そして異世界へ
黒光りに輝く鱗をびっしりと身に宿した二本の頭がある巨大龍は、全身を紅く染め上げて大地に前のめりとなってひれ伏した。あまりの巨大さから土煙が舞い、押しつぶされた草木は紙切れのように薄くなった。主を失った葉は空中をユラユラと舞う。
「おわった……」
疲れた。それが率直な感想であった。それもそうだろう。なにせPT用モンスターであるリベリオスを一人で戦いそして倒したのだから。ある意味疲れて当然だ。
この戦いの間に天狼を三度召喚し出し惜しみせず魔法を使い続けた結果、MPはスッカラカランになっていた。
「なんとか神々の祝福を使わずにすんだけど、問題はこっからだ」
撃破した双頭龍リベリオスはヘドロ状の影となって姿を消していく。そして変わりに現れたのは金色に光っている四角い箱であった。
涼は心臓が大きく高鳴った。金色の箱。これが意味するのはその中身がレアアイテムであるという証拠。
5%という低確率を引くことができるかもしれない。
「無心だ無心。欲を出したら出ないんだこういうのは」
ソロで挑むあたり欲望丸出しなのだがそれはなかったことにして都合の良いように解釈する涼。
意を決して箱を彼は開けた。
開かれた箱の中からは漆黒の鎧一式が現れた。そしてまるで日本刀を思わすような片手剣もその横に入っていた。
太陽の陽の光をあびてそれらは生き生きとした輝きを放つ。長い年月をかけて主を待ち続けていた僕が、悲願を成就し笑顔作ったような輝きだった。
涼はただ静かにその防具と武器を持ち上げて内なる歓喜に震えていた。
「こ、これが闘神ガルデブルークが身につけている神器防具【永遠なる混沌】そして神器武器【永久なる死】」
神器アイテムとはその名のとおり神々が持つアイテムのことを言う。涼が手に入れた神器アイテムもまさにそれの一つだ。
闘神ガルデブルークは戦いの神であり、その本質は混沌を望むモノというバックグランドが存在する。そしてそれに、ちなんだ武器防具の名前が名付けられている。
ただそれはバックグランドでの話で、防具や武器の性能を追求するプレイヤーには大した意味はないだろう。涼はどちらかと言えばバックグランドも気にするタイプではあるが、神器防具と武器を手に入れたことで興奮でそれどころではない。
「は、ハハッ、やったぜ! マジの神器だよ! うおおおぉぉぉしゃああぁぁぁ!!!」
このために今までやってきたんだ。ついに手に入れたんだ。
そんな思いが次々とこみ上げてきては消えていってまたこみ上がってくる。涼は興奮で体温が上がっていくのを感じながら、もう一度【永遠なる混沌】を眺める。
漆で塗ったような光沢のある黒の塗装の鎧には余計な装飾はなく比較的質素ではある。胸から腹にかけてはツルツルの仕上がりになっていて、肩に数センチの小さな鈎爪状の尖った突起物があるだけだ。籠手は完全に手を隠すタイプでありこちらも装飾というものは何もない。ただレガースには膝部分に魔獣の角が備え付けつけられていて空に向かって反り返っている。兜にも同じことが言えた。こちらも完全に顔を隠す鉄仮面タイプの兜であり、頭部分にはレガースのそれよりも遙かに太い二本の角が頭上から少々兜部分をはみ出しながら天高くそびえ立っていた。
全身を覆うタイプのこの装備を身につければ中身の種族は分からなくなるであろう。気合いをいれてキャラメイクした涼にしてみればほんの少し残念な気持ちがあったがそれもすぐに消えていき、【永遠なる混沌】を装備する決心がつく。
「これで俺も神器武具を持つプレイヤーの仲間入りか。レグゼンさん喜んでくれるかな」
涼が世話になっているギルドの長を務めるプレイヤーのことをふと考えた。
今回のこのリベリオス戦でのアドバイスをくれたのは他でもない彼であり、ある意味で師匠とも呼ぶべき人である。彼のおかげで勝てたようなものなのだから、この神器アイテムが手に入った事を報告する一番最初の人はマスターにしようと思っていた。
涼は【永久なる死】を右手に装備し、先ほどまで使っていた伝説防具たちを装備ポーチの中にいれる。もう当分の間使うことがない防具たちであるが、リベリオスを倒すために購入した防具だ。愛着も既についたためしばらくは持ち運びしようと思う。気分転換に装備も出来るため悪いことはないだろう。
神器武具を装備し、見た目を完全に闘神ガルデブルークに変えた涼はやや高揚しながら個人チャット欄を開いた。もちろん送信先はギルドマスターである。
「レグゼンさん! 俺やりましたよ、リベリオス倒して【永遠なる混沌】と【永久なる死】手に入れることができました!」
「おお、おめでとう! さすがフレギオンさんだ。勝ってくるって思ってたよ。しかもリアルラックもあったみたいでなによりだ」
「いえいえ、レグゼンさんのおかげですよ。立ち回りとか聞いてなかったら負けてました」
「いやーあんな説明で申し訳ないぐらいだったんだけどね。いやはやおめでとう。今日はフレギオンさんが初の神器アイテムを手に入れたってことで祝賀パーティ開催決定だ! みんなにも伝えてあとでやろう!」
「うはっ。わざわざありがとうございます。すぐいきますね!」
「集まるまでに少し時間がかかるだろうから、そんなに急がなくてもいいよ。主役は一番最後に来てもらわないとね」
「了解です! んじゃちょっと試しに何か倒してきてからいきますね」
「うんうん。あ、ギルドチャットで先にみんなにも伝えておくと良いね」
「いまからしますねー」
レグゼンとのチャットを終えた後、涼はすぐにギルドチャットを開く。さきほどのやり方と同じように神器武具を手に入れたと書き込んだあと数十秒後にはおめでとうの祝福の言葉の嵐が巻き起こった。
「やったな!」
「先を越されちゃった」
「俺も追いつく。今からリベリオスと戦う」
「用意できてないのに無茶だよ。フレギオンさんおめでと!」
「おめでとう! でもこれで俺のサブマスターの座が危うくなった……、冗談だ本気にするなよ? あとでみせてくれ」
