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帰還せし王  作者: 陽炎
1章【帰ってきた王】
5/36

ネリスト族

 ヴォンルチー大森林を南に突き進むと長かった大森林を抜けて大きな草原――草原は広大で見晴らしが良く西に行けば大きな湖があることから人間にとって街を作るのに大変魅力的な場所であった。だがこの草原はオーク達やダークエルフの領地が近い事から覇権を争ってオークと人間そしてダークエルフが戦い、その綺麗な野原の下は死体が埋まっているという曰く付きの場所だった――に出ることができる。

 草原から南東に進むと、今度はヴォンルチー大森林とは違う黒い葉を生やす森林地帯へと到着する。その森の奥には岩石が点在していて美しい鉱石が大量に採れる場所として有名な場所だ。森の中に一旦入れば外界から隔絶されたような紫色の空が現れ、人の大きさに匹敵する大きな紫水晶が歓迎してくれる。それを見た者は自身の目的を忘れ見入り始めやがて発狂する。

 そこにきちんとした名称はなく、ただ訪れた人はその場所のことをいつしかこう呼んだ【幻惑の黒森】と。

 そここそ、ダークエルフのネリスト族が今現在住まう森であった。




 ――煌びやかな孔雀石がふんだんに備え付けられた豪華な髪飾りで絹のように細い銀色の髪を後頭部上で盛り上げる。それでも腰にまで届く銀色の髪。同種族の者から賞賛されるその髪の毛を持つ女性は、大理石で作られた祭壇の上で、村の大長老と長老達が行っている大儀式の行方を見守っていた。

 黒く見えるほどの濃い藍色の肌を持つ者が多いダークエルフの中で、彼女だけは褐色の肌を持っている。それは内なる魔力の大きさが身体の肌の色を変えていると考えられており、彼女が特異な存在である証でもある。

 眼はややつり上がった切れ長で、長い睫が印象的なオパール色の大きな瞳。それは涼しげで宝石をそのままはめ込んだように色鮮やかに光る。

 鼻筋はくっきりしていて大きくはない小鼻。それは程よく上に向いていて、彼女を気の強そうな女性にも見せ、また聡明な女性にも見せてくれる。

 さらに唇は薄く小さくてあまり強調することなく、しかし濡れたような光沢ある赤みの唇は見る者を惹きつけ、切れ長の目と鼻筋の通った小鼻と組み合わせれば男女問わず彼女に見とれてしまうほどだ。

 長身のその身体はインナーの上から、肩の部分だけが開いた薄い碧玉色のローブで隠す、だがそれは彼女の腰にピッタリと張り付くことで、細い腰周りが強調され細身の身体であることがよく分かる。

 手は完全に露出されていて、力を入れればパキリと折れてしまうような細い指。

 ローブの丈は膝下まであり、白の下地に青色を重ねた長いシューズを履いているため足は露出していなかった。


 左手を腰に当てて不安そうに儀式の様子を伺う彼女――ウェルリーナは唇をキュッと窄める。前方で行われているのは、ネリスト族と呼ばれる彼女たちに伝わる古の大魔法の儀式だった。

 祭壇の上ではいくつものかがり火が四方に焚かれ、中央には血で描かれた円形の魔法陣。その上に透明の大きな水晶玉が置かれ、周りに御年(おんとし)800歳ともなる大長老のほか、大長老よりは若いが600歳以上になる老人と老婆の長老達が立ち並び、一心不乱に魔法の言葉を口にしていた。それはまるで呪詛のようにも聞こえる。

 この儀式には危険しかなかった。たとえ成功したとしても実行した者はその命を失い、失敗すれば大きな呪いが周辺地域にかけられるという呪われた呪文。禁忌されたその魔法はしかし今、ウェルリーナの前で行われていた。

 そう、彼らはたったひとつの目的のためにこの儀式を行っていた。純粋で無垢な願いだとも考えられるような願いだった。その願いのため長老達は命をかけていたのだ。


「お前がこれに反対だったのは知っている」


 こう言ったのは隣で、彼女と同じく儀式の行方を見守っていた父親のサフランだった。

 サフランも銀色の長髪を持つが肌は灰色に近い藍色で、褐色の肌を持つウェルリーナと並び立つとその違いは顕著に分かる。また遠距離で戦うのが主体の祭司が多いネリスト族の中では筋肉質であり布で織られた魔法の服からは彼のたくましい胸筋が見て取れ、肉弾戦も出来る祭司ということで有名な人物でもある。

 エルフ族特有の長寿の特徴から皺などは齢250を過ぎても未だになく、まだまだ若者に見えるほどだ。


「だが分かってくれ、私たちが生き残るには、もはやこうするしかないのだ」

「――はい」


 父親の言葉に対してウェルリーナは眼を伏せて、祈るように両手を組んだ。彼女からは魔法の波長は流れず本当に祈っているだけだということはすぐに分かった。

 父親はいちいち小言が過ぎたかと後悔し、それ以上何も言わず娘と共に長老達の儀式を静かに見守る。

 もう何時間もこうして儀式は行われている、休む間もなくだ。これは魔力が多いエルフ族であったとしてもあまりに長い。見れば既に長老の一人が疲弊しきって立つのもやっとという状況になっていた。

 それでも儀式は中断されることなく続いているが。


(本当に長い……。このままでは全員が死んでしまうのではないか……?)


