紀行/絶世の美女にドッキドキイ~♥
はるか昔のこと。語学留学の名目で上海に初めて行ったときは、黄浦江対岸の新都市は田園と倉庫しかなく、アールデコや新古典主義建築がひしめく旧市街の〝化石都市〟のみが目を引きました。旧市街のメインストリート〝バンド〟の裏路地も、スラムとなっていて、鶏たちが駆けていたものです。
日中は、四十度を超える暑さ。それでも高層アパートに住む住人たちは、〝八月になったら少し涼しくなりましたね〟とばかりに、夕方ともなると、椅子を持ち出して、歩道橋の上を占領して涼んでいる光景が街の随所でみられたものです。
魯迅公園前には、〝太平天国の乱〟を鎮圧した英国軍人チャールズ・ゴードン率いる傭兵部隊〝常勝軍〟が駐在し、使用した射撃演習場をそのまま道路に転用した広い道があります。
そこを、ふわふわと、さまよっていたら大人びた夏服の女性がこちらに近づいて来るではありませんか。
西施、虞美人、王燕、大僑、小僑、楊貴妃。伝説の中国美女は大概にして江南に生まれ、近現代の美女は大概にして上海に集うのです。私は、何が起こったのやら、把握できずに、胸ときめかしました。
杏のような瞳、めくれあがった唇、気持ちふくよかな頬、長い髪。四肢は長く、颯爽とハイヒールを鳴らす女性は、歩道で足を止めた青年の前に立ち、
──手鼻した
のでありました。まるで江戸時代のいなせな若衆のよう。鼻水は鮮やかに植え込みに飛び、ほかには何も汚すところもありません。絶世の美女は何事もなかったかのように、回れ右をして、行き交う人混みの中へと消え、私の『真夏の夜の夢』は儚くもさまされたというわけです(これぞ大陸だあ!)。
了
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ノート20120619/校正20160508