幸せな日【シュザベル×ティユ】
製本版にてカバーイラストを描いてくださっている苺ちゃんへの誕生日に捧げたもの。……2021年?
あの大精霊祭の日からいくつかの夜を越えた。
シュザベル・ウィンディガムは家に唯一ある母の大きな姿見の前で深呼吸をした。
今日は特別な日。
姿見にうつる青年の姿は緊張した面持ちでうまく決まらない前髪の角度に口を尖らせている。
真新しく清潔感のあるシャツに袖を通し、それに合うスラックスと靴。髪は長くなってきたからそろそろ切った方がいいかもしれない。
……本当なら今、切ってしまいたいがそれで失敗したら元も子もない。諦めていつもより少しだけ高い位置で結んだ。
眼鏡はいつもの通りだが、心なしか無機物のくせにキリっとした面構えのような気がした。本当に気のせいだけれど。
もう一度、深呼吸。
変な恰好ではないだろうか。寝ぐせはついていないか。念入りに何度も確認するが、どうも落ち着かない。
時間は太陽の角度からしてまだ朝の八時過ぎ。
朝食は食べたが、なにを食べたか覚えていない。作ってくれた母には申し訳ないが、喉を通っただけで十分だろう。
体調は万全。ただ少し緊張しているだけだ。
そう、緊張しているだけ。
今日は――今日は、改めて恋人同士となったティユ・ファイニーズとのデートの日。
待ち合わせの時間は十時ごろ。場所はいつもの博物館前。
かつて出会った、思い出の場所。
彼女との出会いはやはり、運命だったのだと、シュザベルは柄にもなく思ってしまうのだ。
順風満帆だったとは言えない、秘密の関係。
離れていた――いや、避けていた期間。
そうして訪れた、突然の転機。
ようやく、ようやく彼女に真正面から向き合うことが出来る。
それを噛み締めるとシュザベルは胸の奥がムズムズとして、いつもの静かな表情が保てなくなりそうなほどに――幸せを感じるのだ。
もちろんまだ周囲全体に祝福されているとは言えない。
それでも。
それでもシュザベルは歩き出した。確かな未来に向けて。二人で。
それを思うとやっぱり顔がふやけたようになってしまって、姿見にはみっともなく口元を緩めた青年が平和ボケしたような顔で立っているのだった。
「……重傷、ですね」
慌てて頬を軽く叩いて表情を作る。
流石に愛しい彼女にこんなふにゃふにゃした顔は見せたくない。
それは思春期の青年として、男としての意地だった。ちっぽけだが、それでも大切な意地なのだ。
何度目かの深呼吸。今日の予定を脳内で確認する。
デートとはいっても、魔法族の集落内だ。変わったところはないし、目新しい場所に行けるわけでもない。
ただ二人で博物館を見て、お昼ごはんを一緒に食べて、適当に人の少ない場所を選んで散歩するくらいになるだろう。
それでもデートには変わりない。
どれくらいなら近付いても平気だろうか。
手を握るくらいはしてもいいだろうか。
どんな話をしよう。やっぱり彼女の好きな遺跡の話だろうか。
ぐるぐると考えながら姿見の前を行ったり来たりするシュザベルの姿は、いつもの友人たちに見られたら噴飯ものだろう。顔から火が出そうだ。
だが残念なことに今の彼の脳内に友人など欠片も存在しない。
「…………早めに出て、少し一人で歩こう……」
このまま家にいてこの姿を両親に見られるのも避けたい。あと幼い妹に捕まったら外出もままならなくなるだろうし。
シュザベルは妹を背負って洗濯をしている母の横を素早く通り抜けて、軽く声をかけるだけで家を出る。
暗くなる前に帰るのよ、と母の言葉に生返事をしながら博物館の方向へ速足で歩きだした。
「――おや、」
博物館の前にはよく見知った影。まさか、と足を速めた。
「シュザベル……お、おはよう!」
見知った影はティユその人だった。
淡い緑のラインの入った薄手のワンピースからのびるすらっとした二本の脚がこちらへ向く。
シュザベルは目を瞬いて、慌てて彼女の方へ駆けた。
「ティユ――おはようございます。……まさか、待ち合わせの時間を間違えてしまいましたか?」
ううん、とティユはゆるくセットした髪を揺らして首を振った。
「家にいたら落ち着かなくて、早く来ちゃった」
正確な時間は族長などが持つ時計を見なければわからないが、まだ約束の十時までには程遠いはずだ。
彼女も同じことを考えていたらしい。
ふ、と目を合わせて笑い合う。
「今日はお弁当を作ってきたの。……食べてくれる?」
「もちろん」
自然と指を絡めて、細い手を握った。手汗は平気だろうか、なんて。
――シュザベル・ウィンディガムは今、幸せを噛み締めている。