 サフランの頭に一株の不安が過ぎる。

 もし儀式が終了されるより早く、長老達が逝くようなことがあればそれは失敗に終わったという事を意味する。同時にそれはネリスト族の終焉とも言える事態になる。


(ファッティエット族め……。やつらさえいなければこんな事態にはならなかったものを。滅ぶべきはやつらだ!)


 不安が彼を怒りの感情に変える。ギリっと歯を噛みしめ、過去の苦い体験を思い出した。それはファッティエット族と人間によるネリスト族への襲撃の夜のことだった。

 いつの間にか人間と同盟を結んだファッティエット族の族長ギーゼルヘアが部隊を揃えて、彼らネリスト族を攻撃してきたのだ。もとよりネリスト族は数が少ない上に、祭司が多く戦いを得意とする者は少ない。そこにダークエルフの中でも武闘派が揃うファッティエット族と人間の連合部隊が襲いかかり、ネリスト族は為す術もなく敗れた。

 男は殺され、女は連れ去られた。生き残った彼らは命がけで戦場から脱出し、この呪われし森と人間から恐れられている【幻惑の黒森】に難を逃れた。

 ただここは呪われた場所などではなく、ネリスト族の大長老が強力な幻惑呪文を施して避難場所として確保していた場所であった。


 しかしここもいつまでも安全とは言えない。幻惑呪文の対策をされれば――残るのは綺麗な水晶が多い、それはすばらしい森であるだけで、そこに防御能力はなくかつての蹂躙が再び行われるだけ。それゆえ、大長老と長老たちが決死の覚悟で太古から伝わる古の闇魔法を使おうとしている。

 その代償は彼らの命。

 ウェルリーナは、長老達が命をかけるような危険な真似をしてその代償に見合わない結果だった場合、取り返しがつかないと注意をしてきた。そんな賭けをするようなら全員で逃げた方が良いと。

 しかし、それは無理だとサフランは考えている。一時しのぎでしかなくすぐに追っ手が来て、そしていつか捕まる。ファッティエット族にではないかもしれないが人間も味方ではない。人間は大陸中にうじゃうじゃと存在しており、それらが敵だと考えれば危険を承知で儀式を行ったほうが良いに決まっている。

 長老達は自分たちよりも、若い世代のダークエルフに未来を歩ませたいと言ってくれたのだからなおさらだ。そして、サフランがウェルリーナに生き延びて欲しいと願う気持ちも同じである。


(む……! 終わったか!?)


 相当な時間をかけた詠唱の声が消えて、血の魔法陣がパァっと光を放った。

 長老たちはその場に膝をついて倒れ込み、激しい咳と共に荒い呼吸を繰り返している。それは陸に揚げられた魚の如く口を大きく開き酸素を求めてもがき苦しんでいる様だった。

 サフランの横で大きな影が動き、魔法陣に駆け寄ろうとするのが分かる。それはウェルリーナだ、彼女は苦しむ長老達を介抱するために危険地帯としか思えない魔法陣に足を踏み込もうとしている。サフランは咄嗟の判断で娘の腕を掴み彼女を制止させた。


「行くな!」

「でも!」

「あれが、いまどんな状態か分からないんだぞ!」

「でも、このままじゃ長老たちがっ…!」


 腕を力の限り振り払おうとするウェルリーナの肩を空いているほうの片腕で掴み、自分のほうに顔を向けさせるサフラン。

 ウェルリーナはキッと父親の顔を睨む。

 だがそれで怯むような柔な父親ではなかった。


「なにが起きても近寄るなと言ったのは長老たちだ。それにお前が近寄ったところで何が出来る! 長老たちの努力を無駄にする気か!」

「……っ!」


 悔しそうに唇を噛みしめてウェルリーナは身体の力を抜いた。父親の言うとおりだと気づいたようだ。ここで自分が行ったところで邪魔にしかならない上に魔法が失敗する可能性もある。悔しい、正直言えば悔しいという気持ちを堪えて彼女は長老たちの様子を見る。

 魔法陣は光を放ち、長老たちはその上で転がりながら苦しんでいた。それはあの魔法陣の光が長老たちの命を吸い取っているかのように見えた。

 やがて長老たちの動きが緩慢になってくると魔法陣の光は薄れ、まもなく光は消え失せた。


「サフラン! 今の光はまさかあの魔法が!?」


 祭壇の下で六人の男女のダークエルフが声を張り上げて登ってくる。

 サフランはあがってきた六人を自分達がいる場所に止めて、長老たちの様子を伺うように指示する。下手に近づくはよせ、と言って。

 六人は息を飲み込みながら、魔法陣の上の惨状とも言うべき状況になっている長老達の様子を見る。長老達は呼吸はしているものの魔法陣の上で寝そべり、立ち上がる気配は全くない。それは一切の間違いなく彼ら全員が衰弱しているのだと分かる。

 長寿で知られるエルフの命はたった一つの魔法により風前の灯火になった。まさにそんな状態だった。


「信じられん魔法一つで長老が全員こんな…………」

「だがこれが真実だ。幻でも嘘でもない、事実だ」

「魔法は……、魔法はどうなったんだ……?」

「分からない、成功したのかどうか調べたいが……、近づいていいものかすら分からない」


 六人が静まる。行けば魔法陣に命が吸い取られるのではないかと、長老達と同じようになるのではないか? という感情がその場に流れ込み全員に連鎖反応を示すように誰も動けなくなった。

