21 前任者の話
まだ鳥の鳴き声も聞こえない早朝。
ひんやりと足元を漂う冷気を感じながら、白銀の髪に青い瞳、スカート丈の短い改造巫女服を着たクラウスは、足音を忍んで地下室への階段を下りていた。
クラウスはゆっくりと、暗闇の中を進んでいく。
明かりがないので、普通の人なら足を踏み外してしまうそうな暗い階段も、持ち前の視力と勘で踏み外すことなく下り終えた。
目を細め、その先に広がる廊下を見る。扉は突き当りにひとつと、その途中の左の壁にひとつ。クラウスは耳を澄ませた。
物音がするのは、手前の扉の先からだ。
超人的というより、人が持つ能力とは次元の異なる性能の五感――今のところ本人は知らないが、無意識化で第六感に近しいものを使用したこともある――を持つ彼女にとって、壁越しの小さな音を感知するなど余裕だった。
忍び足で物音がした部屋の扉の前に立ち、ドアノブに手をかける。
そしてそのドアノブに、ゆっくりと魔力を注入していった。その魔力は、ドアノブから扉全体に広がり、それらを覆う膜として実体化していく。
これには、扉を開く際に発生する音を飛び込める役割をしてもらうつもりだ。扉を開けたことを彼にバレないようにするために。
扉とその周囲の壁に魔力膜を張り終えたことを感じ取ると、一旦息をついてドアノブを回し始める。音は出ない。だからバレるはずがない。
これで部屋の中にいる彼に気づかれることなく部屋の中へ入れる。ふへへ、と心の中で勝ち誇っていたが、その喜びは次の瞬間に霧と化して消えた。
――ドアノブが、勝手に回った。クラウスは、気づかれないようにゆっくりと回していたのに、急にぐいーんと、素早く回ったのだ。
そして扉は開かれる。クラウスの前には、ランプの明かりを持っていて、ちょっと長い後ろ髪をゴムで縛っている、彼がいた。
「おい」
突然の邂逅に驚いたのはクラウスだけではない。
部屋の中にいた彼――もとい、ニコラリーも目を丸くしていた。しかしその後、すぐにクラウスをじっと見つめる。
「覗くなって言ったよな? どうしてここにいるんだ?」
「……えーと」
ニコラリーに問いただされて、視線をあちこちに逸らしながら、クラウスは汗をかいていた。そして咄嗟に出た言い訳が、
「冒険してた」
早朝の地下室に、とある主の大きなため息がくぐもったのだった。
「そんなに見たいのか?」
天井に揺れるランプに、最近よく練習している発火魔法で明かりをつけて、ニコラリーとクラウスは向き合って座っていた。
彼らの間にあるテーブルの上には、ふたつの水の入ったコップが並んでいる。
ニコラリーの問いに、クラウスは素直にうなずいた。
「我は主殿の全てを知りたいのだ」
「全て、って言ってもなあ……。見られたくないものもあるんだよ」
真摯で染み切った青い瞳の視線を向けられて、何故か自分が責められているようなニコラリーは、弱弱しくそう告げる。
そもそもこれはどういう状況なのか。それは、ニコラリーの生活の根幹であるといっても過言ではない、ポーション作りに関してのいざこざだった。
ニコラリーは自分で作ったポーションを街で売り、そのお金で生活をしている。
故にポーションの作成に関しては、プロ意識をもって誠心誠意やっているし、不良品は市場には出回らせないという絶対的な覚悟を持って遂行しているつもりだ。ニコラリーにとって、ポーション造りとは戦いなのである。
つまり、ポーションを製造所である地下室とは、ニコラリーにとっての戦場であり、ニコラリー一人だけが存在を許される特別な場所でもあるのだ。
その神聖な場所への侵入を試みているのが、目の前に座る華奢な体つきの美少女――のかたちをしている、聖剣『クラウス・ソラス』だ。
「こればかりはやめて欲しいんだ。あそこは自分だけの空間なんだよ」
