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山上の武者   UROSHITOK作品集 ( 嘘山行記より 2 ) 金城山・山上の武者 より

作者: UROSHITOK

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。--平家物語よりーー


<起一>

 2004年2月4日。

 静かな夜である。

 私は軽量テントの中で、快い眠りについていた。

 

 ここは兵庫県西脇市の金城山399.3mの頂き、南面の平地、分厚い枯葉上に発泡シートを敷く、それがベッドである。。寝袋の中は予想以上に快適であった。雑木に囲まれた、深い山の懐が、私を優しくつつんでくれていた。

 ときおり吹く穏やかな風が、まだ残っていた枯葉を落とす。

 空は満点の星月夜である。

 昔、この山頂にも、お寺があったらしい。そうだとすれば、幾人もの人たちが、この地で寝泊まりをしていたのであろう。

 風によって揺れる木の枝や、枯葉の音を聞きながら。

 時には、満天の星を眺めながら。


<起二>

 眠りが一段落を告げる。

 何かの気配にふと気づく。

 テントの外が妙に明るい。

 月明かりとは異なる。

 風の音は止まり、澄んだ音が流れている。

 笛の音らしい。

 テントの外へ出る。

 山頂、円形の平地、若武者が一人、武具を外し、赤松の倒木に腰を下ろしている。まだ童顔の残る美青年である。焚火を前に。

 彼は、横笛を吹いていた。

 月光が若者を照らし、白っぽい衣装が、周囲をさらに明るくする。

 若者からの笛の音が、光となって放散している。

 私が間近にいることにも気づかぬように、柔らかな調べが流れる。

 焚火の向こうの煙の陰に、もう一人の人物がいた。相対して、同様の倒木に腰かけている。錫杖を携え、墨染の衣をまとっている。中年の僧らしい。浅黒く張った頬、引き締まった口元を、髭が覆っている。

 閉じた目には涙さえも見られる。

 私は彼らから遊離しているが如くに、周辺を徘徊する。目出し帽を被った私は、闇の帽子を被ったペルセウスの様に、彼らには見えないらしい。


 僧の名は連生れいせい、源氏の武将・熊谷次郎直実の仏門に入った姿である。武蔵の国、熊谷の人である次郎直実は、はじめ平知盛に仕えたが、後に源頼朝に降り、やがて平家追討の搦手からめて源義経の軍勢に加わった。


<起三>

 京の都から西国街道を通り、平家主力が駐留する福原(現神戸市)に向かうのは、大手(正面)軍勢、大将は、源範頼である。一方、丹波路から、播磨に向かうのは、搦め手(裏面)軍勢、率いるのは、範頼の異母弟、源義経である。

 丹波と播磨の境、三草山423.9mには、平資盛たいらのすけもりを総大将とする平家の軍勢三千余騎が布陣していた。丹波路からの搦手を止め、山陽道に展開する平家軍主力の安泰を画する布陣であった。

 これに対して源義経率いる源氏軍は、一万余騎と平家物語に記されていた。一部には、一千余騎程度と推定する説もある。源平いずれの側も、騎となっている点も疑問のある数値である。

 兄頼朝の命を受けて、源氏の兄弟・範頼と義経二人の大将軍は、1184年(寿永3年)1月20日、宇治川の戦いにおいて、圧倒的に木曽義仲軍を破った。

 勢いに乗り、休養もそこそこに、平家軍に向かったのである。

 義経軍は京を立つこと1日にして、通常は2日の行程である小野原(篠山市今田町の地域)に到達した。平資盛が布陣しているところの三草山まで、およそ10kmの地点である。

 2月4日は清盛の命日であった

・・・治承5年2月4日(1881年3月20日)清盛没・・・

 京における源氏軍の打ち合わせでは、この日は攻撃を控えることになっていた。

 平資盛も、世間通例上、そのように思っていた。義経軍は、かなりの疲労のはずである。しかし、義経たちは、その日の夜に攻め込んだ。土肥実平・畠山重忠・熊谷直実・伊勢義盛・武蔵坊弁慶ら、実践・連戦の武者を伴って。

 民家にも火を放ち、山を焼き、闇夜を赤々と焦がし照らして、道を開きつつ攻め入った。このとき、小野原には、一軒の家屋も残らなかったという。行程に存在する民家や草木も焼いて。冬枯れの草木は、谷合を吹く、風に煽られて燃え上がり、三草山麓に主力の陣を構えた平家軍を、恐怖と混乱に落とし入れた。