「おめでとうございます! もうフレギオンさんほぼ最強状態に近いんじゃないですか?」
メンバーからの祝辞のチャットが飛び交う中、ギルドメンバーの中でも一番年が若いプレイヤーから質問が届く。
涼は少し考えた。確かにこの武具の特殊効果を考えれば特定の状況下において最強になれるだけの力があるのは間違いない。全ての職業をレベル100にしてそれらで得られるスキルポイントをどの職業でも適用される常時能力アップのスキルに振り分けてきたため、、キャラデータの強さを見ても相当な力を得ている。同じく職業を全て100にしたプレイヤーがいたとしても、能力はおそらく涼のキャラのほうが強いだろう。ただし、召喚士のスキルに関しては召喚スキルにばかり振ってしまったのでそこで能力の差が出るかもしれないが、その代償として先ほど使った天狼を出せるのだ。だいたいの敵には負けることはないだろう。
さらに神器武具のステータスアップの効果も考慮すればおおよその結果は判断できる。が、涼は否定の言葉を書いた。
「たしかに【永遠なる混沌】には装備者のレベルより10レベル下の敵の攻撃を9割カットできる効果があるので、それぐらいの差があるモンスターには負けないと思います。でも、ダメージは負いますし、特殊効果アイテム……例えばフィールド変化アイテムの、防具腐食効果のある【腐敗の砂塵】とかを使われたらこの特殊効果は軽減されますし、最強とは言い切れないですね」
とは言うものの最高レベルが100のフレギオンならば相手が90以上にしなくては太刀打ちでできない上に、この差が10未満5以上ならば魔法物理全てのダメージを7割カットするという効果は発動する。よって数値だけ見れば【永遠なる混沌】を装備したフレギオンに対抗できるプレイヤーは総多くはないだろう。最強とは言わないでもはっきりと頷けるだけのアドバンテージはある。
ただ楽観視するのは先ほども言ったように早い。
涼と同じようにソロでリベリオスを倒したプレイヤーは他にも数多くいるだろうし、【永遠なる混沌】と【永久なる死】を手に入れた者もいるだろうからだ。
仮定の話として神器武具を手にした同レベル帯の相手とプレイヤーVSプレイヤーの戦いになってしまった場合アドバンテージは無くなるし、この相手に勝つにはどうしても知識が必要になってくる。こうなると情報戦になるわけで、神器武具を初めて手に入れただけの涼では立ち回りなどの理解不足で不利になることは火を見るより明らかだ。さらに言えば、他の神器武具も出てきた場合対処など出来はしない。
それでも勝てたとするならば、【神々の祝福】を使うことになる可能性が非常に高い。それは涼としては望むものではない。まるで博打のような戦いにになるし、彼自身は博打事は好きでは無い。
「それに俺自身が最強になったとしても、あんまりプレイヤーVSプレイヤーはしたくないんで」
これが一番の本音だ。もともとこのゲームをやっている理由は自分好みのキャラメイクが作れるキャラクタークリエイトの豊富なパーツに惹かれたのと、魔族の英雄みたいなロールプレイをするためにやってるわけで対人戦にはほぼ興味はない。もしプレイヤーVSプレイヤーをすることになった場合は理由はたった一つだろう。
「ただ。前にも言いましたけどうちの誰かが襲われたら仕返しはしますよ。そのときは遠慮なく相手を倒します」
「頼もしいねぇ。俺みたいなおっちゃんには涙がちょちょ切れる話だ」
「その神器級武具の効果考えたらフレギオンさんにぴったりですね!」
反応が返ってきた二人から男前だーなんて言われながら、涼は満更でもない気分になりつつそんなことは無いですよと返事を書こうとする。
その時、レグゼンがチャットに入ってきた。
その内容は先ほど二人で話していた内容だった。
「そこでなんだけど、フレギオンさんのためにお祝いパーティを開こうと思うんだけど、みんなはどうかな? 1時間ほど後に全員集合できそうかい?」
「お、いいねー! ちょっとレベル上げしてから行くわー」
「同じくレベ上げしたらいきますね」
「ういっす、今からボス戦だけど1時間もあれば余裕だ」
「私は今からすこし出かけるので、少し遅れるかもしれません」
次々にチャットの返事があれよあれよと返ってくる。そのほとんどは参加可能のありがたい返事ばかりでその人数は28人にも達した。ギルドメンバーが全員で36人のため実にアクティブなメンバーが多いギルドだと言える。
28人の出席を確認したギルドマスター、レグゼンは最後に全員に向けて締めくくりの言葉を打ち込んできた。
「フレギオンさんよかったね。これは徹夜コースだ! みんな楽しもう!」
まるでリアルでの知り合いが今晩パーティを行うようなテンションでレグゼンは締めの言葉を書いた。
実際のところは会ったことはなく顔も分からない面々であるが、ギルドメンバー間の仲は非常に良好な状態を保っている。それもこれも、それぞれのプレイスタイルとギルドが掲げる目的が上手くマッチングしてるからだろう。
基本的にはプレイヤーを襲ったり対人戦を仕掛ける面々はおらず、相手側から仕掛けられた場合に限り応戦するというプレイスタイルがギルド内の和やかなムードを作っているのだろう。そのおかげで殺気立った会話もなく、これが好材料として機能しているのは間違いない。所謂、平和主義のギルドだと周囲には認知されている。また周囲の認知をこのように獲得すれば、襲われることもあまりなく対人戦を挑まれることも少ない。嫌な思いをすることも少ないということだ。
対人戦メインのプレイヤーにはぬるいという印象があるだろうが、当の本人達は満足しているため何ら問題もない。
メンバーの数に軽い歓喜の渦の波が押し寄せてきた涼は誤字をしないように気をつけながらキーボードで感謝の文字を打った。
「皆さんありがとうございます! その時はみんなでいろいろ行きましょう。俺、ほんと嬉しいです」