「うむむ……」
ニコラリーの本音の言葉を前に、クラウスは納得のできない顔をして、腕を組む。
ニコラリーと彼女が出会って、まだひと月も経っていない。しかし、そのひと月未満の時間の中で、二人の間には友情のようなものがすでにできあがっていた。
街で起きたいざこざを通して、二人は確協力をして同じ目的のために体を張り、見事後味の良い終わり方へ辿り着けたのだ。まあその後、その後味が少し悪くなるような出来事も起こってしまったが。
「それに今は割とピリピリしてるんだぜ? 一週間、ずっと修行してたしな。一週間、本業から離れてたわけだ」
「ふむ……。本業から離れなくてはならなくなったのは、我のせいであるしな……」
今度は納得いく顔でうなずくクラウス。ニコラリーはちょっと安心して息をついた。
そう、ちょっと前にとある事情で傭兵と決闘をすることになったのだ。それに勝つために、ニコラリーは聖剣であるクラウスに稽古をつけてもらい、稽古に明け暮れた一週間を経て、余裕の勝利をもぎ取った。
が、その代償は中々なものがつく。
一週間の間、ほとんどの時間を稽古に割いていたので、ろくにポーション製作をしていなかったのだ。故に収入もなく、貯蓄だけで一週間を過ごした。
だからというべきか、まだまだ余裕はあるものの、貯蓄量は減ってしまい、気が気でない。
しかも、今はニコラリー一人で生活しているわけではない。クラウスもいる。彼女にも不自由ない生活を送ってもらいたいので、単純に考えて生活費は2倍ほどになるだろう。
そして二人暮しなんて初めてなので、その具体的な費用は予想できてもいざというときのために、多めの貯蓄が欲しかった。
「そういわけで、少しの間、その問題には目をつぶっててほしい」
「そうしよう。すまなかったな」
ニコラリー、クラウスの双方が半ば満足するところに着地し、小さな問題は無事解決した。
ニコラリーはこの時、少し気が抜けていたのかもしれない。気が抜けると、普段は軽くない口も軽くなる。ニコラリーは口を開いた。
「お前がポーション作製中の俺を知らないように、俺も聖剣を扱ったというあの勇者の話とか、その時代のお前のことを知らねえしな」
「……」
ノリも良く笑うニコラリーに対し、彼女は重く昏い瞳をした。それを見たニコラリーはぴくりと体を震わせて、開いた口が途端に重くなって閉口する。
部屋のランプはついているのに暗いような雰囲気が二人を包み込んだ。沈黙が、痛い。
しばらく二人、下を向いたまま無為な時間を過ごした。耐えきれず、緊急の対処としてニコラリーが謝罪の言葉を述べようとしたその時、クラウスは口を開く。
「前に、言ったな。前任者の話は、主殿がそれに似合う男になっていくつれ、話してやると」
「……ああ」
顔を上げてクラウスを見つめているニコラリーとは異なり、彼女は下を向いたままぼそぼそと、震えた言葉を紡いだ。
「本当は、はぐらかし、隠し通すつもりだった。人間の寿命は精々百年。生涯付き合うとしても、その程度だと思ってな」
クラウスは続ける。
「しかし、なんでだろうな……。今の我にとって、その選択は苦痛なのだ。だからこの際、本心を主殿に伝えておこうと思う」
本心、その言葉を聞いてニコラリーは唾をのんだ。
それは聖剣『クラウス・ソラス』がかつて主であった勇者への、本音。
3000年前、聖剣を持ち魔界へ旅立っていた勇者の情報はごく僅かしか現存しておらず、その人物像は謎に包まれていた。
勇者は、子供の頃の誰しもの憧れ。しかし、今のクラウスを見るに、この『本心』とは、そういう印象とは逆のことなのだろう。
震えた体で、泣きそうな声で、クラウスは告げる。
「我に、前任者の話をする資格はないのだ。何故なら我は、勇者を捨て、勇者に捨てられた聖剣なのだから、な」