ニアリーの初恋
神族革命期の小話。
時は三代目族長の時代。のちに神族暗黒時代と呼ばれる時代。
ニアリー・ココ・イコールは母と二人、小さな町の外れでひっそりと生きていた。
父はもう何年前になるだろうか、記憶にないほどに昔、族長に歯向かった一団のとばっちりで処刑された。父と血縁だからという理由で殺されそうになった母と幼いニアリーは、母の機転で上手く逃げ出せた幸運な例だ。
それからずっと、この小さな町の外れで暮らしている。
ニアリーもそれなりに身長も伸び、そろそろ成人といってもいい。(神族の成人はそれぞれの集落や町ごとに異なるのでどうとでも言えるが)
「お母さん、大丈夫?」
ごめんね、と謝るのは簡素なベッドに横になる母。不老長寿と言われる神族だが、最近は少し老いが見えてきた気がする。
謝らないで、とニアリーは母に布団を掛け直す。
慎ましく暮らしているから極端な貧乏暮らしではないが、働き手であった父がいなくなってからの生活はやはり少々苦しいものがある。
数年前に突然、革命軍を名乗る者たちが現れた。三代目族長に反する意思を持つ者たち。
その争いは今や神界全土に及んでいる。
(いつか、この町にも戦火が広がるのだろうか)
ニアリーは不安を隠せない。
母と二人、どうにか生き延びているが、いつまでこんな世の中が続くのだろう。長命である神族、その不安が続くのは短命の者たちよりも長いかもしれないという予想は立つ。
しかし母に心配はかけられない。
ニアリーは努めて笑いながら、母の額に手を置き、熱を測った。
「ごめんね、ニアリー……」
「もう。だから謝らないで。ただの風邪だもの、すぐに治るわ」
しばらく熱が続く母のためにも、なにか滋養のあるものを食べさせてあげたい。ニアリーは出かける準備をしながらそんなことを考えた。
「それじゃあ、お店の方に顔出してくるね」
「いってらっしゃい、気を付けてね」
お店とは、母と二人でひっそりとやっている食堂のことだ。小さな町の小さな食堂の看板娘としてニアリーは手伝いをしている。
しかし数日前から母が風邪で倒れてしまった。ニアリーは一人でランチの時間だけ店に顔を出すようにしていた。
家を出て、店の方へ歩いていくと、常連である近所の女性がにこにこと手を振っている。
「こんにちは」
「こんにちは。……今日も女将さんは変わらず?」
「はい……なかなか熱が下がらなくて」
言いながら空を見上げる。灰色の雲が冷たい空気を纏いながらそこに鎮座している。
ニアリーと同じように空を見上げた常連の女性ははぁと重たいため息を吐いた。
「三代目になってからずーっとこんなおもっ苦しい天気。嫌になるよね」
「……しぃ、どこで誰が聞いてるかわかりませんよ」
そうね、と女性も眉を下げて頷く。
ニアリーは店の扉を開いて女性を招き入れた。
カウンターに入り、エプロンをして手を洗い、昨日から煮込んでいるスープの鍋を確認する。
「オルジュさん、いつも通り、日替わりランチでいいですか?」
「いいよぉ。今日のランチはなに?」
「煮込みハンバーグと野菜のスープ。パンは干しブドウの」
「やったぁ、ニアリーちゃんのハンバーグ大好き!」
常連――オルジュは両手を上げて喜んでくれる。それにふふと笑って、ニアリーは手早く皿などを準備した。
カランと扉につけたベルが鳴って、来客を知らせる。今度は常連の夫婦だ。
それにも笑顔で対応し、メニューを知らせる。
三人にランチを提供したところで、調味料がいくつか足りないことに気付いた。しまった、とニアリーは唇を噛む。
「どうしたの、ニアリーちゃん」
カウンター席で見ていたオルジュがスープを飲む手を止めて首を傾げた。
その、とニアリーは言い淀む。
開店前に気をつけなければ、いや、昨晩の時点で気付いておかなければならなかったミスだ。
しょんぼりと肩を落とすニアリーに、オルジュはくすくすと笑う。