打ち終わった後チャット画面を閉じる。パーティは1時間後だ、まだまだ時間はある。夜はパーティという名のモンスター狩りをすることになるだろうから消費してしまった回復アイテムや補助アイテムを買い直しておかなくては――涼は、リベリオス戦で失ったアイテムとMPを回復するため一旦宿屋に戻ることにした。
MPはほぼなく上級魔法を数発使えばなくなってしまうだろう。そんな状態で長時間ぼけっとしておくのは危険だ。いつ何が起きるか分からないし、不測の事態が起きた時の対処について現時点では選択肢が少なすぎる。考えるまでもなく宿屋に戻って全回復をするのが良い。
「近くの町はたしかミラーザだったような……」
手際よく手を動かし全体マップが載っている地図表を開く。涼は地図を注意深く見やる。フレギオンがいるマップから直近となる街にいくための最短ルートを探すためだ。
この作業はすぐに終わった。
「ここあんまり来たことないから道分からないって思ったけど、なんだ簡単じゃん。ほぼ南にまっすぐか」
道そのものはそこまで難しくなかった。むしろ非常に単純なルートだった。ただひたすら遠いというのが難点だったが。
「ここのIDってなんで入った場所と違う場所に出すんだろう。ランダム性追求するのはIDだけでクリア後までもランダムになんかしなくていいのに」
なんでも入り口と出口を同じにするとその場所にプレイヤーが集合しすぎてサーバーに負荷がかかるため、それを防ぐ狙いがあるらしいのだが。
「正直、どこに飛ばされるか分からない仕様はありがたくないよ」
でもま、今日はあまり文句言わないでおこう。涼はそんなことを口ずさみながらミラーザの街に向かうためにフレギオンを走らせる。
「――え? ……なんだ……」
だがフレギオンが走り出した瞬間ゲーム画面が砂嵐が起こったようにノイズだらけとなった。慌てて涼はパソコンとモニターの様子を見ようとすると、続けて脳がズキリと痛むような、それでいて頭の中には赤ん坊が金切り声を上げるかのような絶叫に似た音が鳴り響いていた。
「……っ! ぐっ!」
車が急ブレーキをかけた時にタイヤと地面が擦れる音に近い甲高い音が鼓膜の中で鳴り響き出す。 それも鼓膜内で車が急停止したのかと錯覚してしまうほど大きな音で。
おもわず涼は声にならない絶叫を上げたが、それは一向に鳴り止むことはなく次第に意識は混濁していきやがて――
「う、うあああああぁぁっっ!」
痛みは到底耐えきれないほどの激痛となって涼の意識を根こそぎ奪うかのように脳内を暴れまくってきた。そして、激痛の前に膝を屈するように――まるで操り人形の糸が切れたようにプツリと涼は意識を失った。
――それはひどく奇妙な光景だった。
分かりやすく簡潔に説明をしろと言われても出来ないだろう。ただ頭の中から必死で単語を探し出して、いま起きた光景を口にするならば可能かもしれない。とにかく男――頭部には猪の顔。一降りで丸太をたたき割れるほどの筋骨隆々の体躯をもち茶色の体毛で身体を覆っている。手の指は5本あるが足の指は3本しかない――の目の前で起きた現象は彼が生きてきた時間のどの記憶のなかにも存在していないというのは確かだ。男は茂みを隠れ蓑にして、目の前で起きた出来事とそしてあのナニカを観察した。
そこは年がら年中深い霧が発生し、黒い葉を生やした木々が鬱蒼と多い茂る森林で昼間でさえ太陽の陽を浴びることは少ない。深夜になれば人食い蝙蝠タイプのモンスターが現れナワバリを周回をしながらキィキィと鳴いている。彼らは一個体としては弱き生物であるが、闇夜に不慣れな人間は彼らを極度に嫌がる。たとえ光系魔法で周囲を照らすことができる灯火の魔法を使っていても嫌う傾向にあるのが人間だ。男としては知能をほぼ有していない彼らのことを軽蔑すらしていたが、人間はそんな彼らを嫌う。
今日は満月の日のため多少は霧が薄れており辺りは見えやすいが人間は此処にくることはまずない。だが、男の目の前にはそのありえない事がまさしく眼前で起きていた。
「あれは人間か……? いやあれは」
石すらも押しつぶす万力の力を持つ両拳。それに力を入れて先が三つ叉に分かれた鉄の槍の柄をぎゅっと握りしめた。牙を少し口から出し緊張した面立ちになった。
「人ではない。では魔族か」
そうだ。あれは人ではない、人の姿に酷似しているが人ではない。ではなんだ? 魔族にも見えるが。魔族にしては人間に近すぎる容姿をしている。性別は男だろうか。女ではないと思うが。
しかし現時点でその答えは彼の頭では出すことはできなかった。
そしてもう一つ分からないこともある。アレは人間の巫女達が使う召喚術に似た魔法陣から出現したことだ。それもただの召喚術ではない。普通ならば魔法陣が出現してそこから呼び出された精霊または天使そして魔物が現れるはずなのに、アレは魔法陣などない場所でそれもただの森林地帯のまっただ中の空間を歪ませて現れたのだ。
もしかすれば召喚士がいるかもしれないと男は考えて周りを見渡してみたが周辺には召喚術を使ったそれらしき人物はおらず、いるとすればあの魔族のみ。召喚士なくして召喚魔法は使えないのが常識であり、もしアレが己をここに出現させるために自分を召喚させたというのならこれは召喚術の理を無視しており――男の知識では――考えられない出来事だった。
得体の知れない生命体、男はアレをそう認識して身構える。全身の体毛が汗で濡れていくのが分かった。
「恐れるな、やつは丸腰だ」
召喚された拍子に身につけていた装備が飛び散ったのだろう。アレの近くに剣や兜が無造作に散らばっていて奴は丸腰だ、ただこれも不思議なことなのだが、アレはそれを気にとめた様子もなくただただ天を見つめているばかり。これを見て何をしているのか分かる者がいるならば教えてくれと一人心の中で思う。
よく見れば装備品を身につけていないアレはかなりの筋肉質な体つきをしていて、その身体は木像などから作り出したような人工的な筋肉の付き方をしている。
