序章:私はレディ・クロムウェル 01
一度書いてみたかった悪役令嬢もの
ヴィヴィアン・クロムウェルはティンダル王国クロムウェル公爵の嫡子である。
輝く美貌と素晴らしいスタイルを持つ彼女は自国の王太子・サミュエルとの婚姻を待つ身だ。
だが、彼女は知っている。その婚姻は成ることがないどころか、王太子の手によって公爵家は没落、そして自分は『他国の皇女殺害未遂容疑』によって処刑される運命を。
ヴィヴィアンが事を知ったのは16歳の誕生日だった。
無事成人を迎え、あとはこの社交界で存分にとりまきを増やし、遠くない未来に王妃として贅を尽くすだけ――そう思っていたその日の夜、彼女は倒れた。突然頭に振ってきた情報量に、柳のような彼女の体が耐え切れなかったからだ。
前世の常識・知識――まるで妄言のようだが、彼女の知らない膨大な量の記憶が降ってきたのだ。
ヴィヴィアンの前世はこの時代ではなかった。この時代どころか、この世界ですらなかった。
彼女は日本という極東の島国で、今よりずっと科学技術・機械技術の発達した世の中で、なんと働いていたのである。
しかも少し不憫で不運で不遇な身の上で、早世した。
そんな可哀相な彼女の趣味の一つが読書であり、彼女はライトノベルの恋愛小説を特に好んでいた。
その愛読書の一つがまさにこの世界について書かれた本だったのである。
そう、ヴィヴィアンが生きているこの世の中は、どうやら前世・天内舞香の知る紙の上の世界だったのだ。
「冗談でしょう」
ヴィヴィアンは目が覚めて、その事実を理解できるようになってから深いため息を吐いた。
そして、ふと首を横にして、視界に入ったものを認識して、叫んだ。
デビュタントの後に王太子からお祝いだと送られたエメラルドの首飾り。それがかの本で処刑された公爵令嬢の象徴、クロムウェル公爵令嬢の首飾りだったからだ。
この世界のことが描かれたその小説は『リリスの花道』というタイトルだった。
タイトルの通り、『リリス』という少女がヒロインである。
ヒロインのリリスは、ティンダル王国シートン領の子爵令嬢で、彼女は国王が主催する舞踏会で王太子と運命的な出会いをする。
段々と二人は思い合う様になったが、その事実を傲慢で高慢な王太子の婚約者、クロムウェル公爵令嬢が知ってしまい、彼らの仲を引き裂こうとリリスを誘拐、隣国の帝国に置き去りにする。
実はこの置き去りにした帝国の皇帝の兄がリリスの実の父親で、彼女は隣国の皇女だったのだ。
兄を慕っていた皇帝はリリスを皇女として迎え入れ、皇女となったリリスは王太子との結婚を望む。
同時期に愛するリリスが公爵令嬢によって誘拐されたと知った王太子は、公爵家を徹底排除することを決定・実行する。
もともと汚職と不正にまみれていた公爵家はあっという間に証拠を掴まれ没落、公爵令嬢は隣国の皇女の拉致殺害未遂により処刑される。
隣国の皇女となったリリスと、王太子は無事結ばれ、ハッピーエンド。
そして王太子の名前はサミュエルといい、ヴィヴィアンと婚約しているティンダル王国王太子サミュエルと同一なのである。
ファーストネームは出てこないが、作中に入る挿絵とうり二つな首飾り、王太子の婚約者という立場――さすがのヴィヴィアンもかの公爵令嬢は自分だと認識せざるを得えない。
「前世ですら結婚できずに殺され、現世でも結婚できずに死ぬなんて冗談じゃないわ!」
あまりの現実に、ヴィヴィアンは人目もはばからず言葉にならない言葉をまき散らして泣いた。
その声に慌てて部屋に入ってきたメイドは、ずっとひとりで泣き喚くその姿に困惑した。
メイドの認識では、ヴィヴィアンは倒れたことに癇癪を起し、使用人に当たり散らすと思っていた為だ。
あまりに異常だったのか、メイドは医者を連れてきた。
泣き腫らした顔のヴィヴィアンを見た医者は、心の疲れと判断し、彼女に瀉血を施すことを決めた。