 その日、資盛は祖父清盛の法要を、三草山東南に連なる権現山360m尾根上に当時建立されていた朝光寺で行っていた。平家側の大多数の兵は、明日と想定した戦いのために休眠していた。


<起四>

 資盛は、公家の生活に染まった、いわゆる文化人に近い武将であったと想われる。琵琶の名手であったとも言われていた。戦いの世界に生きてきた義経とはおおいに異なっていた。

 京から、たった一日で小野原に着き、勝利するためとは言いながら、休息もそこそこに、民家にさえ火を放って、深夜に攻め入る人間義経の敵では無かった。

 資盛は混乱の中で逃げた。恥も有ってか、福原には向かわなかった。加古川沿いに、高砂の浦まで下った。さらに海を渡り、屋島まで逃れた。

 

 熊谷直実は治承4年(1180年)、石橋山の戦い(源頼朝が挙兵し敗れた戦い・現小田原市)では平家方に組していた。

 源平合戦は、この年からスタートしたと言ってもいい。5月の三井寺・宇治川の戦い、源三位頼政の死。つづく8月、頼朝による、石橋山の戦い。まさに源平合戦の始まりであった。

 この時、わずか300騎で挙兵した頼朝は大敗した。平家方の武者・梶原景時の温情でからくも逃れた。まさに九死に一生であった。

 しかし、安房へ逃れた頼朝は、北条氏をはじめ平家への反感を持つ、多くの東国武士を支えに、勢力を整えていった。

 安房、上総、下総、武蔵、相模と進むにつれて、勢力は増していった。逆にこれらの地域での平家の勢力は減っていった。

 これが源頼朝の覇権の道となっていったのである。同年10月6日、彼はかねてから予定していた鎌倉に入った。

 頼朝の挙兵が、清盛の耳に入ったのは、同年9月1日であった。

 かって、清盛の義母である、池の禅尼の嘆願により、頼朝の命を取らず、伊豆へ配流した、優しさをも持っていた清盛は、ここで烈火のごとく怒った。そして、頼朝の討伐を下した。

 しかしながら、この討伐軍の編成はまとまりが悪かった。

 両軍が合いまみえたのは、同年10月3日、富士川の合戦である。

 まとまりが悪いがゆえに、士気の乏しい平家軍は、源氏軍の動きによって飛び発った水鳥の羽音にさえも驚き、狼狽え、一戦の交わりもなく敗走したのだった。

 勇猛な東国武士と平安貴族の文化に慣れた平家武士、の出会いであった。

 もはや、ほとんどの東国武士は平家を見捨てた。平家衰退は、音を立てて始まっていた。


<起五>

 熊谷直実も同様であった。彼は源氏の武将となった。

 直実は武者として勝れていた。頼朝からは、日本一の剛の者と言われた程であった。野心は人並み以上に持っていたが、剛毅な性格で、策や弁活には疎いほうであった。したがって、策を練る場では控え目であった。

 彼が名声を得る場は戦場であった。

 三草山の戦いにおいても、義経に呼応し、炎の中を先頭に立って、小野原から現在の市原や鴨川を駆け抜け、慌てふためく平家軍を蹴散らして、一挙に、三草山の西のすそ野に位置する、山口まで達した。

 火を避けて、湿地帯に陣を構えた。

 (注:西脇市高松山長明寺の寺記によれば、「三草合戦において”熊谷直実を旗頭とする源氏の一隊が金城山に陣した”とあるが、時間的な経移を考慮すれば、現在ある金城山399,4mまでは距離がありすぎる。廻り谷あるいは数僧寺谷付近が陣を構えるには妥当か)

 背後の北方には、平家討伐の、最初の狼煙を上げた、源三位頼政の所領、高松がある。

 この戦は、先人をきった熊谷直実にとって、手応えの少ない、拍子抜けのごとき戦いであった。戦功を語るには物足りない。平家軍の敗走は速かった。

 搦め手の総大将、源義経(25歳)は追撃した。しかしながら、加古川沿いに逃げ下った平資盛(23歳)を深追いすることは避けた。搦め手の目的は、福原にあったからである。

 義経は搦め手の総大将であったが、その戦略は、機敏であったが、大軍をコントロールし得るタイプでもなかった。傘下の多くの武将は、その戦略につけなかった。少ない人数のみが従った。奇襲向きの態勢であった。