 だがウェルリーナは違った。彼女はゆっくりと長老達の元へと駆け寄っていこうとする。しかし臆しなかったという訳ではなく、彼女も内心怯えを感じていた。それでも、もがき苦しむ長老達をこのまま放っておくという行為もまた彼女には出来なかった。


「ウェルリーナ……、くっ」


 歩みだし、魔法陣に近づこうとする娘を制止できなかった父親は慌てて後を追う。

 結果、彼女――ウェルリーナは魔法陣の上に立った。

 遅れて父親サフランもその場に立った。


「なんともない……か」


 魔法陣の上に立ったが身体に異常は現れず既に命を喰らうという代償は終わったのだとサフランは悟る。光っていた時に上に乗れば危険だったのかもしれないが、今はもう光はなくただの血で書かれた円形の魔法陣があるだけだ。これには害を成す力はもはや失効していると考えて良いのだろう。それなら娘は無事だと安堵する。

 後ろにいる六人のダークエルフに自分達は無事だとジェスチャーを送る。六人の顔に緊張の色が消えていくのが分かった。


「ねぇお父さん、これ、水晶玉を見て」


 ウェルリーナがやや強張った声色でサフランを呼ぶ。緩んだ糸がピンと張るようにサフランに緊張が蘇る。

 娘のもとに近づき、彼女の下に転がる水晶玉を彼は覗き込む。そこに映っていたのは一頭のオークの首を片手で締め上げて持ち上げている上半身裸の青年だった。

 髪は金色で後ろ髪が首筋を隠すぐらいの長さ。顔はこの角度からではよく分からず表情までは見えない。肌は黄色で人間にいそうな肌の色をしている。

 そのあまりに異様な光景に水晶玉を覗く二人は眼を見開き口をポカンと開いてしまう。そして水晶玉は青年から少し離れたところに、無造作に転がっている漆黒の鎧を映し出すのと同時に、その鎧からとてつもない邪悪なオーラが湧き出て、空間をねじ曲げていくのが見てとれた。

 背筋を這うようなゾクリとする寒気を感じてサフランは、娘の肩を両手で掴みグイッと後ろに引っ張るように飛び退く。ウェルリーナから小さな悲鳴が零れたが彼の耳にそれが入ってくることはなかった。


「――なんだ、なんだあの……」


 ――鎧は!

 それは声に出されずにサフランの心の中で大きく叫ばれただけだったが、全身に吹き出した汗は誤魔化しようがなかった。

 ウェルリーナも険しい表情で今まさに眼下で起こった光景に驚いているようだった。心拍数などに変化はなくとも身体に力が入り、食い入るように水晶玉から視線を離そうとしない。


「うぅ……。あぁ……」


 サフランの足下でうめき声が聞こえた。それはあの大魔法を行っていた大長老のものだった。

 自分はなにをしているのか! とサフランは自分に怒りを覚える。長老達を助けるのを忘れて水晶玉ばかり見ているとはと、己を恥じた。そして大長老の身体を支えるように自身の膝の上に身体を寝かせる。

 それを見たウェルリーナは――水晶玉の光景で驚きおののいていたが我を取り戻し、悲痛にも似た声を上げながら、長老を助けるため回復呪文を使うためしゃがみこんだ。


「大長老様! いま、いまお助けします!」


 儀式用に描いた血でローブの裾が汚れるが彼女にとってそれはあまりにささいな出来事だった。そしてネリスト族の中で一番の癒やし手と称される彼女の回復呪文の緑の光が、大長老の身体を包み込む。

 この世界において回復呪文が使える者はそれほど多くはない。人間であれば神官か能力が非常に高い騎士などしかいない。それは呪文が得意なネリスト族であっても同じではないにしても似た状況であるのは間違いない。ネリスト族の中で回復呪文を扱えるのはごくわずかであり、ウェルリーナは貴重な癒やし手なのである。

 しかしそんな彼女の回復呪文――下級魔法や中級魔法や上級魔法という括りがある中で中級魔法相当に位置する――は大長老が少し呼吸がしやすくなるという回復しか効果が見受けられなかった。


「効かないのか……?」

「……っ!」


 顔を横に振って無念そうに俯くウェルリーナはそれでも諦めず魔法をかけ続ける。効果が現れない理由がたとえ大魔法の影響からだとしても彼女はそれに抗った。

 そのかいがあってか大長老は呼吸を少しずつ少しずつ整えていく、虚ろだった瞳の焦点が合っていく。


「――!! みんな大長老様が気づかれたわ!」


 その声に後方に立っていた六人が祭壇の中央に駆け足でやってくる。六人が一斉に動いたからだろう、ドスドスといった音が祭壇に響き渡った。

 ウェルリーナは、回復呪文で助けられているというのを理解しこちらを見つめる大長老に、慈悲に満ちた顔を見せながら声をかけていく。ゆっくりと。


「大長老様――ウェルリーナです、お分かり頂けますか?」


 ゆっくりとした問いかけ。それはしっかりと大長老の耳の中に入り彼の脳に刻まれたのだろう。彼は緩慢な動きで顔を縦に振った。

 その返事に言葉はなかったがウェルリーナに良かったと感じた。大長老の眼は見えており、言葉も理解できると。

 だがあの大魔法の代償は命であることは彼女自身忘れてはいない。おそらくいまのこの状況も長くは続かないだろう。それでも少しでも苦しみから解放できるのならそうしたいとウェルリーナは強く思っていた。