「少しならあたしが見ててあげるよ。急いで買ってきたらいい」
でも、と眉を下げるニアリーだが、テーブル席で話を聞いていたらしい常連夫婦もにこにこと笑いながらニアリーに行っておいでと勧める。
「……すぐ、戻ります!」
ニアリーはエプロンをしたまま駆け足で店を飛び出した。
手早く必要なものを近所の雑貨屋で揃えてニアリーはほうと息を吐いた。あとは店に戻るだけ。
常連三人組にはなにか礼をしないと、と真面目なニアリーは拳を握る。
バタバタと、騒がしい足音が近付いてくるのに気付いたのはそのときだ。
「全員、動くな!」
大声を上げたのは見慣れない服装をした者たち。みな一様に白い軍服のような服を着て武器を手にしている。
その先頭で剣を掲げた男がじろりとニアリーたち町人を睨みつけた。
彼らの掲げる旗を見て、道を歩いていた者たちもニアリーも息を飲んだ。蛇と白薔薇の踊るそれは三代目族長、もしくはその親衛隊の証。
通りを歩いていた女性がヒッと息を飲んだ。腰が抜けて尻餅をつく。
「動くなと言ったはずだ!」
怒鳴り声。剣を持った男が近付いてくる。
ニアリーは――思わず荷物を落としてその前に手を広げた。
「なんだ、娘」
「な、なにもしてないでしょうっ」
ははと一団の方から嘲笑が聞こえた。
誰もなにもしていないのに。
ニアリーは女性の前で手を広げながら、きつと男を睨みつけた。
男は嫌な目でニアリーを見下ろす。
「なにもしてない? いいや、お前たち××の町の住人は族長さまに対する不敬を働いた!」
「な、にを……」
「先月、献上しろと伝えたものが一切城に届かなかった」
親衛隊の一団が二つに割れる。その間を歩いてくる別の男が手に持っているのは――
「町、長……さん……?」
ざわりと町が騒めいた。
はははと剣を持った男が笑う。町長の首を掲げた男はぐるりと町を見渡した。
「この者のようになりたくなくば、今から言うものを献上しろ」
今度は首を掲げた男の横から別の男が前に出て羊皮紙を紐解いた。読み上げられるのは町でかつて有名だった地酒の名前や、女性の名前、金目のものとなんとまぁ俗物的だ。
中にニアリーの名前もあって、彼女は嫌悪に背筋を凍らせた。
足が震える。
その様子を見て剣を持った男がくくと喉の奥で笑う。
「小娘、俺たちに盾突いて無事でいられると思っているのか」
なんて陳腐なセリフだろう。そんなセリフ、昔読んだ冒険譚の三下モブくらいしか吐かないものだと思っていた。
しかし本で読むのと実際に言われるのとでは違う。動けない。恐ろしい。そんな気持ちばかりが湧き上がってくる。
それでもニアリーは唇を噛んで男を見上げた。
背後でようやく動けるようになったのか、女性が男に気取られないようにニアリーの服の裾を引いている。
けれど、ニアリーは退けない。もう、あとには退けないのだ。
(ごめんなさい、お母さん)
あの町外れの家なら、静かにしていれば親衛隊に見つからないかもしれない。見つかっても、手出しされないかもしれない。
それだけを希望に、ニアリーは自身に近付いてくる無遠慮な男の手を払った。
「なにをする!」
「さ、触らないで! わたしは――わたしたちは、あなたたちなんかに屈しません!」
なにを、と男の額に青筋が走る。
剣を振り上げるのが見えた。
周囲からは悲鳴が上がる。
親衛隊の一団はにやにやと笑っている。
「――よく言ッタ」
知らない声が聞こえた。
振り下ろされる銀色の刃。
ニアリーは我慢出来ずに目を閉じる。
「……?」
我が身を貫くと思われた衝撃は来ない。
背後でああ、と女性が息を吐いたのが聞こえる。
ニアリーはそっと目を開けた。――誰かが、ニアリーの前に立ち塞がっている。
そろそろと見上げれば、黒髪に黒い服の男性がなにか札のようなものを持って親衛隊の剣を受け止めていた。
見れば、道のあちこちで固まっていた町人の目の前に長方形の紙のようなものが浮いている。
(だ、誰……?)