 ついてゆけなっかた武将達の中には、義経らの行動をスタンドプレイだと広言する者もいた。

 一の谷での戦い、ひよどり越えで軍を二分した義経は、主力をより福原に近い夢野口に向かわせる一方、自らは、僅か70騎の精鋭を引き連れて難路を通過し、一の谷の背後の絶壁へ出た。25歳の義経は、体力・気力・知力、共に充実していた。従う70騎も、彼を良く支えたのだ。

 奇襲であった。思わぬ攻撃に、平家軍は驚いた。又もや逃げた。


<起六> 

 熊谷直実は、その奇襲攻撃の最先陣をきった。

 海岸、水ぎわで、舟に向かおうとする、立派な身なりの、鎧の騎馬武者がいた。若い武者であった。直実は、彼を呼び止めた。この件は、あまりにも有名である。

 直実は、この時初めて、殺害しようとする相手と心が通ったのである。

 相手が若く、美しく気品があったからである。若武者は平敦盛であった。殺害した後、若武者が身につけていた笛にも心をとられた。

 この件は、直実の脳裡に深く刻まれた。

 

 金城山山頂

 いつしか、敦盛の笛の音は途絶え、焚火の音がはじける。

 二人は目も合わさなければ、話もしない。

 晴天の星空の下、山頂に、うすく煙が上る。風もない。

 長い沈黙に私が焦れる。

 目出し帽を脱ぎ、話しかけたくなる。”何故、ここに居るのですか”と。


<承一> 

 風もないのに炎がゆらぎ、すっと消えた。闇が山上を閉ざし、その中を影が動く。

 再び炎が燃え上がり、周囲を明るく照らす。

 もう一人の人物が現れていた。

 白っぽい着流しに。赤い羽織をまとい、大小の剣を腰に携えて立っていた。秀でた額。大ざっぱに刈った頭髪と髭、眼には言いようのない深みがある。

 鍛え抜かれた体躯と、隙のない口元と眼差しを持ち、年の頃は五十歳ぐらいである。薄い無精髭の顔をおだやかさがおおっている。

 私は彼を、宮本武蔵である、と直感した。かって見たことのある”二天一流”宮本武蔵の画像に似ていたからである。

 「資盛殿」 

 「資盛殿か?」

 二人は、ほぼ同時に声をかけた。

 彼はうなづいた。

 武蔵と直感した人物が、平資盛だとは。私には信じられない。二人は、あまりに違いすぎる。

 

<承二>

 ここで平資盛の人物像を紹介しましょう。

 1158年(保元3年)もしくは1161年(応保元年)生まれ。清盛の嫡子である重盛の二男。清盛直系の孫にあたる。

 治承3年(1179年)、清盛の信頼が厚かった父・重盛の病死、次いで腹違いの兄・維盛これもりは出家、叔父の宗盛が実権を握る。

 治承4年(1180年)、源頼政の反乱においては、維盛と共に大将軍を務め、これを鎮圧する。以後も、反平家勢力の追討に活躍する。清盛の娘・健礼門院・徳子(資盛の叔母)宅に出入りし、女房(女官の部屋)の右京太夫と恋仲になる。しかし、木曽義仲の京都入りで西へ逃れ、福原に本拠を置いた宗盛に合流し、三草山の総大将に命じられる。 

 寿永3年(1884年)2月、三草山の戦いに敗れ、屋島に逃れる。翌、文治元年3月、壇ノ浦の戦いでも敗れる。弟の有盛、いとこの行盛と共に、鎧に碇をつけて入水した、と言われている。

 彼は青年期をむかえてから、はげしい苦難に揉まれる。恋したがために、維盛のように出家することも出来なかった。直系の家柄の頭領として、戦闘派の実権者宗盛に合わせざるを得なかった。

 他方、琵琶の名手とも言われている。

 俊成、定家などの歌人とも親交のある文化人であった。


<承三> 

 「資盛殿、少しばかり年を召され過ぎではないか」

 「義経殿はもっと若かろうに」

 武蔵姿の資盛は笑っている。飽くまで穏やかである。

 