だが彼の身体はアレを遙かに上回る造形で渾身の力で殴るか槍で突き刺せば、いとも簡単に倒せる気がする。
ただ男は言いしれぬ恐怖感を感じていた。足が震え、手が震え、少しでも気を抜けば目眩がしそうだった。
「なぜ恐れる必要がある。相手は丸腰、このままでは一族の恥となるぞ」
叱咤激励するがやはり震えは止まらない。人間達そして魔族と戦う時は恐れもしなかった自分が何をこうも恐れているのかと自問自答したくなる。相手は丸腰でこちらに気づいていないのだ。そう、アレはここに現れてからずっと空を見上げているだけなのに。
それなのに恐れを感じるのは何故か。得体の知れないモノのように感じるからだろうか。だが、武器を握りしめた時、心の中に残るのは恐怖心ではなく彼ら一族特有の特徴が現れた。
皆はそれをこう呼ぶ。
――闘気と。
「この地は我が一族のもの。侵入者を何人たりとも許さぬ!」
雄々しく立ち上がり、両手に槍を携えて男は人間とも魔族ともつかないアレに向かって一気呵成に突撃する。高い湿度により湿っている地面は苔が生え聳えていて力強く走れば足の裏にまとわりついてくる。この森が故郷の男としてはもはやこれは慣れたものだ。人間で言えば靴のようなものだろう。
しかし初めてここに足を踏み入れた魔族や人間はこれが不愉快だと言っていた。とくにエルフがよくそう言っていた気がする。
気づけばこの場所にいたという表現がピッタリだろう。この湿度の高いジメっとした空気が頬に纏わり付き不快指数は徐々に高まっていく。時間は夜だろうか。近くで蝙蝠の鳴き声が聞こえてくる。しかし不思議なことに暗さを感じることはなかった。周囲の景色はよく見える。
ただ困ったことに自分が誰なのか全く思い出せない。さらにここがどこなのかも分からないときた。ただ少しだけ分かるのは自分はこの場所を知らないという感覚と、どこか別の場所で暮らしていたという感覚だ。
自分は混乱しているのかもしれない。だからすこし考えれば思い出せるかもと思い天を仰ぎ思考のまっただ中に入り込こもうとした。
そうして脳内で現状を把握しようと努めていた矢先。なにやら大きな声が横からあがり、ふと見れば――猪頭の魔物が数メートル先の茂みから雄叫びをあげて飛び出してくるのが見えてきた。
手には二足歩行でこちらに突進してくる猪頭の怪物よりも大きな槍があり、今にもそれで刺してこようとしているのが分かった。
しかし焦ることはなかった。全くと言って危機感を感じなかったからだ。
自分の認識としては、醜い顔と醜悪な身体をした猪が唾を撒き散らせて、それはとてもノロい足でこちらに来ているというぐらいだ。三つ叉の槍で刺されればたしかに脅威になるかもしれないが、自分の視界にはあれで刺されるというビジョンは見えない。
余裕すら自分自身に感じた彼は自身の姿をチラりと見る。
衣服類などは着用しておらず、彫刻で掘られたような人工的に作られたような端正な筋肉が全身を覆い、筋肉の鎧とも言うべき体つきをしているのが分かる。無駄なくついている筋肉に多少の違和感を感じた。こんな筋肉の付き方がするものだろうかと。
そしてついに眼前に迫った醜い猪男。
猪男は得意げに三つ叉の槍をブレ一つ無い突きで放ってくる。
「くらえ!」
槍は彼が動くよりも早く放たれていたがその動きは緩慢そのものであり、上体を反らして避けることに大した支障はなかった。
板のように真っ直ぐ上半身を反らした彼の身体には槍は当たることはなく、ただ風を切ったのみ。
眼前には三つ叉の先があり、それを邪魔だと感じた彼は右拳に力を入れれて握り拳を作った。そしてそのまま裏拳の要領で槍を殴りつければ、槍は衝撃を吸収しきれず三つ叉の切っ先は粉々になって吹き飛んでいった。同時に衝撃は持ち手であった猪頭の魔物にも伝わったようで盛大に横に吹き飛んでいき地面をゴロゴロと転がっていく。
「え?」
これにはやった本人も驚きを隠せない。ただ本当に邪魔だと感じたから殴っただけなのに……と。
だがそれ以上に驚いたのはやはり猪頭の魔物であった。
「ばかな……そんなばかな! こんな……」
しかし猪頭の魔物はそれ以上何も言わなかった。地面に手をつきぐっと力を入れて立ち上がると、大きな口を開いて――
「ブヒィィィィィィィィィ!」
突如、ありったけの声量で悲鳴にも似た甲高い声を発した。
その声は地面が揺れるほどの大きな声で男の身体も振動で揺れたほどだった。だが男はそれに怯まず、猪頭の魔物のでっぷりと出た腹を蹴り上げて、一呼吸もおかずに首根っこを右手で鷲づかみした。そのまま自身の数倍は重そうな猪頭の魔物の身体を片手一本で持ち上げていく。
「今の声はなんだ? なにをした? ここはどこだ? お前は一体なんだ? なぜ襲ってきた?」
猪頭の魔物にたいして生理的嫌悪感を覚えながらも男は矢継ぎ早に質問する。聞かなくてはならないことが多すぎる。そしてなによりもこの魔物に思考の邪魔をさせられたのだ。その代償はもらっていいだろう。というより、もらうしかない。
だが猪頭の魔物からは汚い唾液と、何も答える気はないという意思表示の眼光だけだった。
「答える気はない?」
「ぐぅっっ……、この匂いキサマまさか……ダークエルフか?」
「?」
いきなりこいつはなにをおかしなことを言ってくるのだ。そんなことを思ったが、記憶が欠落してしまった彼にはどんな情報も大事だ。偉そうに情報の取捨選択をできる立場ではない。
この猪頭がそう言うならそうなのだろう。もっとも自分の顔を確認出来ていないため半分も信じてないが。
ただこの猪頭にはもっと喋らせた方が良いという結論には達することが出来た。
手の力を緩め、猪頭が呼吸しやすいように声が出やすいようにしてやる。もっとも反抗するようならそれ相応の対応に出るつもりだが。
「こんなことをしてただで済むと思っているのか。これは立派な進入行為だぞ」
