死様
胸を焼くような痛みと共に、泣き崩れる少女の姿が脳裏に浮かんだ。
嘆きか、怨みか、悲しみか。
よく分からない感情が、薄く心に広がっていく。
それは何の前触れもなく、河川敷で昼寝をしていた1人の少年——ヤヨイを襲ってきた。
「はあ、はあ」
夢にしては、目をつぶっていなかったし、現実味を帯びていた。ただ、幻覚を見るように映像が映し出されたのだ。
しかし、それ以上何かあるというわけでもない。何もないことは良いこととも言えるが、それがより不安を増長させた。
「何だったんだ、今の」
気を紛らわせようと適当に呟くが、やはり消えることはない。
ヤヨイは寝転がったまま、自分の胸に手を這わせて、触れてみる。
「痛く、ないな——イテッ!?」
と、今度は額にチクリと痛みが走った。
最も、今度は夢でも何でもなく、誰かに頭を小突かれたのだが。
「何だよ、ユイ」
「あぁ、バレた?」
犯人の名を声に出してみれば、視界の端——自身の金髪の隙間から、少女の顔が窺えた。
肩ほどまで伸びた茶色の髪に、幼さが際立つピンクのワンピース。居候している家の娘——ユイだ。
「バレたも何も、こんなイタズラをしてくるのはお前くらいだろう」
「あはは、それもそうだね〜」
彼らが住んでいる村には、子供が少ない。
特にユイより幼い子は最近生まれた赤子が少しで、それ以外には15歳のヤヨイと近い少年少女が数人いるだけだ。
笑いながら、ヤヨイの隣によいしょと腰掛ける。そっと見やれば、その脇には、見慣れた無骨なバスケットが置かれていた。
「持ってきてくれたのか」
彼女に対する問いかけでもなく、ただ思考を声に出しただけ。そんなヤヨイの癖を知りながら、ユイは今日も陽気に返事をする。
「うん、お腹すいたでしょ?」
「ああ、もう昼も過ぎたもんな。でも、仕事じゃなかったのか?」
「変わってもらったの。お母さんが、ヤヨイ君に持って行ってあげて、って」
ユイが蓋を開ければ、肉や卵、野菜などを挟んだ綺麗なサンドイッチが詰められていた。
「ありがとな」
「どういたしまして!」
嬉しそうに微笑むユイ。
その姿を見て、先ほどの少女の残像を思い出す。だが、もう胸の痛みも、あのよく分からない感情も残っていなかった。
昼食後、母の手伝いをすると言って、ユイはすぐに村へと帰って行った。
ヤヨイはと言えば、近くの森で用事があったので、帰路に着いたのは夕日が沈み始める頃だ。
歩いてしばらくすれば、3メートルほどの柵が見えてくる。
「……」
「……」
唯一の入り口である門を通れば、必然的に守衛と出会う。彼はじっとヤヨイを凝視するのだが、等の本人は素知らぬふりをして目を合わせることなく通り過ぎた。
「あら、ヤヨイくん。お帰りなさい」
「……」
何度も気さくに話しかけてくれる近所の小母さんも、ヤヨイが何の反応も示さなければ、がっかりしながらも、またねと声をかけてきた。
彼らに対して、恨みがあるというわけではない。
ただ、それでもヤヨイは、この国の人々が苦手なのだ。
ここは、アイレーン法国辺境の村、ケルン。
人口は100人に満たない程度で、首都からは遠く離れた、言ってしまえば何もない村だ。
アイレーン法国というのは、約500年前に建国した、世界でも知名度の高い国の一つ。
教会が政府としての役割も果たしていることで、珍しいことでも有名な国である。
他国と違う点で大きなものといえば、この国における法律が、教会の教義に基づいて作られているというところだろう。そして、その教義の中でも、表向きに大々的に取り上げられているのは、助け合いの精神である。
これが中心となって、この国では飢餓により死亡するケースが全くと言っていいほどない。いや、そもそも国内における犯罪率は0%で、寿命や病気、事故などでしか命を落とすことはないのだ。
しかし、これには大きな裏がある。
こんな理想郷が、何の対価も無しに成し得るはずもない。
「そもそも人間は争うものだって、むかし——」
そこで、ヤヨイはふと気がついた。
「昔、どこで、誰が言ってたんだ?」
忘れている。
どこかで読んだわけでもない。昔話を聞かされたこと自体少ない。
ここではない。どこか遠くの世界の記憶。
「まあ、いいか」
思い出したとは到底言えない。
だが、おそらくたとえ思い出したとしても、それがヤヨイに対して、反抗心を抱かせることは決してないのだ。
ただ、元から抱いていた僅かな怒りが、勢いを増すだけだった。
❄︎
「父さん、これでいいの?」
