22 伝説の話
ニコラリーは早朝に造ったポーションを持って、街に繰り出していた。曇り空の下、ニコラリーはトボトボ下を向いて歩いている。
『何故なら我は、勇者を捨て、勇者に捨てられた聖剣なのだから、な』
クラウスの震えた泣き声が、未だに脳裏に焼き付いていて離れない。勇者を捨てた? 勇者に捨てられた? 一体どういうことなのだろうか。あれからずっと考えていた。
あの後、ニコラリーとクラウスの間で会話がなされることはなかった。ニコラリーはその雰囲気が嫌で、逃げるように街へ繰り出したのだ。
勇者に捨てられた、というのはつまり、勇者に封印されたことを示しているのだろうか。
ニコラリーが聞いた話だと、3000年前勇者が次にくる『災厄』に備えて、それに対抗できるような次の勇者のために聖剣を封印し、遺したらしい。
細かいことは考えずに、まあその道理は通る。未来の子孫たちを守るために、自分の牙を残しておいたといったところか。ただそれを『捨てられた』と表現するにはどうもひっかかる。
そして、『勇者を捨てた』という言葉の意味は全く分からない。
クラウスがああやって喋ったり独りでに動けるようになったのは、ニコラリーが知能を与える薬を聖剣にかけたからだ。
故に3000年前の聖剣は、ただの剣だったはず。喋らず、ただ剣として振られるだけの存在だったはずだ。
その状態で持ち主である勇者を捨てるなんてこと、聖剣にできるはずがない。
――剣として、振られるだけ。
そういえば、ニコラリーは一度だけ聖剣『クラウス・ソラス』を振ったことがあった。結果はナニカに阻まれて、激痛により聖剣を手から落としてしまったが。
あの行為が聖剣の拒絶反応だとしたら、『勇者を捨てた』ということはつまり『勇者を拒絶した』ということではないのか。
確かに3000年前の聖剣に知能はなかった。だが、内在する膨大な魔力あったはずだ。ニコラリーが与えたのはあくまで『知能』。彼女の持っているおびただしい魔力は、3000年前の据え置きだろう。魔力があれば、拒絶することは容易いはずだ。
しかし、拒絶するには『意思』が必要だ。
膨大な魔力があれど、使うという『意思』がなければ魔力は使えない。再び議題が巻き戻るけれど、知能が与えられる前の聖剣にそんなことは可能だろうか。
分からない。何せ3000年も前の話だ。現代に至るまでの間に人類が築いた文明は、原因不明の天変地異により一度崩壊している。
それほどの悠久の時を経ても尚、継承された勇者と聖剣の伝説。そもそも現存している記録そのものに疑いの目を向けた方がいいのかもしれない。
「……おい、おい!」
薬屋の店主の声で意識が現実に帰還する。辺りを見ると、いつの間にか目的地である薬屋についていた。
その店主であるおやじが怪訝な目線でニコラリーを見つめている。
「どうしたんだニコ、意識ここにあらずって感じだったが」
「いや、なんでもない。これ、ポーション」
「ありがとよ。はい、お題」
ニコラリーは数本のポーション入り瓶が入った袋を渡し、対価に代金を受け取った。それらを手のひらに乗せたニコラリーは、そのお金をボケーっと見つめる。
「なあおやじ、勇者と聖剣の話って知ってるよな?」
「ああ、知ってるとも。子供の頃に聞かされたよ」
「どんな話だった?」
「どんなっつてもなあ」と顎の手にあて、子供時代を回想する店主を、ニコラリーは真剣な眼差しで見つめていた。
ニコラリーが店主に聞いた理由は、あの伝説が年代別に改変されていっているかを知るため。
店主は五十歳過ぎの、もそろそろ店主の引退が危ぶまれるおじさんであり、ニコラリーとは三十歳近く差がある。
3000年を前にしたらちっぽけな時間の差であるが、その三十年の間でさえも伝説が改変されて伝わっているのならば、3000年という月日の経過に伝説が変容していったのは間違いない。
頭の中で過去の検索が終わったのか、店主は口を開く。
「確か、勇者がいつしか蘇る悪魔に備えて、対抗策として聖剣を封印して残した……みたいな感じだった」
「蘇る悪魔、か」
今度はニコラリーが顎に手を当てる番だった。
災厄とは災難のこと。つまりその蘇る悪魔が三十年の時を経て災厄に置き換わった、といったところか。
だがこのレベルの差異ならば、改変とは呼べない気がする。悪魔が蘇ることは災難であるし、それを災厄と置き換えても伝説の本質は変わらない。一言一句完璧に伝承されるなどありえないのだから。
しかし、三十年で言葉が同じ意味の違う言葉に置き換えられていることは確かだ。
3000年の、文明の崩壊をまたいだ長い永い時間の流れに、伝説が思わず別物に変容したということもありえる話になってきた。
真剣に考えるニコラリーに、店主は笑って言った。
「まあ、そう深く考えることもねえだろ。ただの伝承だ」
「……そうだな。じゃ、俺、行くわ」
店主に軽くお礼を言って、ニコラリーは薬屋を後にした。ポケットに入れたポーションのお金が歩くたびにかしゃかしゃと音を立てる。
店主の言っていた通り、勇者と聖剣の伝説はただの伝承である。しかし、
ニコラリーは今にも雫が落ちてきそうな灰色の空を見上げて、ポツリを呟いた。
「聖剣は、勇者に捨てられたんだ」
彼女の口から話されるものは、伝承ではない。体験なのだ。勇者は存在していた。3000年前の、在りし日々に。
雨が降ってくる前に、ニコラリーは速足で自宅に帰った。