猪頭は男の力が緩んだのを知るや否や、機会訪れたりとばかりに体を左右に振って大暴れする。そして男の正体がダークエルフだと知った事で強気になったようにも見受けられた。
しかし力を緩めたとは言えこんなことでこの猪頭の首根っこを離すようなことはしない。知りたい情報はまだまだ大量にある。
「一つ質問だ。さっきあの声で何をした?」
「ふんっ、知れたことか。キサマは破滅するぞ、ここにもうじき我が同胞達がやってくる。我を救いにくるためにな。それが我がオーク一族の結束だ」
猪頭は得意気に自分はオークであることを打ち明けた。
あまりの饒舌ぶりに男は多少面を食らったような気分になるが、これはありがたいと内心喜ぶ。
オークというのは種族名だ。猪の頭をした二足歩行で歩く獣人の魔族である。それが目の前に居て俺は今そいつと戦っているのだ。ふと欠落した記憶の一部がパズルピースのようにカチリと付けられたような気分になった。
正直、幸先が良いように感じた。このオークはよく喋るようだし、すこし泳がせればもっと情報が聞き出せるよう気がする。
男はオークを乱暴に地面に叩きつけて、その上に覆い被さるように上に乗る。理由は分からないが自分の力はこのオークの力を軽く凌駕しているようだ。上に乗ったあともう一度首を絞めながら、左手で肩を押さえつけて立ち上がってこれないようにする。
実は男は少し混乱していた。このオークは自分をダークエルフだと言っていたが、しかしダークエルフならば力はオークのほうが圧倒的に強いはず、だがこうして上になっているのは他でもないダークエルフの自分なのだ。記憶による知識と現実がかみ合わない。というよりもそもそも自分がダークエルフなのだということも実感はあまりないのだが。
さっきは勇猛なオークであるのを示すためあえて言ったが、それはこのオークが恐怖心でパニックになりかけていたのを隠すためだった。顔を紅く染め上がるまで全身に力を入れたが体はビクともせず、それならばと両手でダークエルフの脇腹を殴りつけたがこのダークエルフは眉一つ動かさない。
ありえない。その言葉がまた脳裏に浮かぶ。
なぜダークエルフにこうも圧倒されているのだと。本来ダークエルフは魔法を主体にして戦うため、こと肉弾戦をすればオークである自分が負けるはずはないのではないのかと。彼の知る知識で彼より力が強いダークエルフはあの部族の長しかいないが、それでもここまで圧倒されることはないはずだ。
しかしその常識は全くと言って通用しないではないか。何故だ。なんなのだこのダークエルフは? さきほどから感じる不気味さはこれが証拠か?
こんな思いがよぎっては消えていく。
両者は奇しくもほぼ同じ事を疑問に感じていたのだ。
「ブヒィィィィィィ!」
「ブヒヒィイイイィィ」
「ん?」
豚のような鳴き声が森のあちらこちらから聞こえてくる――おそらくこのオークが言った仲間たちであろう。その声は徐々にこちらに近づいてくる。その数、数十といったところか。
眼下で鼻息荒く暴れているオークと同じぐらいの強さなら恐らく何のこともなく倒せるだろう。本気で殴ればそれだけで一頭は倒せる気がする。
仲間が来たことを悟ったオークはさらに激しく暴れ出す。地面にひかれた苔の絨毯はそれだけで空中に飛び散り霧散していった。
飛び散った苔のかけらが男の眼にあたりそれを顔を振って吹き飛ばした。問題は仲間のオークがこいつよりも強いかということだ。それが何十と来たのだとしたら厄介な事になる。
「全く。問題だらけだ」
心中の声が口から洩れる。それを聞いたオークがさらに勢いをつけて吠えた。
「怖じ気づいたかダークエルフよ! 我に手を出した事を悔やんでも今更もう遅いわ!」
高らかに声を抗える眼下のオークを見据え、男がギラリと眼光を尖らせた。
こいつはさっきからどの口でそれを言うのだ。男は呆れるように肩を竦めた。低脳すぎではないか? そっちから攻撃しといて何が悔やむだ。支離滅裂にも程があるぞ、と。
金色のダイヤをそのまま瞳に押し込んだような、生気のない金色の眼が一際厳しくなった。それは人間が作る人形のようにも見えるし、もっと邪悪なものにも見える。オークは背筋にゾッとした悪寒が走ったのを感じて身震いした。
「自分の状況を見て言ってるのか? 攻撃してきたのはお前からだぞ分かっているのか」
生殺与奪の権利を持っているのは俺のほうだ。そう男はオークに宣言した。この場で、オークは男に対抗出来ない状況であることをはっきりと知らしめておかねばならないと判断したからだ。
もっとも殺す気はない。いまこの状況をきちんと知るための手立てはこのオークか此処にやってくるオークの群れぐらいしかない。そんな状況でこのオークを殺せば、助けに来た仲間達は怒るであろうし激怒したオークらから情報を入手するのは難しくなる。下手な行動には出ない方が無難だ。そのためただの脅しでもあった。
オークはぐぅと一声唸った後暴れるのも止めた。どうやら抵抗しても無駄だと判断したのようだ。
(あるいは仲間達が到着した瞬間に動き出す作戦か)
それは十分に考えられる。いま殺される可能性は低いと判断して休みを取りだしたか、何か奥の手を使う気なのかもしれない。
だがやはり不思議なことに男は危機感を感じなかった。勝つ自信があるというわけではない。だが、負けることはないという安心感があった。
しかし正直なところ戦うことにならないならば、それに勝る展開はない。それを一番望んでいた。
仲間のオーク達はそれから数分も経たずに現れた。
その数は二十頭。全員が眼をかつと見開き、口をぶるぶると震わせている。さらに全員が同じタイプの鉄で作られた大きな三つ叉の槍を手にしており殺気を滾らせてこちらを睨みつけていた。
オークの顔の違いなど全く分からないが、どうやら中央にいるオークがボスなのだろうと判断は簡単についた。
