紀行/林忠崇・19歳大名戊辰戦記
林忠崇。
1867年に大政奉還によって幕府体制が終焉した後、明治新政府は、後顧の憂いを断つべく旧幕府勢力の一掃を計った。その際、旧幕府に同情的な東国諸大名は奥羽列藩同盟を結び新政府に対抗し生じた1868年から翌年に及ぶ一連の戦闘を戊辰戦争という。
大政奉還の直後、旧幕府軍は薩摩藩・長州藩の連合軍と鳥羽伏見で合戦を行い敗退した。このとき徳川家親藩・譜代諸藩の大勢は新政府寄りか中立だったのだが、上総国請西藩主1万石を相続したばかりである19歳の藩主・林忠崇は、脱藩という形をとり、藩士80人のうち60名ないしは70名を率いて上総義軍を称した。残された者たち10名ないし20名は、新政府に対しての事後処理をはかった。
まずは、対外国船警備のため、東京湾に臨んだ砲台場を守備していた前橋藩守備の陣屋を襲撃し降伏させた。ついで同藩守備隊30名を加えて東京湾のむこう側・小田原藩領に渡った。
小田原藩は新政府に着いたため、討とうとしたのだ。これに旗本隊が合流し奮戦したものの、新政府軍に増援があり、旧幕府軍艦に乗り込んで、太平洋沿岸を北上することになった。その際、崇忠は、軍艦乗員定数の関係上、数を絞った。まず、降伏させて自軍に加えた前橋藩士を解放。そのほか自藩兵も選び、幕府旗本を中心とした兵と合流。遊撃隊と改称した。
この軍艦は、最初、上陸地点を最初は茨城県北端にある平潟港にしようとした。そこは武蔵国川越藩の飛び地で、同藩が新政府についたので、少し北にある泉藩領で、石炭積み出しのため、新たに開かれた小名浜港に寄港した。
北上する新政府軍は、中山道・奥州街道を主力に、日本海沿岸と太平洋沿岸にも別働隊を派兵した。対する列藩同盟軍との間で生じた太平洋沿岸での戦闘を戊辰磐城戦争と呼ぶ。仙台藩を主力とする列藩同盟軍は、元の老中安藤信正公の磐城平藩平城に前線本部をおき、まず、新政府軍上陸予想地点である平潟港の奪取をはかる。林忠崇忠の遊撃隊はこれに従軍。磐城湯長屋藩領湯本温泉郷にある旅館・新瀧を本陣として与えられた。
主戦場は平潟港と、阿武隈山地の一部が舌状になって海に張りだす岬とそこ抉ったトンネルおよび勿来海岸だ。遊撃隊は列藩同盟軍最強部隊として活躍する。地元磐城三藩のうちの平藩士が山砲二発を新政府軍フリゲート艦に命中させ戦闘不能状態にして艦砲射撃をとめたものの、遊撃隊の後背にいた主力・仙台藩兵が軍艦大砲に恐れおののき戦線を離脱。前線部隊を見捨てての陣形崩壊〝裏崩れ〟を生じさせたことで敗退するに至った。
最終防衛拠点である、磐城泉藩陣屋後背にあった街道筋の要衝・新田峠で兵力の立て直しをはかった。
しかし、新政府軍指揮官は、坂本竜馬の親戚筋にあたり後に民権運動を起こして首相となる板垣退助で、平潟の地元民を手なずけていた。その案内で、新政府軍は浜に沿った間道をつかって裏側にある泉藩陣屋から新田峠を襲った。列藩同盟軍はそこでも潰走。湯長屋藩陣屋も陥落させ平城を囲んだ。
その間、新田峠から辛くも退却できた遊撃隊は、平城から相馬中村城にゆき、会津戦線に加担しようとするものの、途中で米沢藩家老率いる一隊と出会い、会津藩が敵に城を囲まれて風前の灯であること、元将軍・徳川慶喜公の助命とお家存続の報せを受け、仙台で降伏するに至った。――なお遊撃隊の一部は仙台湾に停泊していた旧幕府軍艦隊に乗船し、函館五稜郭戦争に参加することになる。
請西藩があった千葉県木更津市には2009年8月23日に自家用車で訪れた。
