覚書/滅亡文明 ・フェニキア
『滅亡文明 ・フェニキア』
同文明(BC15世紀-BC146)は、レバノンのシドンやチルスといった古代都市から始まる。これら都市国家は、豊富なレバノン杉で商船を建造し、地中海世界で手広く交易を始めた。本国がアッシリアに支配されると、図の植民都市カルタゴが発展する。
彼らは、土地の貝をすり潰して粉末にし、衣装を紫に染めた。後のローマ人たちは、美しいその色に憧れ、「紫色の衣を着た人々」という意味であるフェニキア人と呼んだ。『旧約聖書』に出てくるカナンの民ともされる。偉大な商業民族であった。
滅亡はしたものの、これほどに、したたかな文明があっただろうか。もともとは、紀元前15世紀に成立した中近東レバノンに位置した都市国家だった。地中海の東に臨んでいる。シドン、ティルスといった都市遺跡が有名だ。
アフリカ大陸と、ユーラシア大陸を結ぶ回廊のような場所で、北には小アジア、地中海を渡れば対岸にヨーロッパがある。彼の地は、古代世界の中心地である三日月地帯と呼ばれる大穀倉地帯の一角をなし、エジプト文明とメソポタミア文明にかけた橋のような場所でもあった。
エジプト文明とメソポタミア文明が、数千年に渡って、争奪戦を繰り広げた土地だ。その地の民は、おのずとしたたかとなり、商才を身につけた。地の利を生かしてエジプトやメソポタミアと交易した。
本国には船の材料となる樹木が自生する森があった。レバノン杉だ。これを切り出して船を造り、地中海世界のハブ港となった。紀元前12世紀、ここから出航した移民船は、地中海沿岸一帯に植民都市を建設しだす。植民都市で有名なのが紀元前9世紀に建設されたカルタゴだ。
本国が、紀元前9世紀から8世紀にかけて、メソポタミア地方のアッシリア帝国の攻撃を受けて服属。本国が衰退すると、カルタゴが文明を継承し、なおも五百年にも渡って地中海世界に君臨した。
カルタゴの主力産業はガラス細工・織物などの工芸品だ。これらを金・銅・錫・鉄といった金属と交換して栄えたのだ。
文明の終わりは、紀元前3世紀から2世紀の百年にわたる都合3回の対ローマ戦争「ポエニ戦争」である。第2回ポエニ戦争では勇将ハンニバルが、「包囲殲滅戦」という画期的な戦術を用い、敵国首都ローマを陥落寸前にまで追い込んだ。
ところがそのハンニバルに、カルタゴ本国は補給物資を送らなかった。うかうかしている間にスキピオ率いるローマ軍が体勢を立て直して、逆にカルタゴ本土を攻められ降伏する。
第2次ポエニ戦争の英雄ハンニバルは、元首に選ばれ、政治家としても有能な手腕を発揮。莫大な賠償金を短期間で完済してしまう。ローマは驚愕した。このとき反対勢力がハンニバルをローマに売って追放。亡命先マケドニア王がハンニバルをローマに売り自決に追い込まれる。
ハンニバルのいないカルタゴなど、ローマにとって敵ではない。第3次ポエニ戦争ではあっけなく滅びフェニキア文明のすべては終わった。カルタゴ本土は灰塵に 帰し、住民の大半が殺戮されるか奴隷となって、ローマに連行されてしまった。その植民都市は全てローマの属州となったのである。歴史書には、カルタゴ周辺には塩をまいて農業ができないようにしたという記述をよくみる。だが、ある歴史書に、カルタゴ滅亡後、すぐにローマ人たちが、町を再興。周辺地域は大穀倉地帯となったので、塩をまくようなことはなかったのではないかという指摘もあった。――この意見には私も賛成する。
窮地をさす「戸口にハンニバルが立っている」というローマの格言は最大のライバルである、この人を指していている。アメリカのサスペンス映画「ハンニバル」の凶悪犯の名もここから来ているのではなかろうか。
祖国滅亡後、カルタゴ人の末裔は、ローマ帝国を再生させたカラカラ帝以下、政治・文化などに影響を与える著名人を、帝政ローマ時代以降、多く輩出した。
先に滅びた本国では、古代ユダヤ人と通婚し、商業活動などを通じて、遺伝子と文化において先方に、かなりの影響を与えた。
フェニキア文明の最大の遺産は、エジプトのヒエログリフとメソポタミアの楔形文字の長所を組み入れたアルファベットを発明したことだ。彼らの植民都市が地中海世界一帯を手中にしていた時代、アルファベットがヨーロッパに伝播。またこの文字はアラビア文字の原型にもなった。
エーゲ海に臨んだ諸文明ヒッタイト、クレタ、ギリシャ、イスラエルのヘブライ文字なども影響を受けた。こうしてフェニキアが生み出した文字アルファベットは、世界文字とでもいうべき存在になったのだ。
図のカルタゴは、紀元前9世紀に建設された。〈地中海の女王〉の異名がある。伝説によれば、フェニキア(レバノン)のスール王女エリッサが、兄に夫を殺され、一門とともにアフリカ北岸の現チェニジアまで船で逃れた。そこで港を開こうと現地のベルベル(ヌミディア?)人と交渉したのだが、牛革一枚分の土地をやるという答えが返ってきた。そこで王女は機知を示す。なんと牛革を細く裂いて紐糸をつくり、港に必要な分の土地を確保したのだ。以来カルタゴは王制をとっていたが、ある時期から共和制へと移行する。
さて、牛革のことをビュルサという。図の左上がビュルサの丘だ。そこを下ったところに港を開削し、丘と港との間に市街地を築いた。カルタゴの都市はシンプルで、ローマのような娯楽施設はないというのだが、そのローマの娯楽施設は、帝政期に築かれたもので、同時期の王制ないし共和制ローマにおいては、やはり存在していない。
図の港は、手前の商港と奥の軍港とがあり、円形をした軍港には〈提督の小島〉と呼ばれる島があり、橋で連結されていた。すべての船は、ラッパや旗で誘導されて、まず手前にある方形をした商港に入港する。軍艦ガレー船は、さらに奥にある軍港に入る。
軍港は、サークル状をなし、周辺と小島にはドックを備えていた。多数ある各ドックの入口は、イオニア式の華麗な列柱で飾られていた。島の直径は90m、それを取り巻くドーナッツ状の水路もやはり90mをなしている。ドックは最大200隻が収容でき、大型の軍艦は〈提督の小島〉ドックで行われた。また〈提督の小島〉のてっぺんにある窪みあたりが、司令室になっている。艦隊は、海の穏やかな夏場、一斉に商船を守って地中海に出払い、海の荒れる冬場、一斉に戻って来てドックでメンテナンスを受ける。
カルタゴの軍港については、古代ギリシャの歴史家アッピアヌスが記しているのだが、長い間、場所が判らずにいた。19世紀、フランスの作家シャトー・ブリアンがこの地を訪れ、アッピアヌスのいう地形的な特徴から、ある湾が該当すると主張した。それは、1974年、遺跡発掘調査によって証明されることになる。 了
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ノート20120630/校正20160508・20181013