そのオークだけ周りに立ち並ぶオークよりもずっと装備が良いのだ。他のオークは皆、鉄の胸当てを一枚身につけているだけで他は無防備なのに対して、そのオークは腕も足も上半身も完全に覆うことが出来る真っ白な甲冑を身につけていて、弱点になるような箇所は顔のみで他は全て鎧で隠していた。
オーク社会において彼あるいは彼女が上位者なのは一目で分かった。
「我が同胞に手を出した行為、どう償ってもらおうかのう。若きダークエルフの者よ」
リーダーと思しきオークはそれは烈火の如く怒っているように体を震わせ、持っていた槍を地面に叩きつけて威嚇してきた。それに追従するように一斉に周りのオーク達も槍を地面に叩きつけて威嚇行動を取る。それは街を行進するサーカスの劇団のように規則正しい旋律を奏でている。
だが綺麗な音ではない。良くも悪くもただ規則正しいだけで、一言やかましいと言えばその言葉で片付けられそうだ。ただし、奏でているのが醜い猪頭の化け物でなければもっと違った印象を受けたかも知れない。
男は未だ下敷きにしているオークの上から降りた。一応、対話を求めてみるつもりだったからだ。見ている感じでは全く取り合いそうに見えないが。
それとあのリーダー格のオークは男だろうと判断しておいた。
「まて、俺には戦う意思はない。それよりも話がしたい、聞いてくれないか?」
出来るだけ丁寧にこちらの意思は明確に相手に伝えようと努力する。両手には武器はなく、丸腰でいるのもアピールするため両手を広げた。
オーク達は驚いたように目を見開き、互いの仲間達と視線を交わす。威嚇は止み、森に静寂が戻った。こちらの様子を伺っているな、そう男は思った。
オーク達は判断がつかずにいるためこちらの出方を待っていると。しかし一頭のオークによってその静寂は壊される。
「何を話すというのだダークエルフ。同胞を襲い、森に侵入したキサマと話すことなど無い。キサマはここで死ぬのだ。それが償いだ」
言ってきたのはリーダー格のオークではなく、その横に立っていたオークだった。位置を考えれば側近なのかもしれない。が、ここはリーダーが発言するところだろうと、お前が発言する時ではないと告げたくなるのを我慢し、代わりにオークが言ってきた言葉の中に確実に認められない過ちがあるのを教えてやる。
「先に襲ってきたのはこのオークだ。俺は何もしていない。憶測で物事を決めつけない方がいいぞ。短気は損だ」
言ってから、あっ、と内心後悔する。カチンときたものだから皮肉ったもののこれでは相手を怒らせるだけで、得策ではなかったと。
だがいまさらそれを言っても後の祭りだろう。男は、はぁっと息を吐いた。どう転ぶかはあのリーダー格のオークの判断に任せよう。最悪戦う事もありえるだろう。
その時、先ほどまで男に組み敷かれていたオークが一言喋った。長時間首を絞められていたせいか、呼吸するのも辛そうにしていた。
「こ、この男の言ったことは本当だ。だがこの男は、はぁ……はぁ、侵入者なのも間違いない……。気をつけろ、こいつは何かおかしい」
その言葉はどちら側よりとも判断がつかない、言うならば中立的なものの言いに聞こえる。しかしどちらかと言えばオーク側よりだろう。
男は他のオーク達の反応を待った。何人かは槍をギュと持ち、臨戦態勢に入っているように見えた。しかし全員ではない。リーダー格のオークはこちらとそばで倒れているオークのことを交互に見ているのが分かる。その表情を見ても心の内は見えないが、よりいっそう警戒心を強めた様な気がする。
その時月の光が森の中に差し込まれ自分の周りが照らされた。元より見えていた森の景色がさらによく分かるようになり、ふと視界に収まったものがあった。それはオークの近くに無造作に転がっている、一つの小さなコインをぶら下げたネックレスだった。なぜ今まで気づかなかったのかと不思議に思うぐらい近くにそれは転がっていた。
時間にしてほんの0コンマ数秒だろう。それをどこかで見たことがあるような不思議な気分になった。錯覚か? とも思ったがどうやらそうではないらしい。過去にあのネックレスを手にしていたような記憶が蘇ってきたのだ。もしあれが記憶どおりのものであれば重要な情報源になる。
オーク達の様子を伺いながら男はそれを拾った。
(たしかこれ、コインの部分に名前が書かれていたはず)
銀のチェーンに繋がれた金のコイン。それを左手で拾い上げ、コインが手のひらのほうに来るようにジャララと音を立たせながら回す。チェーンはグルグルと回されコインは男の手のひらにたどり着いた。
オーク達が訝しげに見てきているのに気づいたが、今はオーク達がどのように動こうとも、男の中での優先順位は、このコインに彫られている文字を確認することのほうが高くなっていた。手のひらに乗せた純金で出来たコインはずっしりとしており厚みある重さを感じる。男は記憶どおりコインの裏側をのぞき込んだ。
そこには確かに名前が彫られていた。おそらく、いやほぼ確実に、それが彼自身の名前であると確信する。何故ならばその名前で書かれた字は彼がかつてよく目にしてきた文字で彫られた代物であるからだ。記憶の一部は蘇っていないが、この言語は読めるし懐かしさと親しみも感じる、微かな記憶に、これを彫ったのは自分で、それも満面の笑みを浮かべて彫った記憶がある。
ただ、その光景は自分の手で彫ったのではなく何かを隔てて彫った――実際には書いたという感じの記憶なのだが。そのコインの裏側にはこう書かれていた。
――フレギオン、と。
(フレギオン……、やっぱりか、やっぱりこの名か。ダークエルフ、なるほどたしかにフレギオンならダークエルフだ。でもなんだ……この違和感は)
名を読み、オークが自分に言っていた、ダークエルフか? という問いに対して納得がいった。半信半疑だったがそれも解消された。それと同時にさらなる疑問も生んだが。
だがその違和感を考える時間は今ではない。
「まことか? 本当に丸腰のそやつに敗れたのか? そなたが?」
