怨霊
申し訳ありません。投稿遅くなりました。
それぞれがその存在に怯え、動きが止まる。
彼女は確かに、何か得体の知れない感情に支配されていた。
ひび割れた空を背に立つその姿は、まさに龍人と呼べるものだった。
黒に近い深緑の鱗はまるで甲冑のように身体中を覆い、人間のような頭部には似合わない獰猛な牙。そして何より、不気味にゆらゆらと光を帯びた瞳が彼らを見下ろしている。
そこに込められた感情は、殺意や敵意などという生易しいものではない。
怨念。まるで悪霊が取り憑いたかのような、底知れない闇だった。もしかすると、先ほどまで戦っていた龍の魂が宿っているのかも知れない。
怨嗟の炎を揺らしながら、龍人は右手を伸ばす。一番近くにいた女性に、さし伸べるように。
「────」
近づいてくる。どんな凶器にも勝る爪が、彼女を握り締めようとしている。その四肢を砕き、内蔵を潰し、生命を終わらせようとしている。
ドクン、ドクンと、一定のリズムで音が鳴っていた。彼女には、それが何なのか分からなかった。その巨大な腕が、彼女の身体を影で覆い尽くすそうとした時、ようやく分かったのだ。
それが、自分の心臓の鼓動だと。
「────ぁっ!」
動かなかった体を無理矢理に動かして、その鈍い攻撃を躱す。
か細い悲鳴のような叫びは、爆発に近い足音に掻き消された。けれど、自分がそんな声を発していたことに、彼女は気づいていない。ただ、逃げなければと。それだけが、彼女の頭にあった。
その跳躍は、戦闘時の速度に引けを取らない。
だが、それでも。
「────」
龍の瞳は、精細に、彼女の姿を追っていた。
(──見えてる)
彼女達が相手をしていた龍には、影を捉えるのが精々だったはずだ。
たかが姿が変わっただけで、見えるというのか。そんな疑問が脳を埋め尽くす。
そして、その隙を突かれた。
「っぁ!」
何をされたのか理解出来なかったが、直前に見えていたのは、龍の鱗だった。自分が居た方向からの一撃。おそらく、龍が腕で薙ぎ払ったのだろう。
目が覚めたばかりで鈍かったが、今はもう彼女の動きを上回っているのかもしれなかった。
強い衝撃が彼女を襲う。
地面を転がりながら、彼女はまた視界の端にその姿を捉えていた。
若い騎士二人が、一歩踏み出している。弓を射るでもなく、武器を構えるでもなく、ただ、ようやく一歩動いたかのように。
彼らの心にあるのは、やはり恐怖だ。しかし、では自分の心にあるのは何だろう。恐怖か、嫌悪か、そんな負の感情なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、彼女の体は動きを止める。
(あれ)
どこも、折れていない。
確かに傷は負っているが、それは瓦礫の破片などで軽くできた切り傷だ。薙ぎ払われたはずの自分が、どうして無事なのか。
そんな疑問は、次の一言で消える。
「落ち着け」
声のした方を見れば、そこには騎士が立っていた。大きな盾を地に突き立てて、彼女に背を向けている。
「クレイド?」
「いつまでそんな顔をしている気だ」
そっとこちらを振り向く騎士は、彼女の姿をしっかりと捉えていたらしい。
その瞳には、彼女自身がいた。
ピンクの長髪は後ろで束ねられていて、その口元は──どう見ても笑っていた。
(あ、そうか)
なにかに気付きながら、立ち上がる。
(私──笑ってるんだ)
何故かは分からない。
ただ、それだけ理解して、彼女はまだ握り締めたままだった槍を構えて走り出した。
❄︎
「ヤヨイ?」
今にも崩れ落ちていきそうな空を見て、シグレは呟く。
それは正確には、空が割れている訳では無い。
空に浮かん出いた魔法陣が、少しずつその機能を失っているのだ。
「あいつがやったのか?」
「多分、というか、こんなことが出来るのは彼くらいしかいない」
路地裏を走る二人は、警戒を解かないまま話していた。
「だが、魔力が足りなかったはずだろう」
「うん、でも、もしかしたらさっきの雷は、凄く膨大な量の魔力を使ったのかもしれない」
「するとどうなる?」
「一時的に魔方陣に込められた魔力が減るから、支配魔法に必要な魔力も少なくなる。その瞬間を狙ったんだと思う」
そう言った彼女は、なぜか胸の辺りを抑えて首をかしげた。
その表情がどこか苦しげで、ゼノは尋ねる。
「どうした?」
「ううん、何か、変な感じがして」
だが、気にしてもいられない。
すぐに大丈夫だとゼノに伝えると、彼女達は大通りに出た。ここからはこの通りを進まなければ城へ向かうのは難しかった。
道がなかったわけではないが、もはやその道は使い物にならないのだ。
少し前から何度も繰り返される地響きは、おそらく騎士達の戦闘によるものなのだろう。そして、魔物によるものなのか知らないが、空から降ってきた瓦礫が道を塞いでいたのだ。
