怪物
「……よし」
長い時間をかけ、ヤヨイは魔法の発動をやめた。
何者をも阻む結界は、もうその機能を発揮していない。人間を対象外として書き換えたことで、もはやこの障壁は、ただの色鮮やかなガラス細工と成り果てたのだ。
これで、中に閉じ込められた住民も、避難することが出来るだろう。
魔物がいる以上、中の方がまだ安全な可能性もある、が。
「この結界、やっぱりこの国のものじゃないな」
魔法陣は、細かい指定をする毎に記号が変わるものだ。しかし、それだけでなく、術者によって使用する記号が違うものとなる場合がある。
つまり、ヤヨイはこの魔法が、この国の結界の術者とは別の誰かのものだと気づいたのだ。
だが、進むことに変わりはない。
「行くぞ」
「……うん」
極力気配を消しながら、結界をすり抜けて街へと向かう。
その入口に入るまで、二人は何一つ言葉を交わさなかった。
先ほどシグレが告白した話。それが、少なからず二人の雰囲気を悪くしていた。
このまま敵に遭遇するまで、何も話さないように思えたが、
「なあ」
突然、ヤヨイが語りかける。
「それでもあいつは、お前のために戦ってるぞ」
「何で、そう思うの?」
純粋な疑問だ。
そのはずなのに、ヤヨイにはそれに非難の色が感じられた気がした。
そんなはずはない。彼女はどこかで、それを願っているのだから。
そう信じて、言葉を返す。
「特に、根拠はないんだが」
何の証拠もない。確証もない。
ただ、今まで関わって、話して、共闘して、分かったことはある。
「直感だ。あいつにとってお前は、感情も含めて、一番大切な存在だと思う」
彼がシグレを守ることに、どんな理由があるのかは、分からない。確かに彼女のためではないのかもしれない。彼自身、それに気づいていないのかもしれない。
だが、何となく漠然と、ヤヨイには分かった気がした。
守る理由ではなく、そばに居る理由が。
「そう」
どこか冷たく、けれどその端が少しばかり上擦った返事をして、シグレはやはりそっぽを向いた。
素直じゃないなと、何故か微笑ましく思った。だが、そんな時間はもう終わりだ。ヤヨイは自身の魔力感知に集中し、気配を探る。
「この先か」
妙な気配を感じる地点は、丁度ヒュギエイアの家付近。それも、彼女がいつもくつろいでいた庭に近づくに従って、濃くなっている。
シグレもそれを感じ取ったのか、感情を消し、いつでも戦えるよう気を巡らせた。
人気のない住宅街を歩く。
活気に溢れていたはずの市場を歩く。
鳥1匹見かけられない、そんな中、それはすぐに現れた。
「待っていたぞ」
曲がり角に差し掛かったところで出会ったのは、この前再会を果たしたばかりの、赤髪の女性だった。
シグレが、彼女に問いかける。
「町の人達はどこ?」
「仲間達が、安全なところに連れて行ってるところだ。なぜか突然、結界も効力を失ったしな」
パニック状態に陥っているであろう町の様子を想定していたヤヨイ達だが、彼らの姿はどこにも無かった。
何かと争った形跡もなければ、血の跡もない。
つまり、どこかに避難したのだ。
「本来、あたし達はお前を止めなきゃならない」
それは、自分達がこの状況を作り出したことの、裏付けだった。
「だが、あたしにも分からないんだ。もう、何が正しいのか」
未だ迷っている素振りを見せるが、それでも、決意したように告げる。
「あの男を止めてくれ。あたし達は、ここの住民達を守る」
「ああ」
男というのが誰のことか、ヤヨイにも、シグレにも分からない。それでも、その男がこの状況を作り出した人物であることは理解出来た。
彼らならば、確かに並大抵の魔物の相手は務まるだろう。反乱軍は、宮廷魔導師ほどでなくとも、それなりの実力を持った集団だ。
最後に、女は悔しそうに言葉を残した。
「あんな男の力を借りた私が、バカだった」
背を向けて去っていく彼女を見送って、二人は先を急いだ。
ようやく辿り着いて、裏口からそっと中を覗く。真っ白なテーブルセットに腰を落ち着ける、1組の影。見慣れた水色の髪に、少しお洒落なドレスを着た女性の姿。そして、燕尾服を着て、紅茶を楽しんでいる若い男だ。
「随分と遅かったね」
少しの間眺めていると、彼は突然、甲高い声を響かせる。
誰に向けて放ったのか、誰が遅かったというのか。
その疑問は、次の瞬間答えが返された。
「さあ、入って来なよ」
数メートル離れた、扉の隙間から覗いている、ヤヨイとシグレ。その方向を見て、彼は微笑んだ。
1人と2人の視線は、確実に合っていた。
バレている。
何故かは分からないが、もうヤヨイ達に、姿を隠す理由はなくなった。