 資盛と武蔵の接点があるとすれば、高砂の浦である。

 近年の研究調査によれば、宮本武蔵生誕の地は、現在の兵庫県高砂市説が有力である。

 本書の作者の私としては、平資盛が源義経から、辛くも必死の思いで逃れて着いた高砂の浦や、恨みを吞んで入水した壇ノ浦が、武蔵生誕の地や決闘の島である巌流島に合致することに注目すると共に、義経と武蔵に共通する、奇襲戦法・知力・体力をこの物語の題材として考えてみたのである。

また、資盛の強い思いが”義経に勝てる可能性がある人物として、武蔵に生まれ変わった”と想定した。


<承四>

 高砂の浦で、松の幹に顔を伏せて、義経への反撃を誓った。自分の甘さを呪った。

 屋島の合戦での敗因も、その根底にあったものは、山側からの奇襲であった。義経はこの戦いでも、一の谷の戦いに酷似した戦法を展開した。

 当時、水軍を持たない源氏軍であった。義経は決死の覚悟で逆櫓を取り付けずに、摂津渡辺津から、嵐の中、5艘の舟に150騎を乗せて、安房勝浦に着く。火を放ち、民家を焼き、素早くせまった。海上からの攻撃を想定していた平家軍に対して、陸路屋島に到達し、平家軍の背後から激しく攻めた。これは三草山攻めと同様の戦法であった。

 激しい戦いがあった。平家軍はしだいに屋島から離れ、まず志度湾へと逃れていった。熊野水軍等の源氏軍側への参戦により、源氏側の水軍の力も平家軍側よりも強力になっていた。

 時の流れは、平家を見放していった。志度湾の戦いの後、平家一族郎党は、四国を離れ、西海へと逃れた。けれども、平家軍総勢五百艘は、長門壇ノ浦で、伊予水軍や摂津の渡辺水軍なども味方につけた義経軍総勢八百余艘の前に、敗北消滅したのであった。

まさに、清盛の蒔いた平家の種は、雑草として刈り取られた”源義朝のこぼれ種”によって駆逐されたのであった。

 当時、日本の有史上の最大のドキュメントは終わりを告げた。1185年(寿永4年)3月24日のことである。

 平家の怨霊は瀬戸内をさまよい、多くの伝説が拡がり、各地に残っていった。


<承五>

 義経は平家討伐の最大の功労者である。しかしながら、頼朝は、その功に報いたとは言えない。色々な”しがらみ”が、その様に為したと、解釈されている。

 余りにも多く痛ましい平家人の最後に、その一つの因があるのではないか。

 また、当時における義経の評判は、近代のいわゆる”判官びいき”とは程遠く、戦場に位置した民からも強く恨まれていたのであった。民一般は平家を、取り分けて疎んじていたとも思えない。

 義経、彼も生存時には、恵まれない人間であった。

 いつの時代も、対話の途絶えた世界は痛ましい。

 彼は反抗し、追われ、奥州で死ぬ。

 世間に広く、義経の人気が出たのは、彼が死して後のことである。


<承六>

 「義経殿は強いお方だ」と蓮生坊は言う。

 「私は鎌倉にあって、頼朝どのより”日本一の豪の者”と称せられた。しかし、義経殿が参戦された後、この称は返上せねば、と思った。義経殿の傘下には、武蔵坊弁慶殿がおられたからである。彼は、私にとっても、十分に、一目措かざる存在であった」

 続けて言う。「弁慶殿は、鬼神の如き強さを持っていた。しかし、小柄な義経殿には従順そのものであった。聞くところに因れば、彼が戦い敗れた唯一の人物こそ、まだ少年期の義経殿であったと言う」「義経殿は数々の戦功をあげた。その何れもが、機敏なる行動と、すぐれた体力、体術によるものだ」「つまり、彼こそが日本一の強者であった」と、連生坊は言い切った。

 次いで「彼は幼少にして父母と別れた。鞍馬山僧正ケ谷の大天狗により、武術を教えられ、次いで、陰陽師の、鬼一法眼おにいちほうげんより、兵法の奥義を得た。法眼の出身地は伊予の吉岡である。

この鬼一法眼こそ、染色者であり、剣術家の吉岡憲法の先祖にあたる。資盛殿から生まれ変わった、宮本武蔵が打ち破った、京都の吉岡一族の先祖は、義経殿の教師であった。ご存じですか」と。