「ウェル……リー……ナ、ま…ほう……は………どうな……」


 ウェルリーナを視認した大長老は唇からわずかに泡を吹きながらも、消え入るような声で途切れ途切れにだが大魔法の結果を問いかけてきた。この結果を聞かないうちは死にきれないと言いたげに。

 彼女は父親と、周りにて大長老を心配そうに見つめる六人の表情を見渡しながら、少し考えた。なんと言えばいいのだろうか、と。

 水晶玉が映し出した光景は頭の中に強く印象強く残っている。そうだ、上半身裸の筋肉質であったものの、決してオークという巨体を片手で持ち上げることができないはずの身体で、水晶玉の中に映し出された青年は、オークの首を絞めあげていた。そしてその近くにあった鎧、あれがどれほど恐ろしい物なのかというのはあの禍々しいオーラでよく分かった。


「……それは」


 あれらをどう伝えればいいのかウェルリーナは困惑した。ありのまま言っていいのだろうか、良くないのではないかと考えてしまって言いづらそうに悩む。

 しかしそんな彼女の悩みは父親が吹き飛ばしてくれた。


「ウェルリーナ、あの水晶玉を大長老様に見てもらおう。それが一番いいだろう、大長老様にしか分からないことだ」


 父の提案に銀色のロングの髪を持つ美しい娘は、自分が悩んだところであれが望む結果なのか望んでいない結果だったのか判断する知識はなく、大長老にしかできないと考えを改める。

 そして父の言うとおり、水晶玉を大長老に見せようと決めた。


「分かったわ。――大長老様、あの水晶玉をご覧になってください。あの中に、男が映っています、それととても邪悪なオーラを発する鎧と兜が傍に落ちていました」

「お……おお…………。み、みせよ……」


 口を半開きにして、皺だらけの手を力弱く差し伸べる。それは今にもダラっと落ちてしまいそうなほど頼りなかった。

 その手にサフランは、手のひらサイズの透明の水晶玉を大長老の手の上に乗せた。その中には先ほど映っていた男が今度はオークの上に乗り何かを聞いているところが映し出されていた。


「う、うぅ…………。――サフラン……」

「はっ」

「お前は…………どう見る?」


 大長老の白い髪の毛がだらりと顔の前に垂れ落ちる。

 重い病気に冒された人のような衰弱した顔は時間が経つにつれてさらに生気を無くしていくようだ。

 サフランはこの質問に考える時間はもうほとんど無くなってきていると気づいた。大長老の身体は娘の回復呪文を受け付けておらず、刻々と死に近づいていっていると。

 彼は自分が思う内容をそのまま口にすることにした。


「正直、あれが私たちの悲願であるとは思えません。その…………、人にも見えます。そう、人間です。ダークエルフには見えない、それにオークを素手で圧倒するなど…………、あの鎧にしてもそうだ。――大長老様あれはなんなのですか?」


 若干ヒステリックな声をあげるサフランに、大長老はフッと一瞬笑みを浮かべた。彼がこう言うと分かっていたように。そして大長老は赤子をあやすように優しく告げる。


「心配せずとも良い、我らネリストの悲願は成就した。この方こそ我らのいや全ての偉大なる王にして支配者になられる方。人ではない。この方こそ正に真のエルフである」


 大長老の言うことにサフランと他の七人は(にわか)には信じがたいという表情を浮かべた。だが大長老は水晶玉に映し出される男を見て安心しているように見え、その顔には一片の不安という感情はなく、これから安穏の日々を送れるのだというような表情をしている。

 それが強く印象に残った。


「この男が…………」


 水晶玉に映し出されるダークエルフを見やる。

 身体は均整がとれた筋肉がついており、水晶玉で見れば華奢にも見えたその身体だが、注意深く見れば、肩と上腕二頭筋は丸太のように膨れあがり大胸筋もまた筋肉で盛り上っていて腹直筋は立派に六個の筋肉の塊を作り出して割れている。背中の筋肉も見事なものだ。どう鍛えたのかは不明だが僧帽筋と広背筋もまた筋肉で身についている。それは彫刻刀で彫られた木像をそのまま肉体にしたような身体つきだ。

 戦士に近い祭司という立場にあるサフランはネリスト族の中でも特に肉体が優れているのだが、水晶玉に映し出される男のそれと比べられれば見劣るのは間違いない。それどころか、かの戦士階級ばかりのファッティエット族の族長であるギーゼルヘアでさえあそこまで均整の取れた筋肉があるとは思えない。


(まるでオーガの筋肉だ)


 それは狂戦士――魔力をほぼ持たない代わりに強靱な肉体を武器に肉弾戦で戦うバーサーカーと呼ばれることが多い――と呼ばれることが多く、戦いにおいて力で勝ち進み、肉体においても地上で一、二を争う巨体を持つ魔族のことだ。

 サフランは男の肉体を見て、その筋肉の付き方やオークを腕力でねじ伏せる姿にオーガのその様を当てはめた。

 筋肉がつきにくい代わりに膨大な魔力を秘めるエルフのうちの一つであるダークエルフでありながら、その肉体はオーガの如く頑強な筋肉を身につけ、体重およそ三倍はあるかもしれないというオークを片手で持ち上げ、組み伏せてる。その姿に畏怖の念を感じない者はいないだろう。

 大長老の言うとおり、味方であれば良いのだがと彼は密かに祈るように考えた。もし、違うのであれば災いを呼んだことになる。それだけは違うことをただ祈りながら水晶玉を見ていた。