その日は、埠頭にある海鮮バイキングで家内と食事し、その後、偶然見かけた看板から近くに停泊していた自衛隊砕氷艦〝しらせ〟の一般公開をしているのをみつけ乗船、さらに木更津駅へむかった。家内は列車でそのまま実家のある群馬県にいった。ランチの海鮮バイキングで、海老やら帆立貝やらをバーナーで焙るだけの素朴なものだったけれど美味だった。砕氷艦はクリームオレンジと濃いオレンジの塗装で甲板に輸送へりがあって迫力があった。
家内が帰ってから、私は車で市街地の東にあるなだらかな丘陵を彷徨し、太田山といいましたか山頂に金の鈴郷土史博物館というのをみつけて中に入ったところ、60くらいの警備員さんが出迎えて、受付にいた40くらいの学芸員さんのところに案内してくれた。
「請西陣屋を探しています。林忠崇の足跡を訪ねているのですよ」
よっぽど退屈だったのか、眠そうな顔をした小太りの学芸員さんが急に目を輝かせ、私もすでに読んだ本の内容を詳しく説明。それから、「請西陣屋、けっこう判りづらいところにありますよ。地図は地図は……」といって、スマートフォンではないところの、古くなって超低速化したモバイルノート・パソコンの画面を示すと、指でなぞって順路を説明くれた。
運転を再開した私は、少し迷いながらも、学芸員さんのいった順路を通って、なんとか目的地にたどり着きました。途中、コンビニ2店に立ち寄って道を訪ねたのですが、陣屋跡といってもピンとこないらしく、付近にある拓殖大学付属高校と中央霊園の名前を出したら理解していただけた。
陣屋とは、江戸時代、幕府の代官や小大名が領地に置いた庁舎のことで、庁舎とはいっても、土塁やら濠やらを巡らしているため、城の一種といいかえたほうが判りやすいだろう。残暑に蒸す初秋の請西陣屋跡は篠で覆われ、それでもなんとか土塁の痕跡を見いだすことができ、道路を挟んだ中央霊園の向こう側の土塁の一角に、3つの石碑が立あった。一つは、昭和のはじめに林忠崇自身が建てた慰霊碑、もう一つは林家20代当主が昭和47(1972)年の同家由来を刻んだ石碑、最後の一つは表皮がかわいて判読できなかった石碑だ。林忠崇忠が陣屋に自ら火を放ち出撃する際、重病の藩士の一人が槍を杖に従軍を求めたが、丁寧に断るというエピソドを思いだす(ノート20090823)。
また、そのあたりの海岸には、幕府に沿岸警護を申し付けられた前橋藩の陣屋跡もあって、後日、そこも訪ねてみた。集落民家の狭間・雑木のなかに、陣屋があったことを示す碑文があったのを憶えている。少し離れた浜辺では、高さ数メートルからなる切りだされた岩塊が一つ二つ浮かんでいて、砲台跡であったことがすぐに判った。夏日で、ウェットスーツを姿の人がジェットスキーを楽しむ姿がみられた。
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小田原を訪ねたのは2005年だったと思う。そのころ勤めていた会社の出張で神奈川県平塚あたりに仮住まいしていた折り、小田原を家内と訪ねたことがある。小さな漁港があり、そこの市場食堂で昼食をとった。二十年不況の真っただ中でシャッター商店街と化していた。天守閣は江戸時代のものを戦後になって再建したものだが、戦国時代の北条三代を扱っていたものが多かったように思える。小さな動物園が城域にあり象が飼われていた。神奈川県に居を構えている当時の職場仲間が、昔飼われていた象の一頭が飼育員を踏み殺したと話していたのを憶えている。秀吉の一夜城もみてきた。しかし遊撃隊の話は特に記されていなかったと思う。
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遊撃隊の主戦場であった福島県いわき市は私の故郷だ。