沈黙をやぶりあのリーダー格のオークが多少の驚きが入り交じった声色で問いかける。その声と同時に他のオーク達が「オー!」と声をあげて武器を掲げ今や襲いかかろうと体勢を作り出した。場の空気が一気に高まる。
「まて、皆落ち着け! 落ち着くのだ」
「族長なぜ止める。奴は侵入者、掟にそって…」
「落ち着け、我の命に従え」
槍を力強く地面に叩きつけて行動を制止させるリーダーと思しきオーク。どうやら、彼はこのオーク達のボスであるのは間違いなさそうだ。族長の言葉により熱気を帯びたオーク達の周辺は温度が下がったような気がする。
押し黙った周りのオーク達はしかし、フレギオンを嫌悪の眼差しで睨み付けるのを忘れなかった。
「掟に従えばキサマは一族の手で処刑するところだ。だがキサマは一人、武器も持っていない。武器を持たないモノに戦士全員でかかるのは卑怯者の行い。我が相手をしよう」
「俺は話をしたいと言ったつもりだったんだがな」
「我はこの者たちの長。仲間が倒されたの知って、引くことはできない。ただし我のみが相手をするのは約束しよう」
「そうか……。どうしてもやるのか」
たぶんこれは回避できない戦いだろう。どう説得しても無理に違いない、そうフレギオンは感じた。
ため息が吐き出る。なぜこうなったのか、どうしてこんな状況にいるのだろうと考える。
本当の自分ではないと感じるこの肉体はなんなのだろうかと、だがフレギオンというダークエルフのことははっきり自分だと認識しているから余計にややこしくなる。自分ではないと感じながら、自分であると思うこのダークエルフを理解する自分。そして、さきほどの戦いで分かったのはこの身体はたぶんだが、力を全く出さずしてあのオークに勝ててしまうだろうということ。それは戦いに慣れているからとかそんな次元の話ではなく、言うならば、生まれたての赤ん坊が恐竜と戦おうとしているというぐらいに歴然した差があり戦う必要などない。答えは何億分に割ってもひとつしかない。そんな差があるのだ。なぜそんな差があるのかすらも分からないが、肉体の持ち主である自分自身には本能とも言うべき何かで分かった
だが、なぜこれらをフレギオンは理解しているのか理解できていないため、答えを見つけるために頭がオーバーヒートしそうだった。
(頭がいたい。なんでこんなことに……。あぁ、そうだよな。待ってはくれないよな)
前方を見れば準備万全整ったぞと言わんばかりにオークが息を荒らげている。その身体には闘気が纏われていて、薄赤い炎を彷彿とさせる光がゆらゆらと燃え上がるように出ていた。
両腕は筋肉で一回り以上太くなっている。フレギオンの腕周りの大きさを比べれば、一般人と格闘家並の差があるだろう。胸筋も筋肉が隆起しており鎧が邪魔だと言いたげに自己主張している。
(あの闘気は魔法耐性強化タイプか。なるほど、打撃戦はオークだからおてのものということだな。弱点を補うのに良い闘気だ)
オークが身に纏った闘気を見て、彼は瞬時にあれが何か推測する。そして彼は苦笑いを浮かべるのをぐっと噛み殺した。
(こういう情報は覚えているのか、俺のことは思い出せないのに)
自分のことを思い出せないもの悲しさを味わいつつ、目の前の障害を取り除くため前方のオークに集中した。
「準備はいいか? では行くぞ」
「ああ。あんたのおかげで闘気を思い出した。先にそれだけは礼を言わせてもらう。で、なんだが。俺も闘気を使っていいか?」
オークが闘気を使うのを見て、フレギオンは自分も使ってみたいという好奇心が湧き出る。興味が尽きない、いま現在この肉体ならば負けることはないという確信があるが、闘気を使えばどうなるのかと。そして、眼前のオーク達はいったいどんな反応を示すだろうか? と。
それは、ほぼ何も理解できていなかった所に、徐々にだが理解と記憶が蘇り、頭が冴えてくるのがわかり冷静さを取り戻した証拠だとも言える。落ち着きを取り戻した彼は余計な思考を止めて一つの事に集中し始めた。
「族長! そいつに闘気を使わせてはダメだ!」
叫ぶように注意を促したのはさきほどフレギオンに敗れたオークだ。彼は戦った張本人であるため気づいていた。先の戦いで、自分は闘気を使っていなかったこのダークエルフに為す術もなく敗れたのだと。
だが、それを族長は知らない。そのために叫んだのだが、全てはすでに遅かった。
――族長は仲間のオークが敗れたのは彼が闘気を使えなかった、もしくは、このダークエルフが強力なアイテムか魔法を使ったからだと考えていた。だから魔法耐性をあげた自分ならば勝てると思っていた。なにより肉弾戦で負けるなどあり得ないと考えていたからだ。ダークエルフとオークには筋力の絶対的な差がある。この差は努力や訓練では埋まることはない種族の差である。抗うことの出来ない神々の決めた万物の理。それゆえか族長はダークエルフの懐に潜り込めば勝てると思っていた。肉弾戦にまで持ち込めばと。そして闘気を纏う時間の間に接近しようと思っていた。だが、この思惑は簡単に打ち壊される。
フレギオンは闘気を使うために深呼吸――肺いっぱいに酸素が行き渡るように――する。本人に自覚はないがこの身体は闘気の使い方をよく知っているようだ。操る者がずぶのど素人だというのに。元は日本で暮らすただの大学生であったはずなのに――当の本人はそのことをすっかり忘れているが――フレギオンのこの肉体は闘気を使うために無駄の一つもなく力を溜める。
全身を駆け巡った新鮮な酸素は肉体の隅々まで浸透する。吸収された酸素は血を活性化させて、身体にアドレナリンが分泌される。続けて、己の膨大な魔力を放出させた。その魔力は酸素と融合し、やがて酸素と混ざり合った魔力は体内で爆発するように放出される。そして放出された魔力は魔力の源である主に力を与える。
この放出された魔力が闘気。フレギオンは静かに闘気を纏う。しかし静かなのは彼だけだった。
