side グリュック 不思議な感覚
目を開けると、白い天井があった。
いつも見慣れた灰色の天井では無く、グリュックは少し戸惑ってしまった。
「グリュック様、お目覚めですか」
部屋の向こうから、声が聞こえてグリュックはビクリと体を強張らせる。
ゆっくりと体を起こして、周りを見た。
ああ、そうだ。僕は外に出られたんだっけ。
そうボンヤリと考えていると、扉がノックされる。
「グリュック様?まだ寝ていらっしゃいますか? ……失礼します」
扉がガチャリと開いて、中に入ってきたのは黒い髪をした青年だった。
「ああ、起きていらっしゃったのですね、おはようございます」
「…………」
青年は恭しく礼をして、グリュックはそれをじっと見つめた。
「私は、今日からグリュック様のお付きになりました。オルトとお呼び下さい」
青年はニコリと笑い、グリュックを見た。
「……オルト」
「はい、よろしくお願いしますね」
グリュックは彼の真っ青な瞳に引き込まれそうな感覚を覚えながら頷いた。
「朝食の前に、湯浴びをしますね。見たところグリュック様は汚れを落とす必要がありますから」
「ああ、そうだな」
オルトでは無い声が聞こえた。
その声を、グリュックは知っていた。
オルトが後ろにいる声の主に気付き、先程と同じように礼をする。
「いい朝だなグリュック、よく眠れたか?」
グリュックは自分がよく眠れたのか分からなかったが、コクリと頷いた。
「そうか、良かった。帰って来た後に湯浴びをさせようと思ったのだが、流石に疲れて辛そうにしてたからな。よく眠れて良かった」
男性は、グリュックのベッドに近付いて彼の頭を撫でた。
誰かに、こうして触れられるのは初めてのことだったので、グリュックはなんだか不思議な感覚を感じた。
すると、男性はベッドの方へ目線を動かし、
「だが、爪は昨夜の内に切っといて正解だったかな」
と、毛布や枕が散乱しているベッドを見て苦笑した。
「旦那様、そろそろ……」
オルトが後ろで声を掛ける。
「ん?ああ、湯浴びだったな。すまんな、よろしく頼む」
「はい、畏まりました」
旦那様と呼ばれた男性は、グリュックに笑いかけ、部屋から出ていった。
グリュックは、撫でられた頭を触りながら、男性が出て行った方を見つめる。
その顔がなんだか寂しそうに見えたオルトは少し苦笑して、
「またすぐ会えますよ、さあ湯浴びに行きましょう」
と言った。
♧
湯船というものをグリュックは見たことが無かった。
前にいた所では、湿った布を渡され、それで体を拭いていた。
湯浴びといえば、それが普通で当たり前のように思っていたグリュックには、本で見たような池のように広い湯船があるとは信じられなかった。
グリュックが無言で驚いていると、オルトはグリュックの服を脱がせにかかる。
昨夜着替えさせられた服は上等な布地らしく、肌が擦れてもヒリヒリしない。
しかし、服自体の構造が難しく、そして動きにくいのでグリュックはこの服よりも前の服が着たいと考えていた。
「さ、まずは体を綺麗に拭いて、髪も洗ってしまいましょうか」
オルトが腕捲りをして、グリュックを小さな石の椅子に座らせる。
彼が服を着たまま濡れている床に膝を突いているのを見てグリュックは不思議に思った。
「服を、脱がないの?」
唐突にグリュックが言葉を発したせいだろう。
オルトは虚を突かれたように黙ってしまう。
グリュックは、そんな彼の瞳を不思議そうに、じっと見つめた。
すると、オルトは優しく笑い、
「はい、私は今、グリュック様の体を清めるためだけに湯浴び場に来たのです。
貴方様の体を清めるのに、なぜ私も服を脱ぐことができましょうか。私は昨夜から貴方様のためだけに生きることを誓った身、貴方様と同じ立場で立つことは許されない身なのです」
オルトがそう言うと、グリュックは茫洋とした顔付きで、
「……ふぅん」
と返した。
オルトが隅々まで洗うと、垢や土埃で黒く荒んでいた肌が何回も擦られた結果、少し赤みが差しているが、子供らしい白い肌に変わっていく。
白銀に染まった髪も何回か洗うと、艶が出るようになり少しの光でもキラキラと輝く程だった。
隅々まで綺麗になったグリュックは、少しヒリヒリとする体と頭皮を不思議に思いながら自分の体の至る所を触っていた。
その光景を見ていたオルトは少し笑いながら
「驚きましたか?」
と言った。
グリュックは何度もコクコクと頷き、そして少し考えて、
「……あり、がとう」
と俯きながら、恥ずかしそうに言ったのだった。
オルトはまたもや、驚き、そして優しく目を細めた。
「私なんかに、そのような言葉は勿体無うございます。しかし、有難くその言葉を頂戴しますね」
そう言いオルトは腕についた泡を水で流す。
「湯冷めしない内に、湯船に入りましょうか……湯船は初めてですか?」
オルトの問いにグリュックは頷いた。
「では、お気を付けて入るようにしましょうね、足を滑らせると大変なので」
湯船に入ってみると、グリュックは驚いた。
湯気が立っていたので熱いのかと思ったが、そんなことは無く普通に入れるのだ。
しかし、ぬるいという訳でも無いので、グリュックは不思議に感じた。
「湯加減はどうですか?」
湯加減、と聞かれても何と答えればいいか分からないので、グリュックは無言になってしまう。
そんな彼にオルトは気付いて、
「熱いですか?冷たいですか?」
と聞き直した。
グリュックは首を振って、どちらも否定をした。
湯船の近くの窓からは、朝日が差して鳥の囀りが聞こえて来るほどに静かだった。
「……ねぇ」
ふいに、グリュックが口を開いた。
「はい、なんですか?」
「あの人は、なんで僕に幸せって名ずけたの?」
そう、グリュックが問うとオルトは口を閉ざしてしまった。
言葉を考えているのだろう、彼の顔付きは難しいものだった。
少し時間が経ち、グリュックは
「……分からない?」
と尋ねた。
するとオルトは少しだけ申し訳け無さそうに笑い、頷いた。
「旦那様の考えたことは、旦那様にしか分かりませんし、私の言葉で煩わせる訳には参りません。申し訳ありませんが旦那様ご本人に直接お聞き下さい」
「……分かった」
グリュックは、水面に映る自分の顔を見た。
目は窪んでいるせいで目付きが悪く、頬もこけている。
その上、長く伸び過ぎた髪が顔を少し隠しているので、あまり綺麗な顔付きとは言えない
どうして、あの人は僕の顔を整っているといったのだろう?
そんな疑問が頭に浮かんだ。
しかし、考えても考えても、最後には自分が何故こんなことを考えているのかさえも、分からなくなってしまった。
グリュックが無言で水面に映る自分を睨みつけていると、オルトが口を開けた。
「さて、そろそろ湯船から上がって体を拭きましょうか」
♧
湯浴び場から出ると、オルトが丁寧にグリュックの体を拭いた。
長く伸びている髪は優しくタオルで包み、水分を残さず絞り取る。
そして、水が滴り落ちない程度になったらそれを軽く結び、前に出した。
それからオルトは上等な服をグリュックに着させ、髪からの水分が服にしみないよう、肩から少し長めの布を掛けた。
グリュックは、また動きにくい服を着せられ少し不服そうにしていた。
「さあ、旦那様が待っています。ダイニングルームへ急ぎましよう」
オルトはそう言い、グリュックに扉を開けたのだった。
今日も読んで下さり、ありがとうございました。