序章
「アステリアを返せ!」
怒りと恐怖心で剣を握る手が汗ばむのがわかる。すべり落さないように剣を握る力を強くする。頭上にて不敵な笑みを浮かべているのは竜魔王ベルムクサアス。ヤツの鉤爪のついた強靭な左腕には気絶し項垂れたアステリア姫が抱かれている。
「お前風情にこのワシが倒せるとでも思っているのか」
竜の口から発せられるベルムクサアスの声は地響きのような低音で、その振動が皮膚や鎧や剣に深く響き渡るのが感じられる。
「倒すしかねーんだよ・・・そう約束しちまったんだ・・・」
俺は剣を構える。城の庭園でのアステリア姫との約束、そして口づけを思い返す。心に決意がみなぎるが、それでも構えた剣はどこか自信なさげに震えていた。
「おらああああああああああ」
俺は自身の震えを隠すように大声をあげて、ベルムクサアスに向かって突進し、剣を振り上げた。
「甘い」
ベルムクサアスの右腕はその巨体にも関わらず、突風を引き起こすような素早さで俺の身体を跳ね飛ばした。身体の内部に"ボリッ"という感触を覚えた。俺は自分の意識よりも早く石の地面に激突し、子供の玩具のように転がった。
「く、くそぉ」
俺は剣を杖代わりにして起き上がろうとした。
「うが、うがぁっ!」
俺の胸を強烈な痛みが襲う。先のベルムクサアスの攻撃によって肋骨が折れたのだろうか。下手すれば折れた肋骨が肺に突き刺さっているのかもしれない。息をするたび苦しさとヒューヒューという空気が抜けるような音がする。それでも俺はベルムクサアスに負けるわけにはいかなかった。強烈な痛みに耐えながらなんとか立ち上がり、両手で剣を構えようとする。だが俺はその時、左腕がすでに使い物にならなくなっていたことに気づいていなかった。
「なんと哀れな姿よ・・・」
ベルムクサアスは俺をあざ笑った。俺の左腕は、前腕の真ん中のあたりで外側に折れ曲がっており、傷口からは筋組織と折れた橈骨が無様に飛び出していた。
「そ、そんな・・・」
力を失った左手がブラブラと垂れ下がる。それでも俺は右手だけで剣を握りこんだ。ベルムクサアスに向かって走ろうとするが壮絶な痛みと精神的な苦痛のせいでふらふらと千鳥足のようになってしまう。ベルムクサアスは笑うのをやめて無表情になった。それはさながら「飽きた」と言いたげな表情だった。
ヒュッと風を切る音がした。見ると、ベルムクサアスの鈎爪が血に濡れていた。ボロン、俺の体から何かが落ちた。地面を見るとそれは剣を握っていた右腕だった。俺は両腕を失ったのだ。
「うわ、うわうわうわ、うわあああああああ」
俺が絶望して項垂れかけたその時、グラッと世界が揺れた。いや、世界が揺れたのではなかった。俺の両足が胴体から離れたのだ。俺はパニックにいなって芋虫のようにじたばたと動き回る。しかし今の俺には反撃することも、逃走することも不可能だった。
「もうあきらめろ」
ベルムクサアスは巨大な鈎爪を俺の顔面に突き立てた。死ぬのはわかっていたが、それでも怖かった。
「すいません!すいません!なんでもします!殺さないでください!すいません!すいません!申し訳ありませんでした!すいま」
ベルムクサアスの巨大な鈎爪がゆっくりと俺の顔の鼻あたりから肉と骨を押しつぶし始めて、それから眼球がプチリと押しつぶされ、折れた歯が舌に食い込み、そして頭蓋骨の破片と脳味噌が頭皮を破って地面に飛び散ったのであった。