知らない人だ。
少なくとも、この町の者ではないだろう。
砂まみれの風が男性の短い髪を揺らす。ちらりとニアリーを横目で伺ったその瞳は――怒りに燃えていた。
「――っ」
男性はすっと親衛隊に向き直り、受け止めたままだった剣を弾く。
親衛隊の男たちが目を見開いた。
「ここにいるのは武器を持たない者たちダケダ……ソレヲ、貴様、なにをしようトシタ……ッ!!」
男性の静かなる怒号はニアリーを害しようとした親衛隊の男だけでなく、一団全員に降り注いだ。
なにを、と男が再び剣を振り上げる。
しかしそれよりも早く黒髪の男性が腕を振るのが早かった。
何百もの四角い紙が男を襲う。男は悲鳴を上げて紙に埋め尽くされた。
男性はそれを一瞥して、警戒する一団を確認――何故か、ニアリーの方を見た。
「コレヲ」
そう言って手渡されたのは、町人たちの前に浮かぶものと同じ、なにやら妙な模様が描かれた長方形の紙。
ニアリーが受け取ると、男性は満足そうに頷いて、再び親衛隊一団を向いた。
「っ――隊長になにをした! くそ、あいつを捕らえろ!」
町長の首を掲げていた男が首を投げ捨てて叫ぶ。薄く積もったままだった雪の上に赤いものが散った。
男性は懐から数枚の紙を取り出すと、それを親衛隊へ向けて投げる。
「シフィユ・トロワ!」
「フィラ・キャトル!」
親衛隊の魔法が男性を、町を襲う。
ニアリーはひっと小さく悲鳴を上げて後退る。
しかしその衝撃がニアリーを襲うことはない。見れば町人たちも無傷だ。
ほわりと手の中で長方形の紙が光った。町人たちの目の前に浮かぶ同じものも、同じように光っている。――透明な障壁が、彼らを守っていた。
「これ……」
きっとニアリーが魔力感知能力を持っていたら、その紙――札に籠められた魔力が目の前に立ち塞がる男性のものと同じだと気付いただろう。
男性はもう一度振り返ると、軽く手を振ってニアリーたちに後退するように指示した。
「ニアリーちゃん、こっち!」
家の影から飛び出したのは店にいるはずのオルジュ。彼女はさっとニアリーとニアリーが庇った女性の手を引くと、家の影に隠れた。
逃げる間際に男性を見る。
男性は小さく頷くようにして、また親衛隊に向き直る。その足元では札まみれのミノムシと化した親衛隊隊長が転がっていた。
それを踏みつけて、男性は両手を振る。――数十、数百の札が宙に浮いてた。
「俺の名はロウ・アリシア・エーゼルジュ。貴様ら三代目族長と親衛隊に叛旗を翻す者デアル! ……死にたい者からかかっテコイ、死にたくない者は疾くト退ケ!」
誰もが息を飲んだ。
一瞬ののちに沸騰した親衛隊一団の総攻撃が男性――ロウに降りかかる。
+
心配したのよ、と戦場となってしまった町の通りから離れてからオルジュはニアリーを抱きしめた。
聞けば、いつまでも帰ってこないニアリーに加え、騒がしい通りの様子を見に来たのだという。
ふと投げ出してしまった買い物袋を思い出した。きっと無事ではないだろう。
まだ心臓がどきどきと素早く脈打っている。
(ロウ……アリシア、エーゼルジュ……)
彼はそう名乗った。いや、もしかしたら本名じゃないかもしれない。
それでも、彼はニアリーを、町人たちを救ってくれた。そして、今も戦っていてくれている。
ニアリーは通りの方に視線を向けて、ぎゅっと手を握り締めた。
さらりと流れる黒髪と意志の強い赤目が脳裏を過る。
どうか、無事でいてほしい。
「お店は閉めてきたけど、いつあっちまで被害が及ぶかわからないわ。ニアリーちゃんはおうちに戻って女将さんを安心させてあげて」