掌に大きく浮かぶ、見慣れない記号でできた陣を見て、少年は呟く。
すると、隣で様子を見ていた男は、とても感心したらしい。ヤヨイの頭をそっと撫でながら褒めた。
「ああ、よく出来たな。お手本も無いのに」
「だって、なんか分かんないけど、魔法って楽しいから」
少年が意識すれば、その模様——魔法陣は光り輝きながら、表面に刻まれた文字を適当に書き換え始めた。
子供心にその変化に笑みを浮かべていると、何故かぼんやりとして足がふらつき始める。
「あれ?」
「こら、まだ出来たばかりだろう。少しずつ分かるようになればいい」
段々と気分も悪くなってきたので、促されるままにベッドに横になった。疲れたのだろうか、途轍もなく眠い。
しかし、少年は気になっていた。
何故、魔法の勉強をする必要があるのだろう、ど。
「お前の幸せのためだ」
「幸せ?」
今も幸せだよ。
あまり頭が回らないまま少年がそう呟けば、男は何がおかしいのかクスリと笑った。
「今だけじゃない。いつかお前が成長して、大人になった時、きっと役に立つからだ」
「よく分からない」
子供に何言ってるんだろうなと、男はそう微笑んで、頭を撫で始める。
眠気が増すが、意識が途切れる前に聞きたいことが、少年にはあるのだ。
「魔法を頑張ったら、父さんともっと一緒にいられるの?」
消えるような声で
返答を聞くことなく、少年は眠りについてしまった。
❄︎
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
幼い頃、父と過ごした記憶を、ヤヨイは夢に見ていた。懐かしく思っていると、次第に別の感情が込み上げてくる。だがその時、ユイの呼び声が聞こえてきた。
どうやら夕食が出来たらしい。
ユイは村を回って何か変わったことがあったとかなかったとか、そんな話をしている。
「もうすぐお祭りの日だから、みんなも近くの町に出かけるんだって」
この国では、特定の日に遠出をすることが許されている。
建国記念日がその例だろう。
彼女がそう言うと、ユイの両親は顔を合わせて嬉しそうな表情を見せた。
「この国ももうすぐ建国五百年だもの。何をやるのかしら」
「お祭りみたいなものだから。でももしかしたら、法皇様が何か考えているかもね」
家族で幸せそうに会話するその様は、理想の家庭と言えるものなのかもしれない。だが、ヤヨイからすれば、嫌悪感を感じずにはいられなかった。
「ヤヨイ?」
「悪い、今日はもう、いい」
そう告げて、リビングを後にする。
心配するような声が聞こえてきたので、立ち止まると。
「大丈夫かしら。やっぱりまだ、お父さんのこと」
「きっといつか、前に進むさ」
そんな、言葉が聞こえてくる。
それが哀れみにしか思えないのは、ヤヨイの心が異常だからだろうか。
それとも。
なぜ分かってくれないのかと、涙を流しながら、あの時叫び続けた。
彼を抑える大人達は、疑惑の目を向けてくる。言葉を伝えても、感情をぶつけても、何も変わりはしない。
ある者は恐れるように、またある者は呆れるようにヤヨイの道をふさいだ。
誰一人気づかない。いや、気づけない。
それが、この国の人間に与えられた、呪いなのだ。
だが、分かっていても、受け入れられるはずもない。急がなければ、自分が助けに行かなければ、大切な人が居なくなってしまう。
ユイの両親ですらも、耳を傾けてくれることはなかった。
彼らが何と答えたのか、今でも鮮明に思い出せる。
『君のお父さんは、悪いことをしたから捕まったんだろう。きっと更生して、また君に会えるように、どこか遠くで精一杯生きているよ』
笑顔で、そう言ったのだ。
だが、どうしても思えなかった。ヤヨイが見たものは、そんな生易しい世界ではない。
ここでは、国民は皆、体のどこかに紋章を刻まれている。翼を象ったその模様は、一見すると何の効力も持たないものに思える。神の加護を授かるための儀式として、強制されている理由。
それは、洗脳だ。
そして、ヤヨイも例外なく、右の二の腕に刻まれていた。
この紋章を刻まれている限り、国民は自由への関心を失う。縛られているのが当たり前で、誰一人として変化を求めない。住む場所も、行ける場所も、得られるものも、将来も、そのほとんどを制限されているのに、違和感を感じることすらないのだ。
それがこの国、アイレーン法国の実態である。
「絶対に、ここを出てやる」
その意志は、あの頃から、ずっと抱いたままだった。