覚書/滅亡文明・スキタイ
「スキタイ文明」
~同文明(前8‐前3世紀)は、現ウクライナの草原地帯に君臨した強大な騎馬民族国家だ。イラン系だとされる王族スキタイは多くの民族を支配した。その中にはギリシャ人の都市もあった。図に示すような墳墓以外は目立った建造物を残していない。
墳墓は、階段掘りにした穴底の寝台に被葬者を寝かせ、穴の周りにテントの骨組みのような井桁を組んで埋め、さらに墳丘を築いていく。墳丘中段には殺した馬たちを並べ、屋根裏部屋状になった井桁内部に金製品や武具などの豪奢な副葬品を埋める。
スキタイ国家を文明とするか否かは異論のあるところであろう。支配都市にギリシャ系住民がおり、ギリシャ文字を使用していたという意味において、文明という要素を備えていなくもないが、歯切れは悪くならざるを得ない。滅びてしまった民族であり、彼らの足跡を示す資料は、メソポタミアやギリシャに記されているのみで、彼ら自身が記した歴史書の存在を私は知らない。
20世紀の終わりにソビエト連邦が崩壊して独立したウクライナ共和国。そこの南部はかつてスキティア(スキュテイア)と呼ばれ、紀元前8世紀から紀元前3世紀において、活躍した遊牧騎馬民族国家が存在した。スキティアには諸部族が住んでいた。諸部族を統べるのは王族スキタイ「スコロトイ」という。
王族スキタイに支配された諸族には、カツリピダイ・農耕スキタイ・農民スキタイ・遊牧スキタイ・別種スキタイ・エナレスが存在する。
カリピッタイは、ギリシャ系で、穀物栽培をしていた。
農耕スキタイは、スラブ系とされ、穀物を栽培し河川交易で輸出していた。
農民スキタイはオルビオポリタイ(オルビア市民)を称している。黒土地帯という大穀倉地帯で輸出用穀物を栽培していた。ギリシャ風の習俗であったとされる。
遊牧スキタイは、農民スキタイの地の東にある草原地帯にいた。種族の系譜は判らない。
別種スキタイは、スキタイの分れで、叛乱を起こし、東に移り住んだ者たちだという。細かなところは判らない。
スキタイ美術は、墳墓の出土品で成り立っている。前期と後期に分かれる黄金装飾品で知られる。動物をモチーフとしたもので、前期において抽象的であったものが、後期になると写実的になる。
多神教で 竃の女神ヘスティアーほかを信奉する。日本語で竃のことを「へっつい」ともいう。スキタイが滅亡して1000年以上経っただいぶ後の時代のことだ。モンゴル諸族の一つであるタタール族が鉄を生産していた。製鉄炉でフイゴに送風装置のことをタタラといい、悔しがって地面を踏む時の様子が、送風板を踏むようなのでタタラを踏むという。戦車戦術で名をはせたヒッタイトに始まった鉄。これにまつわる言葉は、騎馬民族の名を冠しているようでもあり面白い。
了
ノート20120701/校正20160508・20181018