紀行/北ノ王国の姫君
日本考古学の重鎮で京都大学学長・浜田耕作に師事した米国の女性考古学者ドロシー・ブレイヤーは、何者かに導かれるようにして、白水阿弥陀堂に向かいました。伝承によるとそれはとある高貴な女性によって築かれた瀟洒な寺院だとのこと。それでは、北ノ王国にいたという、貴婦人の波瀾万丈の人生と愛に生きた伝説をご覧くださいませ。
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ここは東京に本社がある雑誌『東京倶楽部』の編集室です。編集長の机の手前には記者やカメラマンの机が並べてあり、並んで座っているのが、記者の佐藤氏とカメラマンの中居氏でありました。ちょうど昼休みで、二人はコンビニで買ってきたカップラーメンをすすりながらノートパソコンのキーボードをたたいているところです。
「せ、先輩」
「どうした、中居?」
「パソコンで検索していたら、例のブログをみつけました」
「それが、どうしたっていううんだよ」
佐藤氏は、興味なさそうにカップラーメンを、ズズっとすすりました。
「先輩、例の深窓の令嬢には、モデルがいたようです」
ラーメンを口に含んだ佐藤氏が、ぶっ、とそれを中居氏にふきました。
「わわっ、汚いっすよ、先輩!」
早速・パソコンの画面からブログにINしました。
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平安時代末期の英雄源義家が、勅撰集『千載集』に入選した和歌に次の一首があります。添え書きには、義家が、「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花のちりければよめる」とあり、 「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」と詠んでいます。意味は──勿来とは、『来るな』という意味の関所である。吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているというもの。……歌の舞台は現在の福島県いわき市勿来にあった勿来の関のことを指しています。源義家はここを通りました。
一〇六二年(康平五年)、前鎮守府将軍源頼義は、陸奥の豪族安倍貞任が起こした前九年の役を平定した帰り道に、常陸国権守を称する多気宗基の館に宿泊しました。このとき多気宗基は十八になった娘に、「頼義公を慰めるように」と命じます。娘はその戯れの中で懐妊し、一〇六三年(康平六年)に誕生したのが徳姫だというのです。なんという悲しい出生なのでしょうか。
前九年の役から二十一年が経ちました一〇八三年(永保三年)、阿部貞任討伐に協力した清原一族が実質的に阿部氏旧領を接収し、かって阿部氏よりも強大な領国を築いてしまいます。朝廷側としてはゆゆしきこと。そんなとき、うまい具合に清原武衡と家衡の兄弟による跡目争いが起こります。清原一門を叩きつぶすチャンスです。それが世にいう後三年の役です。
源頼義の後を継いだ源義家は陸奥守と鎮守府将軍を兼任し、後三年の役の鎮圧にむかいます。途中、常陸を通り、陸奥の入り口である勿来の関を通過しました。
このとき、いかめしい軍団にまじって、朱を塗られた美麗な輿が担がれておりました。行列の中程にいた義家が、「小休止」の合図をすると、輿の傍に馬を停めて中の人に声をかけました。
「輿からでてきてみてみなさい、徳姫、見事な桜ではないか」
長い黒髪をした姫君が輿を降り、兄と同じ勿来の山桜を眺めると、控えていた侍女に目配せをし笛を受け取り奏で始めました。笛は「波立」といい、昔、吉備大臣が朱雀天皇に献上し、源氏嫡流に伝わったという名器です。遠く陸奥の入り口へやってきた将兵たちは笛の調べに慰められたことでしょう。
腹違いの兄である義家は妹を親切に遇しました。しかしながら奇異なのは、多気宗基の屋敷から、若き乙女である腹違いの妹を戦地に随行させたところです。そこには政治的な目論見がありました。