血を抜かれ、薄れゆく意識の中ヴィヴィアンが思ったことは、どうにかして生き残りたい、それだけだった。
二度目の気絶から目を覚ましたヴィヴィアンは、まず自分の置かれた状況を整理することにした。嘆くにも涙は枯れ、怒ろうにも血は頭まで上がってこなかったからだ。
作中のクロムウェル公爵令嬢は、とても傲慢で、癇癪持ちだった。
自分の事以外を虫けらのように思っており、王妃になったらこれ以上の贅沢三昧をしてやることばかり考えている人でなしだ。
「やだ、そのままじゃない」
ヴィヴィアンは思わず自分の口に手をやった。心当たりしかなかった。
彼女が癇癪持ちなのはこの屋敷中の周知の事実であり、いつも当たり散らすため使用人はいつもヴィヴィアンの顔色を伺って仕事をしている。
舞踏会やお茶会で会うご令嬢はほぼ全員がイエスマンであり、ヴィヴィアンに意見することはない。
むしろ、今現在自分を遠巻きにしている令嬢や夫人たちを、王妃になったら思いっきり冷遇してやるとすらヴィヴィアンは考えていた。
クローゼットには毎月新調するドレスがずらりと並び、大ぶりな宝石がついた首飾りやブローチが所狭しと並べられて、キラキラと輝いている。
どう考えても役満。そんな言葉がヴィヴィアンの脳裏に浮かんだ。
「この人望の低さじゃ、死んでも誰も助けてくれないわ。かといって使用人に媚びへつらうなんて絶対いや」
いくら前世の記憶と性格が混ざったとはいえ、ヴィヴィアンはヴィヴィアン。
16年間培った性格について、前世は客観視できる程の視野の広さや、新しい価値観はくれたが、根本を変える程の強さはなかった。
つまり、ヴィヴィアンは今、メイドと自分を同じ人だとは思えないのである。
「うーん、追々どうにかするしかないわ、近々、どうにか農婦だって同じ人だと……思えるようにするわ」
絵画の農婦とのにこやかな会話を想像しただけで、ヴィヴィアンの胸に言いようのない嫌悪感が広がった。
そもそも農婦というのは、自分の言葉が通じるのだろうか。
冗談でなく、ヴィヴィアンは本気でそんなことを考えていた。
先はどうやら果てしなく長そうである。
次に、ヴィヴィアンは家の状況を理解しようとした。
ヴィヴィアンの生家、クロムウェル公爵家はティンダル王国が成立したときに最も貢献したと言われる七公爵家の筆頭である。
そして現在まで栄光を保っている唯一の公爵家だ。
最近はノース伯爵が台頭してきているが、領地・権威・軍事ともにまだ王国一である。
まだ、と付いてしまうのは、もう間もなくノース伯爵家がクロムウェル公爵家を没落させることを本で知ってしまったからだ。
100年の栄光が既に斜陽どころか風前の灯だ。お先真っ暗とはまさにこのこと。
しかし、現状を把握しようにもヴィヴィアンは公爵領の経営についてなどさっぱりわからないし、知らない。
所詮貴族の娘はお家繁栄の道具であり、数字を覚えるくらいなら愛想を覚えさせるのが定石。
ヴィヴィアンもその例に漏れず、歴史よりもダンス、読書より絵と刺繍が得意であるし、数字など簡単な計算もおぼつかない程だ。
しかし、ヴィヴィアンには前世の知識がある。
前世は領地経営などしてはいなかったが、ヴィヴィアンよりはるかに数字についての知識があった。
もしかしたら、彼女の知識で読めるかもしれない。
「エム!」
ヴィヴィアンはお気に入りの扇子をぱちんと鳴らし、声を張り上げた。
「なんだい、ヴィー。王太子の好きな食べ物? それとも王太子の好きそうな女の子の傾向かな?」
ヴィヴィアンの影から黒いローブを着た男が出てきた。
男は目を布で覆っており、見えるのは形の良い鼻と、妙に口角のあがった薄い唇。明らかに不審人物ではあるが、ヴィヴィアンはこの男を信用していた。
彼はエム。
ヴィヴィアン専任の影だ。名前はヴィヴィアンも知らない。