2008年、出張先・新潟県の古本屋をのぞきこんでいるとき、中公新書の『脱藩大名の戊辰戦争』だ。十九歳の遊撃隊長が、戊辰戦争の最前線に立ち参戦した記録で、本陣としていたところは高校時代の通学路に面していた常磐湯本温泉・新滝旅館だと判った。――無理な事業拡大をやった同旅館はバブル崩壊後破産し、跡地は現在コンビニになっている。
当時あった福島県浜通り地方にあった磐城三藩と呼ばれた諸藩のうち、もっとも大きなところが平藩だ。JR東日本・常磐線いわき駅の後背・高台が平城である。湯長屋藩陣屋はその南側で湯本駅があるところで、少し離れた所にフラガールで有名なハワイアンズ(旧ハワイアンセンター)があり、さらに奥まったところの中学校敷地にあたる。映画『超高速参勤交代』では〝湯長屋城〟と字幕表示されていたところだ。他方、泉藩陣屋は湯本駅からさらにもうひとつ南である泉駅をでてすぐのところにある公園だった。泉藩領だった小名浜港は泉駅の東側にある岩塊に挟まれた国際港である。平潟は勿来駅から南にいったところにある海岸に突出した尾根のむこう側にある。
相馬中村城を含め他の場所は何度もいっていたが、湯本藩陣屋と泉藩陣屋はなぜだか行ったことがなかったので、2009年8月16日日曜日に訪れた(ノート0090818)。
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最大の激戦地となった平潟は、いまでこそしがない漁港だが、かつては、国内交易で殷賑をきわめた港町だ。
家内とそこを訪れた私は、港湾をみおろす珈琲ショップで休憩して土地っ子のマダムから情報を仕入れはじめた。
港は三方を阿武隈山地の山塊に囲まれ、入り江を抱き、わずかに東に開いた二つの岬を門として太平洋に臨んでいる。港町は山すそにしがみつくようにこじんまりとかたまっている。
南の岬には、薬師如来という仏であるのになぜか祭られている神社があり、北の岬には、八幡神社がある。そのあたりをみてから、代官所があったというところにゆこうとしたが非公開だった。かつて平潟には鈴木主水という代官がおり、港を治めていた。屋敷は港の入り江の東に位置する街中の奥にあったのだそうだ。
平潟はリアス式の良好な入り江で水深があり、フリゲート艦級の船舶も入港できた。一時的に平潟を占領していた列藩同盟軍・仙台藩兵は、板倉退助を司令官とする官軍がこの港を軍艦がくると、さっさと退却した。
板垣は上陸すると、まず子供たちを味方につけた。小銭、それから木村屋のビスケットを与えて子供たちを喜ばせ、親たちを安心させた。このため親たちも官軍になついて、積荷の荷おろし作業を手伝った。さらには道案内まで買ってでるようになる。
――それにしても官軍兵士たちが平潟の子供たちに与えたという木村屋のビスケットというのが気になる。木村屋といえば、パンとか中華まんとかで有名な老舗だ。そこのことなのだろうか? 諧謔で近くの店にないか探してみたが、海産物ばかりでそれはなかった。後に木村屋に問い合わせてもみたが現在は取り扱っていないのだという。
港湾沿いをあるいていたとき、女の子のお孫さんを連れ犬を散歩していた老紳士をみつけ話しかけてみた。老紳士は、八幡神社北の岬を指差して、「神社の隣に旅館があるでしょ。そこが戊辰戦争のときに野戦病院としてつかわれていたところですよ」と教えてくれた(ノート20091012)。
了
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校正編集20160506