「――大長老様!! 大変です!! やつらが、やつらが攻めてきました!」


 ――それは急報の知らせようとする声だ。

 祭壇の階段を一気に駆け上がり、年若いダークエルフの青年が血相を変えて、叫ぶように声を張り上げた。


「ファッティエットが、ファッティエット族が攻めてきました…! ギーゼルヘアが先頭に、入り口はもう包囲されています。早くお逃げくださいっ!」


 ギーゼルヘア。その名を聞いてサフラン、ウェルリーナ、大長老を除く五人は我先にと祭壇を駆け下りて逃げ出していく。

 長老達を置いて逃げ出す姿を見てウェルリーナは彼らを止めようとするが、父親に逆に止められた。


「戦意がない者がいたところで何もならん。邪魔になるだけだ、行かしてやれ」


 くっ、とウェルリーナは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。


「私たちが倒れたせいで結界が消失したのだ。分かっていたことだ。すぐにギーゼルヘアが来るだろう……。――お前は行きなさい、すぐに逃げるのだ。そしてサフラン。ウェルリーナお前達にはこれだけは言っておかねばならない」

「大長老様」

「はい」


 伝令の青年はその指示に従い階段を駆け下りていく。ちらりと三人の姿を一度見て、しかし走る速度を落とさず森の中に入っていった。

 サフランとウェルリーナの親子は大長老の最後になるであろう言葉を緊張の面立ちで全ての言葉をしっかり覚えるのだという決意で聞く。


「あの方はこの世界の方ではなく別の世界におられたダークエルフだ。ゆえにこの世界のことを理解されていない。しかし我らと共通する箇所もある。あの鎧だ、あれは闘神ガルデブルーグの武具、神々の神器である」

「神器!? そんな……では神なのですか……?」

「神ではない、しかし神に等しき場所に登り詰められたのだ。あの方はあの神器の新しい持ち主となられたのだ。良いか、必ずあの方に会うのだ、そして救っていただくのだ、我らではなく、魔族全てを。同族で争うようなこのような状況を変えていただくのだ、あの方にはそれができる」


 大長老の目に生気が少し戻り、鬼気迫るようにサフランの胸ぐらを掴んだ。その様にサフランはたじろぐ。

 二人は生唾を飲みこんだ。


「良いか、我らとは魔族全体のこと。敵とは魔族でないもの、即ち人間だ。魔族同士で戦うなどあってはならない、同族で争いを行えば得をするのはやつら人間だけだ。敵は多く強大な存在もいる、あの男に勝てる魔族などいないのだ。あの方以外には。よいなもう一度言うぞ必ず、我らの状況を話し理解していただくのだ、そして救っていただくのだ……かつてそうしてもらったように――サフランそしてウェルリーナよ、けっして忘れるな、これからお前達が行う事は全ての魔族を破滅させるか救うかの問題なのだと」


 これだけはなんとしてでも言わなければならないという気持ちが溢れだすように、一気に言葉を綴った大長老は言い終わるや、堰を切ったかのようにごほごほと咳をはき出して吐血する。

 血の魔法陣が書かれた祭壇の石畳の一角は真新しい血と混ざり合い、生臭い匂いがキツくなる。

 大長老は肩を大きく動かし、今にも心臓発作を起こすのではないだろうかと彼を介抱する二人は心配そうに大長老の背中を摩った。

 ウェルリーナはチラりと他の長老達を見たが、長老達は微塵も動かず、静まりかえっている。大長老と同じような呼吸をしているようにも思えないほど、静かだ。おそらくその答えは、と考えた彼女はそこで思考を止めた。答えはすでに出ている、それならば目の前で消えゆこうとする命の灯火の火を消えないようにすることが今の彼女の仕事。

 無我夢中で回復呪文を大長老にかけることに集中した。


 娘が回復呪文を行うことに必死になってるとき父親のサフランは、大長老の命より他のことを考えていた。それは今し方大長老に言われた事の重要さと、そして――自分が考えていたことの遙か上の出来事に目眩を起こしそうになっていた。

 彼はこの魔法――古の召喚魔法を行う理由は、自分達ネリスト族の救い主を呼ぶためのものだと思っていた。そう、ファッティエット族から自分達を守ってくれるであろうそんな存在を考えていたのだ、そして期待していた。成功すれば皆の仇討ちが出来ると。

 しかし大長老の話を聞けばどうだろうか。

 ネリスト族を救う存在どころか、魔族を救う存在だと言うではないか。それは想像の域を超えるなどなどというレベルの話ではない。上にいきすぎた話は今や、天を貫きあの大地を照らす太陽に届くのではないだろうかという話のレベルだ。

 第一、サフランはこの周辺の状況や、最も危険な男と認識している【あの男】ぐらいしか把握しておらず、魔族の状況を理解しているかと問われば、否と答えるほどの知識しかない。それは大長老も知っているはずだ。それなのに大長老は話せと言う。