――瞬間、木々は怯えるように葉を揺らし、枝は泣き叫ぶか如く揺れ動き、霧は一刻も早くこの場から退散したいという意思でもあるかと疑いたくなるような速さで消え去り、抜いても抜いても生えてくるあのしぶとさを持つ雑草は地面に頭を垂れるように這いつくばり、何本かの大樹は見る見る枯れていく。煩かった蝙蝠型モンスターは大慌てでその場から逃げ出した。そしてこの隙に攻撃しようとしていたオークの動きを制止、否、戦意喪失させるのに十分だった。
彼が使った闘気は、ダークエルフという種族特有の闘気ではなくフレギオンだからこそ纏える闘気。
その名を【覇者の闘気】。
【ダークエルフの闘気】や【オークの闘気】は生まれ持った者の闘気である。その種族として生を受け、日々鍛錬すれば使える闘気である。が、この【覇者の闘気】はそうではない。鍛錬すれば身につくというものではない。力などで天下を取ったものに贈られる名称である覇者の名を冠したその闘気は、王者のみが使う事が出来る特別な闘気だ。
青白いその闘気はその場にいる全てのモノを這いつくばらせるのにこれ以上ない効果を発揮した。
オークの族長はダークエルフの闘気を見て、身体から力が抜けていくのがわかった。槍を手から落とし、力をなくした下半身は体重を支えることができなくなり、がくりと身体が地面に向かって急降下する。かろううじて動く両手でなんとか上半身を支えて這いつくばる形でダークエルフの前で頭を下げた。実際に【覇者の闘気】を見たのは初めてであるが、それが何かはすぐにわかった。そして逆らってよい存在ではないということも。身体が震え、呼吸も動悸も激しくなる。仲間の様子を伺うこともできないぐらい余裕はなくなっていた。
かつて魔界というものを支配し、あまりの強さに畏怖されたという魔族が使っていたという闘気。伝説の闘気とされるそれをこのダークエルフはいままさに身に纏っているのだ。族長とは言え、オーク族の、それも一部族の長である自分ではあまりに格が違う。
彼の心中に宿る思いは我が身を呪う呪詛であった。なぜあのダークエルフの力をこれほどまでに読み違えてしまったのかと。何が我が相手をしようだ、何が一人だ、何が武器を持たないモノにだ、見当違いも良いところだ。
最初から戦おうとしているのが間違いだったのだ、未だ息を吸っていることに感謝すべきと。慈悲すら与えられていたのだと。オークなど彼にしてみれば矮小な存在が、愚かにも槍を持ち攻撃してきたというのに未だ息があるのだ、それも誰も死なずして。これを慈悲と言わずしてなんと言う。
脂汗がにじみ出す。慈悲を与えられるなど二度も三度もあることではない。もう無いと考えていいだろう、期待してはいけない。しかし族長たる自分がいつまでも這いつくばってはいけない、あのダークエルフは伝説の闘気を身につけた存在である。顔をあげるか何かしらのコンタクトを試みなければ待っているのは死だけだ。
しかし恐怖心からなかなか顔をあげられない。いや、実のところ上げたくはないというのが正しい。だが誰が笑うだろうか、自分を遙かに凌ぐ存在が見下ろしてると知っていてそうそう顔を上げられる者などいない。いるとすればそいつは命知らずか大馬鹿者のどちらかだろう。そんな恐怖で心が凍り付く中、族長は重い上半身をなんとか持ち上げる。彼の生きてきた時間の中で一番生きた心地がしないのは気のせいではない。
必死の思いでダークエルフの顔を見上げれば、待っていましたと言いたげにダークエルフは声をかけてきた。思わずびくりと身体が反応してしまう。
「武器を捨てたということは、戦う気はないと考えていいのかな?」
それはただの問いかけだった。ほんの数分前の口調とは若干の相違を感じさせる声色だった。いまの状況を歓迎し優しさが出ているような気がするが、吹き出す汗は止まるどころかさらに増える一方だ。その表情は優しげだったが、周りの木々が死んでいくのを見て自分の生命力も奪われていくのを感じる。こんな化け物とさっきまで話していたのかと思うとさらに恐ろしくなった。
ダークエルフはそんなオークを不思議に思ったのか、もう一度同じ問いかけをした。
「他の者も武器を捨てたみたいだし、戦う意思はないと感じるんだが違うか?」
「う、あ、いや」
うまく言葉が紡げない。次の言葉がでてこない、何か言わなくてはと思えば思うほど喉になにか詰まるように出てこなくなった。
これではヘビに睨まれた蛙だ。たった一つ、たった一つの闘気で全てが変わってしまった。口を開くことも呼吸することも忘れてしまうような恐怖心が身体を蝕む。あまりの恐怖に心臓が停止してしまいそうだ。だが自分は族長である、一族の長がこのザマでは一族が滅ぶ可能性がある。勇気を出せ、今はまだ生きている、質問されただけだ。質問に答えればいいだけだ。
「お、お許しを。我ら一族に………な、なにとぞご慈悲を」
「――……? 慈悲? 何の話だ。んー……あぁ、それは降伏の言葉かな?」
族長の言葉をすぐに理解できなかったダークエルフは暫し考えるような素振りを見せた後、今の言葉が無条件降伏の言葉だと気づき、うんうんと頷いたあと良いだろうと一歩後ろに後退する。それを見て族長は一瞬の安堵を手にして、強烈な重圧から解放された気分になった。その重圧が和らいだことにより気を少しでも緩めたせいで胃液がせり上がってくるがなんとか我慢する。吐くわけにはいかない、折角手にした幸運を手放すような真似はできない。
なんとか胃液を胃の中に押し込めた族長は、深々と頭を下げて礼を口にする。
「か……、感謝いたします」
この言葉を聞いたダークエルフはまた少し考えるような素振りを見せた。なぜ自分が礼を言われているか見当もつかないという具合に。それから数秒経ったあと彼は何かを思いついたような表情を浮かべた。そしてついさっき――オークにしてみれば遙か過去の質問がまたされた。
「話をしたいんだがいいか? 少々聞きたいことがあるんだが」
族長は目眩を覚える
許され安堵したのがつかの間の休息で、己に、そして一族に課された試練は終わったのではなくここから始まるのだと感じた。