源義家の盟友に藤原清衡という人物がいます。清衡は、清原氏一門ではありますが、国司で藤原氏一門であった父と阿部氏の母との間に生まれ、阿部氏が滅ぼされると、連れ子として清原一門に加えられたのです。争っていた清原武衡の義弟にして家衡の義兄という立場にあり、戦争で両者が共倒れとなると、奥州藤原氏とよばれる百年つづく平泉政権を築き、実質的な東北王国の長となります。
徳姫は、藤原清衡の養女となりました。ていのいい人質ですね。さらにこの人は、清衡の家臣で、清衡一門である清原直衡の娘婿の平則道という人物が早くに妻を亡くしたため、後添えとして嫁がされました。このため平則道は奥州藤原氏一門に列せられます。一〇八四年(応徳元年)、平則道三十九歳、徳姫二十四歳のことでした。
平則道の出自は平氏の流れとされていますが、実際は古墳時代の豪族石城国造を祖とし、清原氏もその流れをくんでいるという説もあります。いずれにせよ奥州藤原氏一門として不動の地位にあることには代わりありません。
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迷惑そうな顔をしながら中居氏が、佐藤氏が顔にふいたカップラーメンを、タオルでふき取っています。「せーんぱーい、こりゃないですよ、たくーっ……」
佐藤氏はそんな中居氏を押しのけて、中居氏のパソコンに釘付けになっています。――では続きをいたしましょう。
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源義家が奥州を鎮定すると、朝廷はこれを私闘とみなして論考功賞を行いませんでした。やむなく義家は私財を投じて麾下に恩賞を与えたため武家層からの絶大な支持を集めます。その結果、なおさら朝廷側から疎まれてしまい、ついには陸奥守を罷免されてしまいます。これには摂関藤原家の意向が大きく関わっていました。
──陸奥国は辺境とはいえ日ノ本一の大国じゃ。昨今、急速に勢力を拡大しておる源氏なんぞに任せておいたら藤原一門とて危ないわ。血は水よりも濃い。藤原清衡とやらは末流とはいえ藤原一門。源氏なんぞより信用できる。……という陰謀があり、源義家は大功がありながらも失脚してしまったわけです。奥州の覇者清原氏を討ち、源義家が排斥され、漁夫の利をしめて最後に笑った男が藤原清衡でした。清衡は配下の武将たちに領地を分配します。平則道には、磐城国とも呼ばれる磐城五郡を与えました。
平則道は、新妻の徳姫を随行して現在のいわき市平物見が丘に居館を置き、磐城国主岩城則道と名乗ります。物見が丘の麓の平野部は市街地となり平と名付けられました。
則道は国主となりしばらくすると亡くなり、貞衡が継ぎ、さらにその後目を繁衡が継ぎます。未亡人となった徳姫は薙髪して徳尼御前と称し、物見が丘の館から少し離れた御台境というところに居を移し簾政をしいたようです。
いわき中央部を流れる河川に夏井川がありますが、夏井川はいくつかの支流を加えて東流し、最終的には太平洋に注がれます。物見が丘の館のお膝元である平には支流の新川が流れていたのですが橋がありません。徳姫は、難儀する領民たちのために、当時としてはハイテク技術でしかも資金のいる大きな橋を建ててやりました。これが、今に伝わる「尼子橋」で、長さ百五十間、幅二間というものでした。
尼子とは徳姫をさします。尼子橋を祝福し讃辞を送った人には、江戸時代の松尾芭蕉もいて、「みちのくの 尼子の橋や 稲の上」という句を残しています。この一句は、橋の完成を祝福したのは人間ばかりではなく商業の神である稲荷大明神までもが眷属を遣わして祝福したのだという伝承を俳句にしたものです。眷属は、老翁老姥と子女十二名が、衣冠装束に烏帽子姿で現れ、橋の開通式典の先頭を切って、笛や太鼓で舞い踊り、「千代は泊まるともこの橋の、御代ながながと末長く、尼子の橋」と万歳のはやしを唱い、橋を渡りきったところで、ふっ、と消えたのだとか。