クロムウェル家は代々、影と呼ばれる特殊部隊を所有している。クロムウェルの姓を持つ限り、専任の影を一人一匹飼うことが出来るのだ。
エムはヴィヴィアンが5歳の頃選んだ影で、ヴィヴィアンの無理難題をこなし、11年たってもまだ生きている。
専任の影は無茶を任されることも多く、死亡してしまう事も多い。そんな中、11年も生きているエムは公爵家の影の中でもかなり優秀な部類なのだ。
「私は領地経営に目覚めました。経営に関する書類をすべてかっぱらってきなさい」
「何、その無理難題……しかもそんなの膨大になるに決まってるじゃん、もっと限定して」
「……没落するとしたらどういう理由で没落するか、わかるものよ」
「は?」
「二度も言わせないで! こんなこと口にしたくないんだから!」
ヴィヴィアンはとにかく取ってこい、と扇子の先をエムに突き付けた。
普段だったら扇投げつけているところなので、前世の記憶はヴィヴィアンの癇癪や衝動に多少の歯止めをきかせてくれているらしい。
「……わかったよ、とりあえず持ってくるから」
「必ず持ってきなさい!」
絶対よ、とヴィヴィアンはエムに念押しをして、窓から消える彼を見送った。
* *
豹変、とまではいかなくても、癇癪を起しづらくなった私に周りがざわついているのは知っていたけど、まさかここまでとは。
「お嬢様、近頃は使用人へのお心遣い、誠にありがとうございます。お嬢様の優しさに触れることができ、我々は感動で震えております。使用人を代表し、私がお礼を申し上げに参りました」
金髪の髪をシンプルにひっつめ、神経質そうな顔のギュンター夫人は、ひどく遠回りで二重三重に包装紙に包んだ言葉でヴィヴィアンを問い詰めてきた。
彼女が言いたい事を、もっとストレートに表現すると『お前最近メイドに対して当たり散らすのやめたんだってな、癇癪を起こして扇子投げつけたり、使用人をひっかいたり、お茶をぶちまけたりしないようじゃないか、どうしたんだ』である。
恐らく、メイドたちの言葉の真偽を確かめるために彼女がわざわざ部屋に来たのだろう、まったくご苦労なことだとヴィヴィアンは思った。
ちなみに、ギュンター夫人のことをヴィヴィアンは厳しいから大嫌いである。以前であれば、彼女が視界に入るだけで癇癪を起こし、喚き散らすほどに。
「……デビュタントも済ませたのだし、わたくしも大人になったのよ。」
扇子で口元を隠しながら、胸の不快感に耐えつつ、ヴィヴィアンはおっとり答えた。
前世の記憶からです。などとは口が裂けても言えないが、口にしたら当たらずとも遠からずである。
彼女の記憶を思い出してから、癇癪なんて体力の無駄だと気付いた。なにより、必要以上につらく当たられた身はきついと実体験をもって分かったのだ。
前世で働いていた時の、あの道理の通らない事で怒鳴られたりなじられることの腹の立つことと言ったらない。ヴィヴィアンのメイドたちや、使用人たちはよくもまあ耐えていたものだと感心する。
まあ、16年間やってきてしまったことは謝れないし、謝らないけど。
申し訳ないとは思うが、使用人たちにしてみれば今更謝罪を受けるのも癪だろうし、なにより貴族の娘が平民に頭を下げる、という事をヴィヴィアンの矜持が許さない。
ヴィヴィアンはあくまで今は公爵令嬢。ゆえに、下々に下げる頭などないのだ。
「素晴らしいお心がけでございます。お嬢様の安らかな毎日のため、我々も引き続き尽力させて頂きます」
「ええ、ギュンター夫人。あなたの素晴らしい手腕に期待しているわ」
なにがあったかは知らないけど、癇癪を起こすのは金輪際止めてくれるのならそれでいい、というのがギュンター夫人の言い分だ。
ヴィヴィアンはその言葉に、そっちに不手際がなければ当たらないでやるとこちらも遠回り極まりない言葉で答えてやる。
ヴィヴィアンの冷静な対応にギュンター夫人は少しだけ目を見張った後、恭しく一礼しさっさと部屋を出ていった。