「……ありがとうございます」
母のことも心配だ。
ニアリーはオルジュの言葉に甘えて身を翻した。まだ握ったままだった札が、暖かい光を発していた。
+
喧噪が去り、鎮火したのは翌日早朝だった。
静かになった町をこっそりとニアリーは歩く。
危ないことはわかっている。それでも、あの男性がどうなったのかが気になった。
一晩中握っていた札はくしゃくしゃになってしまったが、未だ淡く光っている。
そろりと騒ぎの中心だった通りを見れば、家や店が半壊しているのがよく見えた。
「……」
白い旗が燃えている。
あちこちに白い制服を汚して横たわる者たちの姿が見える。
ニアリーはそれから目を逸らして、辺りを見渡した。
男性――ロウが一人、なにかを拾い上げて立っていた。
「あ……」
昇り始めたばかりの太陽に黒髪が照らされている。風が白い頬を撫でている。
ロウは――ゆっくりとニアリーの方を見た。
ぱちり、と赤い目が瞬く。その瞳にはもう燃えるような怒りはない。
ニアリーはなにかを言おうとして、なにを言っていいかわからず困ってしまった。
ロウがのんびりとした足取りでニアリーに近付き、「コレヲ」と少々汚れた買い物袋を差し出した。……ニアリーのものだ。
「確カ、お前のものだっタロウ。汚してしまッタナ」
すマナイ、とロウは頭を下げる。
とても一人で親衛隊に立ち向かった者には見えなかった。
「……間に合わナクテ、すまなカッタ。もっと早く到着してイレバ、町長モ……」
ふるりとニアリーは首を振る。
あちこちに倒れているのは親衛隊の姿ばかり。知った姿はない。
街の人たちもそろそろとロウの様子を伺い始めているのが見えた。
「少なくとも、わたしはあなたのお陰でこうして無事でした」
「……」
ロウは小さく頷く。それでも、納得はいっていないようだった。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
「……ソウカ、そウダナ。これだけの数を助けラレタ」
ふ、とロウは笑ってニアリーの頭に手を置いた。
身体中の血が沸騰したかのように、ニアリーは錯覚した。ぐるぐると視界が回りそうな、それでも世界がきらきらしているかのような、そんな気持ちが湧き上がってきて、ニアリーは息を飲む。
ロウはそんな様子のニアリーに気付かず、周囲を見渡した。遠ざかる頭の上の熱が寂しくて、ニアリーは思わず男性を見上げる。
「すぐに人を派遣さセルカ。もうここに族長の手の者が来なイヨウ、手配スル」
それだけ言うと、ロウは光の残滓だけを残して跡形もなく消え去った。――転移魔法だ。
残された光もあっという間に消えてしまう。
「……ロウ、さま……」
どきどきと胸が高鳴っている。でも、もうあの人に会うことはないだろう。
(だって、あの人は転移魔法すら無詠唱で使えるような、高位の方。きっと、噂の革命軍でも上位の……)
彼なら、彼の属する革命軍なら、あの族長や親衛隊をどうにか出来ると思った。
ならばいつか革命は成るだろう。ただ、そのときにあの男性が存在するかはわからない。
ニアリーは胸の前でぎゅっと手を握った。
どうか、どうか、あの人が無事に思いを為せますように。
それからニアリーが再び彼の名前を、新たに立った四代目族長とその右腕たちの名前を聞くのは――そう、遠くはない未来のことである。
セリフの前後に空白行入れてみました。読みやすくなっているといいなぁ。