 武蔵と義経の接点はすでに有ったのである。

 資盛(武蔵)は、義経に兵法を伝授した鬼一法眼の末裔を完膚なきまでに叩き潰した。たった一人で、平家一族の恨みを込めて。


<承七>

 ついで武蔵は語り出す。

 「今にして思えば、私は義経殿を打ち負かすための人生を送ったのかも知れぬ。私の少年期は義経殿に似ている」と語り続ける。

 「私も幼少から父母と離れた。播州高砂から、作州美作へ養子に出された。そうして、養父の無二斉によって、厳しく鍛えられた」

 「少年期、13歳で旅の武芸者有馬喜兵衛を打ち破り、殺害した。・・・、弁慶殿をほんろうした牛若丸にも似ていて、更に荒い」

 「青年期、徳川対豊臣の合戦に参加した。しかし義経殿とは異なり、将としての経験はない」

 「関ヶ原、大阪夏の陣、大阪冬の陣に参戦した。その間に吉岡一門、宝蔵院の槍、宍戸梅軒の鎖鎌、柳生新陰流の大瀬戸隼人や辻風典馬、中条流の佐々木小次郎などに勝ってきた」

 

吉岡一門との戦いは、武蔵を大きく変えた。真剣勝負への自信を植えつけた。

 ”たった一人で勝つ”人に頼らぬ、これが資盛武蔵の信念である。

 義経と戦うには、修羅場をくぐり抜けて勝ち続けてゆく、経験を伴った自信が必要であった。また、奇襲戦法も必要であった。彼はそれを使った。

 来たるべき、時空を超えた、義経との戦いのために、彼は修業を続けた。

 兵法の他にも学問や芸術も忘れなかった。心の修業であった。


<承八>

 一方において、義経の思いは別である。

 彼は、父の無念をはらし、兄の頼朝を支えるために、全力を尽くした。

 平家、清盛の一族は、父を殺し、母の常盤御前を自分達3兄弟(今若・乙若・牛若)から引き離した不倶戴天の敵であった。

もの心ついた頃から、平家への仇を考え、鍛錬する運命と環境に置かれていた。平家を討伐し、異母兄の頼朝の喜ぶ顔が見たかった。兄弟で忌憚なく酌み交わしたかった。しかしながら討伐後に彼を待っていたのは、予期せぬ運命であった。

 義経は頼朝への疑問に苛まされた。それは一国を統治しょうとするものへの疑問でもあった。

 彼は、この答えを見出せぬままに死んでいった。1189年4月30日、妻子を道連れての自害、30歳であった。


<転一>

 いつの間にか星空は消え、焚火の周囲を、濃い闇が包んでいた。

 武蔵が、すっと姿勢を正した。

 遠く、地鳴りの音がする。

 しだいに近づいてくる。

 音は、やがて響となって、周囲を圧倒してきた。

 平原を駆ける馬の蹄の音である。

 何百、何千、何万という数の馬が疾走している響であった。雄叫びが交じり、武具の鳴る音もざわめきの内に聞こえてきた。

 焚火に近く、暗闇を圧倒して、地響きが鳴り続ける。金城山、山頂の闇、三人は傾注する。


 焚火の炎が小さくなり、気配に武蔵が向く。

 暗くなった炎の向こうに、人影が浮かんでいた。

 闇に背を向ける武蔵。

 暗闇と地響きの間から、突如として、白い閃光が、背後から武蔵を襲った。

 間一髪で、左に避けた武蔵。

 抜き放った右剣が、青い光となって、それを払う。

 ポトリ、落ちた物は、旗槍の穂先であった。


<転二> 

 「お見事!」前方の人影から、声が出た。

 「旗槍で無ければ傷ついていた」武蔵が応じた。

 敵を、前方へと注意を逸らし、背後から襲撃する。これは義経の用いた、奇襲戦法である。

 いち早く気配を察知し、間一髪の見切りを可能にする。武蔵剣術の極意でもある。

 

 前方、人影は語る。

 「私はチンギスハーンである。テムジンと義経、二人が結びついている」

 「1189年、テムジンは周辺21族の長として即位した。同年4月、テムジンに義経が入魂した。そしてチンギスハーンとなった。チンギスハーンは二人が合体した者である」

 「先ほど、あなたを攻撃した者は義経である。あなたの前に現れていた影はテムジンである」

 しばし間をおいて影は言う。

 「義経として語りたい」と。

 「覇者となった兄、頼朝への疑問を抱いて死んだ私の魂は、丁度その時、モンゴルで覇権を握らんとしていたテムジンに遭遇した。テムジンは、私と酷似していた。体格も体質も、そして性格も。死にきれずして死した私が宿るには、まさにぴったり合っていた。当時、民族間の統一を進めていた彼は、私の魂を、快く受け入れてくれた。二人の魂は、こうして融合した」

