス、ケルト人のいるイングランド島にまで拡大する。共和国の急速な拡大により、大量の物資が首都ローマに雪崩れ込み、貧富の差が拡大。やがて実権はカエサルの一族に集中して行き、帝政ローマとなって行く。
帝政期は紀元前1世紀から滅亡に至る15世紀までをいう。同盟市戦争によって、市民権は領域全体に拡大。服属していた属州の人々はローマ人になった。
初期の皇帝たちはカエサルの家系ユリウス・クラウディウス家で、共和政の守護者を自称し元首政を称した。同家が断絶すると、軍閥が各属州に割拠し抗争を始め、シリア属州を押さえ、ユダヤの反乱を鎮めたウェスパシアヌスが皇帝となる。この皇帝は有料攻守便所を設営した。恥じた息子が父親に抗議すると、鼻先に賃金の貨幣を突きだして、「匂うか? カネは綺麗なものだ」といったとかいわないとか。この皇帝が元老院を骨抜きにした。そのため穏健な権力移譲ができなくなり、武力革命によってのみ、政権交代がなされる悪習がついた。以降、皇帝の半分が反乱と革命で殺されるという事態の原因を作った。
「元老院」
紀元96年から紀元180年に至る五賢帝の時代、ローマ帝国は絶頂期となった。その最後を飾るマルクス・アウレリウス帝はストア哲学を愛し、哲人皇帝と呼ばれる。ローマ発の交易ルートはパレスチナを介して紅海・インド洋に延び、宝石を産するインドシナ地域をインド人たちに委ねて大交易ルートを持つに至り、その終点はついに、漢帝国が支配する中国広東にまで達したのである。ところが、哲人皇帝の統治の末期に天然痘が発生し、人口が激減。北方からゲルマン人が押し寄せ、皇帝が陣没すると帝国は衰退に向かう。
3世紀末、軍閥の首領である軍人皇帝たちが次々と交代する時期を経て、皇帝副帝2名ずつで帝国を4分割統治の時代となる。市民権は大幅に縮小され、職業選択の自由がなくなった。同時期、ナント勅令により、キリスト教がローマの国境となり、荒廃した帝国国民の精神はこれで一統されることとなった。ヨーロッパ中世の土台はこの時期に出来上がる。
東ローマ帝国の別名はビザンツ(ビゼンチン)帝国である。ビザンツ期は395年から1453年である。4世紀末、帝国は西と東の二つに大きく分裂。西ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動が原因で大きく衰退。紀元5世紀後葉に、ゲルマン人傭兵隊長オドアルケルによって滅ぼされる。西ローマ帝国の跡地には分立したゲルマン人諸国はしばらく、東ローマ帝国に服属。やがてフランク王国が西ローマ帝国を復活させ、さらに後にドイツを中心とした地域に、ローマ法王から皇帝称号を与えられる全く別な体制の神聖ローマ帝国が成立すると、東ローマとは決別した。
東ローマ帝国の首都は、コンスタンチノプール、ビゼンチン、イスタンブールといった三つの名前を冠する。ギリシャ人が幅を利かせており、6世紀には公用語がラテン語からギリシャ語に代わってしまう。その後、13世紀からトルコの侵攻に悩み、ローマ法王に泣き付いて救援を求めたところ、私利私欲に目がくらんだ十字軍が国土を乗っ取る。その後復活するが、バルカン半島の付け根である首都近郊しか持たない小国家となり、やがてオスマン・トルコに征服される。最後の皇帝は討って出て戦場に果てる。1453年のことだ。
東ローマ帝国は実質的にギリシャ人たちの国家だった。ゆえに古代ローマの終焉はローマ市を根拠地としていた西ローマ帝国が滅亡する476年とされる。
環境考古学の立場からの説にこんなものがある。ポンペイ市を火砕流で呑み込んだ79年のヴェスヴィオ火山噴火、4世紀の日本の浅間火山爆発による火山灰は成層圏に達し、核の冬のような事態となって、地球全体を冷やした。穀物は実らない。疫病は人民が飢えて体力を消耗することで流行する。そのため、この時期、全世界的に花開いた古代文明がばたばたと倒れて行く。
中国では専制国家である漢王朝が倒れ、欧州同様に三国時代・南北朝時代という中世国家に変貌。良家という市民層が崩壊して、佃戸という農奴に転落して行くというのだ。
日本は逆に、騒乱の大陸から、ところ天式に押し出されてきた避難民たちが帰化した。ために、それまで輸入に頼っていた鉄が、自前で生産可能になり、部落国家が割拠する無政府状態の弥生時代に決着をつけ、比較的平和な古墳時代になって行く。
同一の時間軸において世界は連動する。古代といえどもユーラシア大陸の西と東の動向は無縁ではなく、類似した足跡をたどるようだ。
『滅亡文明』了
ノート20120701/校正20160508・20181021