徳姫はとても長生きします。
一一六〇年(永暦元年)九十七歳のとき夢枕に御仏があらわれ、「三方を山に囲まれ、南に川が東流する祝福の地」に徳姫を案内します。喜んだ徳姫は、早速この地に、毛越寺の浄土庭園と金色堂にならった阿弥陀堂ほかの大伽藍からなる白水寺を築かせ則道公の菩提を弔うとともに、風水的に根拠地物見が丘の守護する南池としたといいます。白水寺は始め天台宗でしたが、現在は真言宗となって願成寺と名を改めます。これが白水阿弥陀堂です。岩城氏の根拠地である平は、平泉の平という字にあやかったもので、白水という字は平泉の泉という字を二つに割ったものだ──という説があります。
そのころ。
白水阿弥陀堂建立の前年、京では、徳姫の兄である源義家の末裔である源氏一門が、一一五九年(平治元年)平治の乱で、いったんは平清盛に滅ぼされています。嫡子源頼朝は伊豆に流されていましたが、徳姫は不遇な頼朝のために差し入れを贈ったりして世話を焼いたそうです。贈り物のなかには兄義家からもらった源氏棟梁家の名宝「波立」があり、不遇の頼朝を大いに励ましました。
一一八〇年(治承四年)に、平氏六波羅政権に対する反乱が各地で連鎖的に勃発し治承・寿永の乱となると、板東平氏を見方につけた源頼朝が伊豆で挙兵をします。六年後の一一一八五年(元暦二年)には、頼朝はついに平氏を打倒します。
その最中である一一八三年(治承元年)に、自らは草庵で質素に暮らし、ひたすら人を愛するためにだけに生きた「北ノ王国貴婦人」は、源氏天下の足音をききながら息をひきとり、亡骸は夫則道と同じ菩提寺である章門寺に納められます。なんと百二十二歳の大往生でした。
一一八九年、源頼朝の弟義経を平泉がかくまっていたということを口実に、頼朝は奥州に遠征し、平泉政権奥州藤原氏を根絶やしとしました。奥州藤原氏一門である岩城氏は頼朝に寝返って存続を認められましたが領地を大幅に減らされてしまいます。
徳姫第二の故郷平泉は陥落しましたが、その結果、岩城国は中世における陸奥国最大の経済的文化的拠点として栄えたともいわれます。皮肉な話しではありますが徳姫の努力が実ったことになり、私個人としては救われた気がします。岩城一族は、栄枯盛衰を繰り返しながらも存続し、近世は羽後(秋田県)に遷って亀田藩となり維新を迎えました。
亀田藩藩庁であった亀田城は、秋田県由利郡岩城町に所在し、その岩城町は二〇〇五年の町村合併で由利本荘市に編入されます。合併前、岩城町は、岩城家つながりで福島県いわき市と姉妹都市になっていました。
一九九〇年前後、白水阿弥陀堂の催しで岩城家令嬢が白水を訪れ、今は亡き私の父が近隣をご案内しました。なぜ父は上京していた私を呼んでくれなかったのでしょうね? いまだに不満です。
最後に、白水阿弥陀堂を訪れた歌人土井晩翠の短歌をどうぞ。「南無阿弥陀、仏と唱ふる一声に すくいの御手のふるるかしこさ」
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パソコン画面の末行まで、読んだ佐藤氏は、ふう、と一息いれました。
「神仏に愛され、領民に慕われ、詩人に讃えられた北ノ王国貴婦人・徳姫か……」
「すっげーっ、徳姫、すっげーっ!」連呼した中居氏が続けます。「ところで先輩、モデルの徳姫が百二十二歳まで生きたというとことは、あのご令嬢も? しわくちゃのババアになっちゃうんすかね?」
そこで中居氏が、はっ、とわれに返ったのでありました。
ぎゃあああああああああ。
一同礼。
了
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引用参考文献
辻金録 『創立八百年記念国寶白水阿弥陀堂』 市川商店 1956年
ほか
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ノート2009/校正20160507