 

 「それから38年の間、チンギスハーンは戦いつづけた。覇権領域は拡大をつづけた。東は朝鮮半島に、西は黒海沿岸にと。尚も止まることを知らず、蒙古帝国は侵略をつづける。その結果、私の心は疲れた。覇者の非情を理解するに十分な期間であった」

 「私の、覇者に対する疑問は解消したのである。兄の頼朝を理解し得たのである」

 「もはや、戦いの人生は好まない。牛若丸以後の人生は、やり直したい思いである」

 焚火の煙の向こうで、人影はゆらぐ。


<転三>

 沈黙のなかで、敦盛が立ち上がった。青葉の笛(小枝の笛)を手にして。

 敦盛の笛の音が流れる。

 いつしか、駆け抜ける騎馬群の音も消えている。

 澄んだ笛の音が、闇をとかし、満天の星空が開けた。

 

 両手で笛を掴んだまま、敦盛が口を開いた。

 「私も語りたい」と。

 連生坊、熊谷直実の、錫杖を握る手に力が入る。

 「私の父、平経盛は清盛殿の異母弟です。父は文武両道にすぐれた人だった。私は父を尊敬し、父のような人間になりたいと思っていた。私が笛を吹くのも、父からの伝授です。今持っているこの笛も父から借りたものです。

 長兄の経正つねまさは一門中でも俊才として知られ、歌人であり、琵琶の名手であった。もう一人の兄経俊つねとしと共に、一の谷の戦い討ち死にした。

 経俊は従兄弟である清房、清貞二人と共に、たった三人で、敵陣に突入し、散々奮戦の末戦死した。

 二人とも良き兄弟だった。勇気ある兄達でした」

 「私は兄達の戦いを、知っていました。屋島へ逃れることも辛かった。そんな混乱の気持ちで、源氏に対する憎みは頂点に達していました」若い敦盛が、噛みしめるが如く、語る。

 

 「その時は、相手方の名も知らなかったが、熊谷直実殿が放った”逃げるとは卑怯なり”の声は、耐え難い強さで胸に響いた。彼の猛者ぶりなど問題ではなくなっていた」「そして、ご存じのとうりになったのです」


<転四>

 「もう一つ言いたい。私の父や兄弟を含めて、すべての平家人が、ほぼ同様の運命に会いまみえたと言うことを」

 「私は、歴史上で、永く生き残った。今にして思えば、平家人の中では、幸いな人間であったと言える」

 「直実殿への恨みはない。まったくない」

 「恨みがあるとすれば、対話の乏しい時代に生まれたことです」

 敦盛は語り終わり、松の倒木に腰をおろした。


<結一> 

連生坊熊谷直実の顔に、微かな和らぎの、微笑みが浮かんだ。その瞬間、武蔵の剣が閃いた。

 僧は錫杖を上げかけて、止めた。

 連生坊の首は、その表情のままで、切り離された。

 もう一刀は、影姿のチンギスハーンを切った。から竹割に切り下げた。

 人影は二つに分かれ、天空へと消えた。連生坊も消えている。

 資盛武蔵が言った。「平家が滅んで、既に820余年、もう恨みは消えた。みんな成仏しよう」

 敦盛が応えた。「私も、生まれ変わりましょう。音楽家にでも」

 二人は笑ったようだった。


<結二> 

私も何かを言いたくなって、目出し帽を脱いだ。

 金城山の山頂、満月が、狭い空き地の落ち葉を照らし、私の淡い影を映す。

 何事も無かった如く、自然な山頂の姿を。

 空き地の西方の外れに、白く浮かぶものがある。

 梵字を刻んだ、石碑である。

 焚火も、彼らも、もはや他の痕跡は、すべて消え去った。

 漠然とたたずむ私に、頭部から寒さが入ってきた。

 もう一度目出し帽を被り、ゆっくりとテントの方向へ戻り始める。

 この夜、山上の星空は、私に、不思議なものを見せた。


            ( 2017.09.11 改訂版 完)

        


 

 


 

 

 

 


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