扉を開け、一歩、また一歩と彼らに近づいていく。
「誰?」
見たこともない青年の姿に、シグレは呟いた。
と、そこで、黙り込んだままのヤヨイに気がついた。
「ヤヨイ?」
「何でお前が」
彼は、ゼノが騎士団長に向けたものと同じ疑問を、底知れなく感じた。
彼の姿には、見覚えがあったのだ。
まだ幼い頃、何度か顔を合わせたことがある。
その声を聞くまで、その佇まいを、おどけた様な身振り手振りを見るまで、気づかなかった。
いや、信じたくなかった。
「懐かしいね、もうあれから5年も経つのかな」
悪びれた様子のない、再会を楽しんでいるかのようなその声を聞いて、ヤヨイはうんざりした。
「この裏切り者が」
殺気さえ込めた言葉を、視線を、問答無用でぶつける。
しかし、そんな反応さえ、彼には大したものではないらしい。
「彼のことは、悪かったと思っているよ」
笑みを絶やすことなく、そう言ってのける。
ただ他人の怒りを増幅させる彼の口調が、反応が、ヤヨイの理性を少しずつ削いでいった。
自然と拳に力が入る。
歯を食いしばり、目を血走らせ、今までとは違う暴力が、全身に宿る。
怒りに任せて襲いかかろうと、一歩踏み出した。
その時、一言。たった一言が耳に届いた。
「ヤヨイ」
悲しそうなその声に、思わず振り向いた。
それは、相棒の声だった。
先ほど二人して魔物と対峙し、あまり人に言えないような悩みを打ち明けた、仲間だった。
「悪い」
自分の行動を制してくれたシグレに謝り、ヤヨイは改めて敵へと向き直る。
「こいつは、この国で俺達親子のことを知っていた、たった1人の男だ。5年前、この国の上層部に俺達のことを密告したのも、こいつだ」
「こいつだなんて、年上は敬うものだよ」
自分がした行いを理解していながら、彼はそれでも笑を貼り付けている。
「何でお前なんかに敬意を払わなくちゃならない」
いい加減呆れてきたその反応を拒絶したヤヨイは、問い詰めた。
「答えろ。何でここにいる。彼女に何をしに来た」
「別に僕は、旧友の顔を見に来ただけなんだけどな。まあ、いいや。実は会うだけが目的じゃなくてね、今日は遊んでもらいに来たんだよ」
いつでも魔法を発動できるよう、ヤヨイは掌を男に向ける。
「悪いが、そんな余裕はない」
敵意を剥き出しにして、そう言い切れば、彼は残念そうに、けれど殊更楽しそうに言う。
「それはどうかな?さあ、目覚めなさい。ヒュギエイア」
その一言と同時に、何か物が倒れるような音が鳴った。
それは、椅子だった。
使用者が急に立ち上がったことで、倒れたのだ。
その主は、先程まで眠るように動かないまま座っていた、青髪の女性。
二人が心配して駆けつけた、女神だった。
「っ!?」
「エイア!?」
完全に下を向いていた頭は意識を取り戻したように前を向き、閉じていた瞳は大きく見開かれ、その口からは、どこか機械じみたか細い悲鳴を発する。
「ゥッ!ァァァァッ!」
血の色の紋様が胸元から垣間見え、彼女の顔から指先、爪先までを覆っていく。
身体中に回路のようなものが生まれた彼女の周りに、おびただしい瘴気のような物が姿を現した。
それは次第に彼女の体を包み込むように巨大化する。
「剥奪!」
もはや顔と手だけしか見えなくなったヒュギエイアに向けて、ヤヨイは魔法を発動した。
支配魔法は、相手の魔法を打ち消すことも出来る。そ明日彼女を襲う得体の知れない何かから、救い出そうと試みたが。
「何で効かない!?」
いくら試しても、彼の魔法は届かなかった。
シグレも何か手を打とうと思うが、下手に攻撃すればヒュギエイアが傷つく可能性があり、歯噛みするしかない。
悲鳴が鼓膜を震わせ、瘴気が増大する度に発する重低音が彼らの動揺をより強くする。
青年はそれを嘲笑うわけでもなく、ただタネを明かすように楽しんでいた。
「僕が使っているのは、魔法でも、魔術でも無いからね」
両手を広げ、ステッキを掲げるその様は。
まるで、稀代の奇術師のようだった。
「さあ、ショーの始まりだっ!」
今までの笑顔が、邪悪なそれに取って代わる。
もはや女神の姿は完全に瘴気に取り込まれ、そこにあったのは、ただの怪物だった。
目の前に現れた、得体の知れないその存在に。
それに取り込まれた、心優しい彼女の存在に。
絶望し、狼狽える二人の少年少女。
「ははっ、ハハハハハハっ!」
そんな状況の中、青年は、狂ったような高笑いを続けた。
次回も1日遅くなります。楽しみにしてくださった方、本当にすみません。
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