 いったい大長老は何を考えているのかと、卒倒しそうになるのを堪えながら彼は娘の様子を伺う。娘はこの話を聞きどう判断したのか。それが知りたくて仕方が無かった。

 やがて呼吸を落ち着かせてきた大長老が二人を押しのけるように弱々しい力で離れろと言ってきた。


「話すことは終わった。行け、やつらが来る。ギーゼルヘアに捕まるな……」

「でも、それだと大長老様が」

「わしはもう助からん。代償なのだこれは、それを逆らってはならん。ウェルリーナよ、もう十分だ。そなたのおかげでここまで命をつなぎ止められた、感謝するぞ」

「そんな……当然のことしただけです!」


 感謝するという言葉を受けて、ウェルリーナは顔をほんの少しだけ紅潮させて首を横に振った。

 感謝されるほどの事など一切できていないという思いと、大長老からの礼を受けて喜びの感情が出た結果だ。

 それを聞いて大長老は唇を左右に広げて、実の孫を見るように優しげな瞳を浮かべた。


「そなたの賢く慈しみ深いその行いがさらなる救いをもたらすだろう。だがもう魔力を温存せよ。わしではなくこれから傷つく者達を救うために。さぁ、サフラン、娘を連れて行くのだ。あの方、フレギオン様のもとに」


 ――フレギオン。その名があの水晶玉の中でオークと戦っているダークエルフの名前なのだと二人が気づくのに難しいことではなかった。そして二人が彼の名を忘れるとこはこの日初めて聞いた時より片時も頭から離れることはなかった。

 サフランは大長老に一礼をすると娘の手を引いて一気に祭壇の階段を降りていき、ファッティエット族が入ってきたであろう方角から真逆の方向に走っていった。





 ――どれぐらいの時間を走ったのだろうか。

 サフランに連れられ、大地に置かれた水晶が煌めく道を通り抜け、獣道からも抜け出して、切り立った岩山がそびえる山道に入ったウェルリーナは右足に痛みが走るのを感じ、ふとそんな事を考える。

 日は一度完全に落ちて、また登ったが今はもう沈みそうになっている。つまりほぼ一日は経ったのだ。そのあいだ途中で仲間に出会い今は父親とその仲間を入れて三十人近い人数になっていた。森の中でファッティエット族の追っ手と戦う者を父が救い、ウェルリーナが癒やす。そして逃げるというのをもう十数回はこなした。

 そしてその積み重ねがこの人数になったのだ。

 逃亡している身ということを考えればかなり大人数になる。愚かだと言っても良い人数だ。それではすぐ見つかるぞという言葉が誰かから出てきてもおかしくない状況下にいる。それは疲れた身体でもすぐ分かる。しかし、彼女はそれを言わなかった。いや、彼女だけではなく誰も言おうとしなかった。

 言うのが恐ろしいのではなく、もう生き残った仲間がこれだけなのかもしれないという思いと、まだ出会っていない仲間が一人寂しく逃げているだとすれば救ってやりたい――まだこれだけいるぞと知らせたいと無言で皆が想っていたからに他ならない。

 いまや仲間は一人でも多くのネリストを助けようと行動していた。


 岩山の山道――そこは水晶が掘れることで有名な場所で、空がよく見え、横は大きな崖が奈落のように続く場所である。辺りには木々は少なく、太陽の陽を妨げるものはない。

 そしてこの地下深くにはドワーフ族が自分達の国を作っているという。

 しかしながら彼らはこの辺りの地はダークエルフの縄張りであるということから地上に出てくることはあまりなく、実のところウェルリーナは彼らドワーフを見たのは、幼かった頃のみで、もう数十年近く見てはいない。ゆえに地下に彼らの王国があるのだが地上の鉱物は手つかず残されている。

 しかし出てこないのは縄張りだという理由以外にもあるだろう。それは、戦いに巻き込まれたくないというのが理由だ。地上はダークエルフやオークに人間が周辺に各々の縄張りを構成しており、ドワーフから見ればそれはずいぶん物騒な状況なのだろう。

 それもそのはずだ。彼らは地下に大きな王国を作っており、それは彼らだけのものだ。外敵になるものはおらず言うならば平和な世界なのだ。それを壊してまでわざわざ地上に出てくる必要もない。たまに好奇心で出てくる者はいるだろうが、それをウェルリーナが過去に見たという報告以外には誰の耳にも彼らがこの地に現れたという話は聞かない。


「――なぁおい、みんな! ここらで休憩しようぜ! これ以上走れねぇよ」


 最初に泣き言を言い出したのは父親のサフランと同じぐらいの――ダークエルフでいえば早ければ子がいる年齢、人間で言えば生きている者はいない年齢、おおよそ180歳になる――男だった。

 彼の名はクーヴェス。

 赤茶色の髪は短く整えられていてすっきりとした長さ。ブルーの瞳。髭はなく、細身で祭司の衣であるクリーム色の法衣を身につけている。

 ひ弱な典型的な祭司という印象の人物だ。

 その彼が一番最初に休憩を申し入れた。


「まだここは危険だ。やつらは追いかけてきている、ギーゼルヘアは諦めることがないことは知っているだろう危険すぎる」


 先頭を指揮していたサフランが周りの者を押しのけて、少々渋い表情でクーヴェスの肩に手を乗せて元気を出せと激励する。

 しかしクーヴェスはその場にへたり込んでしまった。


「休まずに一日走っていたんだ、俺はもう無理だ。少しでいい、休ませてくれ。足が棒になっちまう」


 救いを求めるようにクーヴェスがサフランに頼み込むと、彼はやれやれと肩を竦め、そして周りの仲間の表情を一瞥する。

 そこには疲れ切った表情を浮かべる仲間の顔があった。


「みんなも疲れているみたいだな。――ふぅ、仕方ない少し休息を取ろう。夜になったらまた出発だ」

「ありがたい!」


 クーヴェスの肩を二度ほどポンポンと叩いたサフランは、まだ体力が残る者に周りの警戒をしてくれと頼み込んだようだ。そして、一頻り指示を出し終わった彼は、手で日差しを遮りながら空を見上げているウェルリーナのもとに歩いて行く。

