32 無名の本の話
ニコラリーとクロード。彼らはたまたま寂れた古本屋で出会い、いつの間にか一冊の本を取り合っていた。
それは確かに激しい取り合いなのだが、そこに怒号も怒りの剣幕もない。歪んだ笑顔と上っ面だけの優しい言葉しか飛び交っていないのにも関わらず、本筋はガチの取り合いをしているという、見た目と中身の圧倒的なミスマッチ感が不気味さを演出していた。
「別に買うわけじゃないのだろう……! ならばその手を放したまえ……っ!」
「なんっで……! やっぱ買うことにしたんだよ……!」
本棚に囲まれた狭い通路で、お互い器用に一冊の古びた本を取り合っていた。傍から見ればただの子供の喧嘩である。お互いはその渦中にいるので、客観的な二人の姿など全く気にしておらず、二十歳に近いのに子供のような争いをしているという、その悲しい事実に気づかない。
腕を引けば隣の本棚にぶつけそうになる。腕を引っ張られれば体のバランスを崩し、本棚に持たれかかりそうになった。
少し間違えれば、本棚を崩し大変なことになると分かっているはずなのに、どちらもその争いから手を引こうとしない。
理由は簡単だ。何となくムカつくから、という単純なものである。双方同じことを思っている。最初は単純にその本を買うのを目的に来たクロードも、ニコラリーと会ってからは『本を買うこと』よりも相手に嫌がらせをするという目的に、いつの間にかすり替わっていた。
ニコラリーに至っては、その本を買う気すらなかった。故に、本の取り合っている理由の十割がクロードに嫌がらせするためという、これではどちらが悪役か分からない。
ニコラリーはクロードが嫌いだし、クロードはニコラリーが嫌いだ。その二人が出会ってしまえば、このような不毛な争いが起こるのも残念ながら当然ともいえる。
「お前は魔術師でもなんでもねぇだろ……っ! 魔法の本より剣術指南の本を買えばいいさ……!」
「ふっ……! 君こそ、数十年魔術師をやってるくせして、こんな初級魔法の覚書を買うなんて……っ! まだ君は初級レベルなのかい……! 恥ずかしいねえ!」
「うるせっ……! 何事も基盤が大事なんだよ……! 基本固めしてこその熟練だ……! お前の場合は魔法なんて知っても役に立たねぇだろうが……!」
「見聞を広めることに、役に立たないも立つもないのだよ……! 広く知識を得る……っ! それが貴族として、騎士として、人間としての美しい在り方だ……! それが分からない君のようなでくの坊には、同情するよ……っ!」
最初は遠回しに交わされていた悪口が、段々と直接的なものに変わっていく。その変化が両者の余裕がなくなってきていることを表していた。
古本屋の店主は、何気にその二人のいざこざを遠巻きに見ていた。最初は見物する分には面白いと思って放置していたが、そろそろ手が出るような一触即発な状況になりそうであると感じていた。だから店主は重い腰を上げる。そして、店主はカウンターを力強く叩いた。二人は突然の大きな音にびっくりして、言い合いを一旦中断し、視線がそちらに向ける。
「売り物で遊ぶな」
真正面から正論を突き付けられて、ニコラリーとクラウスは黙るしかなかった。とりあえず、取り合いの中心にあったあの本は、クロードの手の中に握られている。
それを見た店主は、いい加減な声色で言った。
「今本を持ってる方が買えばいい。ほら、早く持ってくるんだよ赤髪」
クロードは自身の手に握られた本を見て、店主の方へ歩いていく。ニコラリーから離れる瞬間に、クロードはニコラリーを横目で見た。不完全燃焼といったように、クロードはまだ言い足りない様子であったが、ニコラリーもその点で言えば同様である。ニコラリーはクロードに睨み返した。
クロードが清算を行う後ろ姿を見ていると、ニコラリーはなんだかこの場所にいるのが嫌になってくる。特にめぼしい本もなかったので、そのまま帰ろうと出口へ体を向けると、クロードの相手をしている店主がニコラリーに声をかけた。
