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掌編小説/回遊魚に捧ぐ、南洋未確認生物奇譚

 一九三〇年代終わりごろのことだ。

 本土で、南洋庁・パラオ支庁に採用された僕は、日本郵船の定期便で渡航した。定期船は二等室と三等室しかない。二等室は相部屋で、帝大卒で同僚となる青年が乗っていた。みるからに優男なその人は、中島敦と印刷された名刺をくれた。――三十になったかどうかというところ、教師あがりで、作家としても知られつつあった。

 食堂でよくでてきたのは、カレーライスとカツ丼で、飲み物といったら日本酒とビールくらい、つまみといったら、枝豆やマグロのツナだった。

 そんなふうに、数週間にも及ぶひがな航海生活を先生とともにした。

 四人部屋になった二等室。通路からドアを開けて正面をみると丸い小窓になっていて、左右に二段ベッドがある。左手ベッドの上が僕で下が先生だ。反対側はサーベルを持った退役間近な海軍大尉さんが一人で占領していた。

 寝っ転がった僕は自分で持ってきたのは江戸川乱歩の推理物を読んだ。それから先生や大尉から借りたちょっと高尚な本も読んだ。それも読み終えてしまうと、図書室にあった、アメリカ人作家・ラヴクラフトの「インスマスの影」という作品を読んだ。

 ――インスマスなるアメリカの漁師町を調査にきたインテリが、半漁人みたいな怪物の群れに追い回され、命からがら脱出する。町の住人は、邪教崇拝をやっている、海の底からやってきた謎の種族と混血し、インスマスを占領した。さらに連中は、近くにある大都市を乗っ取ろうと企てていた。……そのあたりの事情を政府機関に話すと、やがて陸軍部隊派遣により破壊され、海底にある連中の本拠地も、合衆国海軍潜水艦が放った魚雷で破壊されるに至った。

 小笠原諸島を通過して赤道に近づいたころだ。定期便船が大揺れした。なにせ一千トン級しからないものだから、ちょっとしたシケでも大揺れ。しかしその日は、晴れていている。

「ああ、なんだ、あれは」

 僕が声をあげると、繊細な先生はかぶったパナマ帽ごと頭を抱えた。

「昔、友人から、乗っていた小舟が、イルカの大群に取り囲まれて、船体を揺すられ、危なく転覆しそうになったって話しをきいたことがあるんだが……」

「なにせ連中は知恵もので好奇心が強い。しかしイルカに船を転覆なんかされた日にはかなわないですよね」

「いや、イルカではないようだ……」

 黒い影。かなりの巨体。形からクジラじゃない。

 いつの間にきていたのだろう、僕と先生の後ろに立っていた海軍大尉が携帯していた拳銃の引き金をひいて、水中にいる未知の生物に弾丸を撃ち込んだ。

 するとそいつは水面近くから海の底に沈んでいったのだった。

 それから定期便船がパラオの港に着いた。

 もともとパラオ群島は、スペイン、ドイツの植民地を経て日本の信託統治領となった。西部支庁所在地は大小二百余の島があるうち、実質、人が住んでいるのは十島というところ。住民といえば日本からの移民二万五千人強、先住民六千人強、このほかスペイン・ドイツ系の教会関係者二十人弱がいた。

 一九三九年現在、大日本帝国信託統治領南洋庁西部支庁・パラオ群島コロール島の都市マルキョクは、島と同名の縦断道路をメインストリートに、七丁に区割りされている。一丁目から四丁目まで官庁街及び日本人居住地で、南洋庁舎、俗にパラオ支庁とも呼ばれた西部支庁舎がある。――役所は、どれもこれも植民地様式の木造二階建てか、本土にある田舎の学校みたいな感じだった。対して、移民してきた日本人の家は、小笠原や沖縄にあるような寄棟瓦屋根平屋の家で、小さな日本庭園まであった。

 先生は、フランスの画家ゴーギャンみたいに現地妻をこしらえて南洋のパラダイスを体感するというような人ではなく、先住民に同情的で、イギリスの作家モームみたいに、島を舞台にした短編作品を書いたりしていた。

 大尉はといえば、第一次世界大戦後のパリ講和会議条約で、ドイツからぶんどった植民地のパラオ群島を信託統治領に編入する際、軍港をこしらえてはならぬ、となっていたのだが、近々脱退するらしく、青写真をつくっているようだった。

 ときたま、三人で連れだって、料亭やらカフェ、映画館なんかにもゆくこともあった。

 数年後、文壇に認められた先生は、南洋庁を辞して職業作家となるべく内地に帰ることになった。それからほどなく、先生は持病の喘息が悪化して亡くなった。――大尉は、「本土は気温の寒暖差が激しい。お身体のことを考えるならば、先生はここにずっとおられるべきだったんだ。あのとき引きとめておけばよかったわい」と悔いている様子だったが、それは運命というものだろう。

 その大尉も、太平洋戦争の最中、パラオのアメリカ軍上陸の際、航空隊基地にあった高射砲で敵機と撃ちあって被弾し、名誉の戦死を遂げた。

 僕はといえば、大尉が海神に召された後、引き揚げ船に乗せてもらい無事本土に帰還した。その航海で日本人たちは、何隻かの船に分乗してのものになったのだが、一隻は敵潜水艦の魚雷で沈められた。

 どうにか本土に生還したとき、船員に話をきくと、敵魚雷が本船にもむかってきていた。ところが、海中に黒い影がみえて盾になってくれたらしい。乗客のなかにも目撃者がけっこういるのだが、具体的に、どんな形をしていたのかというと証言はマチマチだ。

 ――ある者はアザラシのようだったといい、ある者はサクラダイのようだったといい、またある者はスルメイカのようだったともいう。あまつさえ、なかにはマグロが巨大化したものに違いないという者までいた。……取材にきた新聞記者はよほどの恐妻家なのだろう。その記者の故郷では嫁のことを〝やあ〟と呼んでいるらしい。新聞三面記事タイトルは、「引き揚げ船、南海で海獣〝やあ〟と遭遇!」としてあった。

     了

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ノート20060428

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