 その表情には疲れが見えていた。しかし父にそんな疲れを見せまいと、彼女は普段どおりの微笑みを父親に向けた。

 その娘の努力に父親であるサフランは感嘆の声を上げそうになるがそれを堪える、それは単純な理由で、今なお仲間の何人かが、疲れ果て倒れそうになる仲間を励ましている声が聞こえるからだ。

 正直なところならば褒めたいところだが娘だからと言って褒める訳にはいかず、まして彼女がそれで喜ぶとも思えなかったため、彼はそれをやめた。

 その代わりとして、彼は娘に水が入った水筒を差し出した。


「ありがとう」


 にっこりと笑いながらウェルリーナは父親から水筒を受け取り、飲み口に口をつけて水を飲んでいく。しかし中身の残りはそれほど多くなく、彼女はほんの少しだけ飲んだ後、父親に水筒を返した。

 サフランは近くの岩に腰かけ、周囲を注意深く観察した後、祭壇での出来事で気になっていたことを娘に聞くことにした。


「少しいいか?」

「はい」

「大長老様の話を聞いて、お前はどう思ったのか教えてくれないか。その――フレギオンという名のあのダークエルフのことだ」


 あの話を聞いてからサフランはずっと娘の意見が聞きたかった。どう思ったのか、どう感じたのか、どう行動するか。

 ファッティエット族が攻めてきたために丸一日近く経ってしまったが、ついに聞けたという想い彼の心を満たす。

 ウェルリーナは視線を父から外し、横を向いて少し考えるようにもう一度夕日を見上げ、また父親に視線を戻した。


「――大長老様が言われることに間違いは今までなかったのをお父さんは覚えていますか?」

「あ、ああ。覚えているとも。大長老様がされることに失敗もなかった。しかしだ、お前も聞いただろう? あの男は神器の新しい持ち主であり神に近い存在だと。そんな存在にどう接しろというんだ? ネリストの歴史上で最大の試練の時だと俺は感じてしまう」

「私は……、あの人よりも敵だと分かっているギーゼルヘアのほうが恐ろしいです。あの残忍で狡猾なあの男が。きっと大長老様はもう……」


 これ以上は言えない。そんな態度をウェルリーナは見せ、また少し考えるように黙った。

 そんな娘の答えにサフランはまた感心をする。

 たしかに大長老のことを考えればそれは不謹慎なのだが、娘は思った以上に度胸があるのかもしれない。


(敵と分かっている者か。――たしかにお前の言うとおりだ、明確な殺意を持っているギーゼルヘアのほうが敵かどうかも分からないフレギオンよりもずっと驚異だ。ふふ、なんとも肝っ玉が小さいことだ)


 娘の意見を聞いて自嘲気味に自分自身をあざ笑う。自分は勇敢なほうだと思っていたが、どうやらそうでもなかったようだ。

 敵対関係にない可能性がある者に内心怯えていたのが良い証拠だ。娘のほうがずっと胆力がある。


「ウェルリーナ」


 父に名を呼ばれ、娘は視線を父に向ける。オパール色の瞳が夕日に反射してキラキラと光るようだった。


「お前の言うようにギーゼルヘアは恐ろしい男だ。こうして私達が休養を取ってる間も奴は追ってきていることだろう。正直言って、私は奴に勝てん。出来るのはお前達をできる限り遠くに逃がすことだけだ」


 肩を上下に動かし、ふぅと息を吐き出したサフラン。その動作はまるでこれから戦いに 挑むために気合いを入れているように見える。

 ここで言葉を挟んではいけないとウェルリーナは口を閉ざして父の言葉の続きを待つ。


「夜にはまた出発だとは言ったが、もっと早く出発してもらうことにする。お前の意見で考えが変わった。私も大長老様のご指示に従う。フレギオンにこの事を伝えてどうなるかは分からないがな」


 そう言って唇を僅かに左右に広げたサフランは笑ってるように見えた。だがそれは一瞬の表情で、次の瞬間には気高い獅子が如く雄々しい姿を見せた。いや、そう見えたと言った方が正しいだろう。


「さぁ、休むと言ったそばから出発の合図を出すとなると皆から何を言われるやらだが、なんとか説得するぞ。――私はクーヴェスがいる方面から行く! お前は他の者を頼む」

「はい!」


 身を翻し二人はそれぞれ別の方角に向かって走っていく。サフランは岩をひとっ飛びして、クーヴェスの元に。ウェルリーナは道沿いに走りながら、暫しの休憩を楽しむ仲間のもとに行く。

 もう出発すると聞けばきっと皆は不満の表情を表すことだろう。しかし、生死がかかる今ならば納得してくれるはず。誰も死にたくはないのだから。


 夕日の下、疲れ切ったダークエルフの集団はまた歩を進め出す。同種族のダークエルフからの攻撃を避けるために。

 そして大長老の遺言を聞いた二人は、自分たちを救ってくれるであろうダークエルフに会うために疲れている身体に鞭を打った。

 向かう先はフレギオンが現れた場所すなわち、オーク達が住まうヴォンルチー大森林だ。しかし、彼らはこのとき予想だにしていなかった事態に直面する。

 休ませてくれと最初に頼みを申し入れたクーヴェスが岩石の上に移動して、なんと彼はそこで声を張り上げたのだ。ありったけの大声で彼は――


「俺だクーヴェスだ! 全員ここにいるぞ! ギーゼルヘア聞こえるか! ここに全員だ!!」


  ――それはあまりに非道な裏切り行為であった。

 そしてすぐ背後から獲物を見つけ喚起の声を上げるように雄叫びをあげて迫ってくるファッティエット族のダークエルフが見えてくるのだった。




 さらに一日が経った頃、草原を駆け抜ける二つの影がそこにあった。

 一つは全身を漆黒の鎧で包み込み、その姿を伺うことができない長身の者。腰には太刀が備えられている。しかしそのように全身を鎧で隠しているのにも関わらず、その者の足取りは驚くほどに速かった。鎧の重さなどないように草原を駆けていく。