「そっちの黒髪、ちょっと来いや」
クロードが振り返り、ニコラリーを見る。店主とクロード、二つの視線に刺されて帰るにも帰れず、ニコラリーは渋々クロードのいる清算場所へ向かった。
「ほれ」
店主はカウンターの下から古びた本を取り出し、ニコラリーへ渡した。
「お前にはこれをやる。だからもう騒ぐなよ」
クロードから代金を受け取りながら、店主はニコラリーの方さえ向かずに言う。子供を宥めるかのような口調に、ニコラリーはさっきまでの自分たちがどれだけ幼稚だったかを理解し、軽く気分が沈んだ。
その本を受け取り、そのまま店を出るニコラリー。クロードもそれに続いた。そして店から出たところで、クロードはニコラリーに話しかける。
「なんの本だ、それ」
ニコラリーが振り返ると、クロードはとても怪訝そうな顔をしていた。ニコラリーは手に持った本の表紙を見てみる。
何も書かれていない、黒く古びた本だ。ページを適当にめくってみると、何やら物語が記されている。
ニコラリーはたいして読まず、そのままクロードへ本を投げた。彼はいきなり本を投げられたので、慌てた様子をしながらもそれを受け取る。そして、ページを軽くめくった。
今度はニコラリーが訝しげな顔をする番だった。ニコラリーはクロードに問う。
「なんだ? 欲しいのか?」
クロードは一度本を閉じると、黙って歩き出した。ニコラリーは一瞬あっけにとられたが、すぐに復帰して彼を追う。
「おい!」
「……すまないが、少し借りるぞ」
それだけを言い、ずんずん歩いていくクロードとそれについていくニコラリー。
二人が行き着いた先は、ちょっとした公園だった。クロードはその公園のベンチに座り、再び本を開く。ニコラリーも距離を開けて同じベンチに座った。
ニコラリーが隣に座ったところで、クロードは口を開く。
「君、この本に対して何か感じないか?」
「何かって? どういうことだよ」
何を言っているのか全く分からないニコラリーが、クロードの問いにさらに質問をかぶせた。クロードはニコラリーを見たあと、視線を本をページに戻す。
「この本の題名を、君は見たはずだろう」
「題名……? 何にも書いてなかったぞ」
ニコラリーの何ともない言葉に、クロードの瞳が大きく見開いた。それから唐突に本を横に置いて、右手でニコラリーの首元を掴んだ。
びっくりしてうろたえるニコラリー。クロードは真剣な瞳でそのままニコラリーを問いただした。
「何を言っている! 君はこの表紙の――」
左手で置いた本を持ち上げ、ニコラリーの前に差し出した。ニコラリーはその表紙も見るも、依然として何も書かれていない。
突然の意味不明なクロードの言動に、ニコラリーはついに手が出た。そのままクロードの腕を払い、彼の手から本を奪い取る。そして、その表紙をクロードの眼前に突き付けた。クロードの瞳が再び大きく見開かれる。
「何を言ってんのか言いたいのはこっちだ! 何も書いてねえだろうが!」
「――! ……待て、どういうことだ! 僕が見たときは……」
クロードの言葉が途切れた。ニコラリーが彼の口をふさいだわけではない。そして、ニコラリーも思わず閉口していた。
――周囲の雰囲気が、変わったのだ。
二人は思わずベンチから立ち上がり、辺りを見回した。
彼らがいた場所は、住宅に囲まれた小さな公園だったはず。しかし、二人が目にした光景は、実際のそれとは乖離していた。
――ニコラリーとクロードは、いつの間にか四方に立ちはだかる黒い壁に囲まれていたのだった。
「……そういえば」
場所はニコラリーとクロードが訪れた古本屋。
彼らが去ったあと、その古本屋の店主は首を傾げた。
「あの黒髪に渡した本だが……。あんな本、うちにあったか……?」
廃棄予定の本箱から適当に出して、ニコラリーに渡した本だったのだが、店主はその本について全く見覚えがなかった。一応処分する本はすべて目を通したつもりだったのだが。
彼は知らない。その本を巡り、ニコラリーとクロードの身に何かが迫っていることを。