「首飾りにこの格好なら、そう簡単にはバレないはずだ」
通りかかった服屋から拝借したケープで、顔も体も隠している。それに加えて認識阻害の魔道具も装備しているので、例え知り合いでも人目では分からないだろう。
「それじゃあ、早くヤヨイの所に──」
城へ足を向けたシグレの声は、何かが崩れる音に遮られる。
地響きと共に、戦闘による衝撃がこちらまで届いてきたのだ。地面に敷かれていた煉瓦は空高く飛んで、その延長線上にあった建物が──彼らがいた大通りが次々とその面影を失くしていく。
ゼノは許可なくシグレを抱き上げて、路地裏へと自分の身ごと投げ込むように跳んだ。
衝撃はじきに止む。
起き上がって隣を見れば、庇ったシグレは無事だった。しかし、ここも危ない。
なぜなら、彼らが逃げ込んだ場所には、彼らの姿を隠す瓦礫以外何もなくて、そしてその瓦礫隙間には、巨大な魔物の姿があるからだ。
(こっちを見ている)
やるしかないのか。今、この状況で。
武器もない。この体も、いつまで戦いに耐えられるかわからない。
しかし、逃げ場はどこにもない。そんな焦りが、さらに彼の心を惑わせる。
ゆっくりと起き上がった主人を、どうやって守り抜くか。どうしたら、守り切れるか。
考えても、考えても、何も浮かばない。
そして。
「大丈夫」
行って、と。そう小声で告げてくる彼女は、強い意志を瞳に宿して、魔法を発動していた。
その言葉で、ゼノの心は少しだけ静まる。
「援護するから」
「……頼んだ」
姿を隠したままのシグレを背に、ゼノは駆け出した。
向かうのは、彼らの目の前まで移動してきた異形の所だ。
(あれは、この前の)
見覚えのあるその姿は、つい先日相手にした魔物に似ている。しかし、その動きはそれよりもはるかに機敏だ。近づいてくるゼノに、巨大に似合わない速さで殴りかかってきた。
「くっ!」
渾身の裏拳をその拳にぶつければ、ゼノの体は僅かに浮き上がる。
(重いな。だが)
同時に、龍人の拳もまた、反対方向に打ち返されていた。
地面に突き刺さった拳はすぐに引き抜かれるだろうが、そんな数瞬でも十分だ。ゼノは崩壊しかけた壁を目掛けて走り、そのまま勢いを殺さずに駆け上がる。屋根を足場にさらに跳ぶと、魔力強化による脚力は彼の体を敵の懐まで容易に運んだ。
「はっ!」
ギリギリ体がもつレベルで魔力を込めて、反対の拳を突き出す。
その衝撃は龍人の体を──揺らすことはなく、そのまま彼に返ってきた。
「かはっ」
不様にも跳ね返されたゼノは石畳の地面に背を打ち付ける。彼の一撃は、敵にダメージを与えるどころか、ただの捨て身でしか無かったのだ。
それでもすぐに起き上がる。咳き込みながらなんとか距離を取ろうとしたが、体にまだ力が入らない。シグレが施してくれた治癒強化でも、彼の体を瞬時に治すには至っていなかった。
(あいつは)
敵の姿をもう一度まじまじと見れば、なぜかその顔は別の何かを見ていた。
何者かの影が写る。
大槍を振り回す何者かは、何度も何度も斬撃を見舞っていた。けれど龍の鱗は、ましてやこの異形のそれは、そんな攻撃などいとも容易く防いでしまう。
それを鬱陶しく思ったのか分からないが、龍人はその動きを止めて、すっと腕を翳す。
すると、何も無い空間から、無骨な武器を取り出した。骨をそのまま研いだような、そしてその鋭さがひと目でわかる程の切っ先をもつ剣を。
(魔法も使うのか)
どうやら左腕も同じようにしていたらしい。
右手に剣を、左手に盾を。
人のように武器を手にした怪物は、その凶器を振り上げた。
今にも振り下ろされる剣にも無謀に突進していく、どうにか女性だと分かる騎士は、やはり冷静ではないらしい。
しかし、まだ体はようやく動く程度だ。
何かないか。辺りを見回して、そして気がつく。目の前には、つい先日彼が見た売り物が転がっているではないか。
転がるようにその得物に手を伸ばして、掴み取り、そして一歩踏み出した。
(──すまない)
安物の剣は、突き立てた途端砕け散った。
まだ使われてもいないだろう剣が、たった一振りでその生を終える。それが申し訳なくて、ゼノは心の中でただ一言、そう呟いたのだ。
そして、他でもないその斬撃が、龍人の鎧にヒビを入れる。蹌踉めいた刃が騎士に届くはずもなく、空を切る。
「「────」」
目の前を通り過ぎていく騎士は、彼の姿を視認しているのかいないのか、何も言わないまま龍人の首を目指す。
弧を描くように振り回された槍の切っ先が、また龍人を襲った。
上位騎士や宮廷魔導師は基本的に認識阻害のペンダントを付けています。
数年ぶりに顔を合わせた師匠と弟子は、果たして気づいたのでしょうか。
魔法陣についての説明は次回を予定しています。