 その漆黒の鎧の者の前を走るのがもう一つの影。

 その顔は猪の頭、全身を茶色の毛で包み胴体には皮で編まれた鎧を身につけている。それはオークの戦士、ヴァサドールだ。

 かれは後ろにいるフレギオンを先導するように走って行く。そのヴァサドールもまた軽やかな足取りで走っていた。


「さすがはフレギオン様! 我の生涯で虎の如く走れるとは想像もしなかったですぞ!」

「お前がこの魔法のことを教えてくれたからだ。でなきゃ使えなかった」

「いやしかし、我はこのような魔法があるとしか」


 教えなければ使えなかった。それはつまり知らなかったということだ。それを口答だけのやりとりで理解し、まるで蛇口を捻り水を出したかのように、事も無げにやってのけたフレギオンに驚きの声をあげるヴァサドール。

 フレギオンと出会ってから一日と半日の時間しか未だ経っていないが彼は一生分に匹敵するのではないのかという驚きをもらった気がする。

 フレギオンが使ったのは肉体強化の魔法の一つである俊敏性向上の魔法だ。


「言っただろほとんど覚えていなかったと。だがだいぶ思い出したぞ、今ならほぼ魔法はなんでも使える」

「感服します!」


 本当になんでも簡単に言うフレギオン。魔法がほぼ全般を扱える者など見たことがないしあり得ないとヴァサドールは思ったが、これからきっとまだまだ驚く事ばかりだろうと一種の諦めの境地に達してそれ以上なにも言わないことにした。

 それは彼なりの処世術である。


「――おい、あれがそうか?」


 ヌっと真横にフレギオンの顔が――もとからの俊敏性に大きな差があるため、その気になればヴァサドールの数倍の速さでフレギオンは走れるため後方にいたはずが、もう横に並ぶまで追いついていた――現れる。そして彼は前方の森の中の一部から、火が上がってる場所を指さした。


「あれはまだネリスト族の集落どころかファッティエット族の集落でもありませぬが…………」

「だが火が上がってる。あそこで何かが起きた……というのは間違いないんじゃないか?」


 丸一日走って、ようやく手がかかりらしきものを見つけた。そういった感情が声色に乗る。顔は見えないので表情は分からないが、兜から聞こえる声は十分感情がこもってるのが分かる。

 目的地を見つけフレギオンはヴァサドールと自身にさらに魔法をかけた。

 二人は足をさらに早くなりその速度は今や人間が乗る馬の速度に匹敵する速さとなった。


「最後に確認だ。俺をここに呼んだ可能性があるのはネリスト族。そうだな?」

「は、はい!! そうです!」


 フレギオンの速度に追いつくのに必死になるあまり、受け答えをする余裕がなくなってきたヴァサドールだが何とか返事を返した。

 彼らが走ったその後方は雑草が踏み荒らされて、宙に舞う光景ばかりだ。


「ネリスト族らしき者が襲われていた場合、助けた方がいい。そうだな?」

「おそらくは…!!」

「かりにファッティエット族に襲われていた場合どう見分けをつければいい?」

「……ファッティ……は戦士ばかりで…………その、人間でいう山賊のような風貌の…………多い…………」


 その答えは途切れ途切れになりつつあり、徐々に聞こえづらくなっていく。それはもはやヴァサドールがフレギオンの速度で走るのが限界だという証拠だ。

 それと同時にヴァサドールの速度が落ちていく。そうなるとすぐに両者の距離は離れ、みるみるうちにヴァサドールの姿は小さくなっていく。

 フレギオンはそこで足をとめて、彼に向かって魔法を唱えた。


「お前のおかげで助かった。すこし休んで追いついてこい」


 右手の手のひらをオークの戦士に向ける。その手のひらには緑の光が灯り、小さな丸い玉を作り出すとヴァサドールに向かって一直線に飛んでいった。そして彼を包み込みこむと彼の荒くなっていた呼吸が一瞬のうちに正常な速度に戻った。

 それがフレギオンの回復魔法だと知ったヴァサドールは頭を垂れて礼を返す。


「ありがとうございます!」

「俺は先に行く、お前はお前の速度で走ってこい。無理はしなくていい」


 言うやいなやフレギオンは、火が上がる森の中にへと走っていった。その速さはとてもじゃないがオークである彼が真似できるような速度ではなかった。

 共に走っているときにはかなり抑えて走っていたのだとうかがい知れる。

 小さくなっていくフレギオンの姿を見ながらヴァサドールは疲れた顔で小さな呟きを漏らした。


「我らがあの方に会ったことは幸運なのか不幸なのか、誰か教えてくれぬものか――」


 その答えは草原の風に乗って誰にも伝わることなく消え去っていった。

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