大人になれない少年
神様、僕はもう何も恐くありません。
部屋の掃除のためにベッド下を覗くと埃をかぶった物がいくつかでてきた。
大半はかつての同居人である友人の物で何故か片足分の靴下などがあった。
あんなに必死になって片付けていたはずなのに、この時期になってまだ出てくるとは。
友人がいなくなって一年が過ぎ、初夏になった。
彼はもう少し奥の方にある何かを取ろうと手を伸ばした。出てきたのは古い本だった。
これは、この部屋に入り浸っていたもう一人の友人の物だろうか。
その友人はよく本を読む友人だった。
確かめるためにブックカバーを外して確認すると、見たことのある表紙だった。
いつだったか、随分と前のこと過ぎて忘れていたが、表紙の絵に惹かれて自分が買った本であった。
ぺらぺらとページを捲ると埃が舞って、彼は軽く咳き込んだ。
確か、神さまが次々と人の願いを叶えていく、そんな話だった気がする。
どんな願いも聞き入れてくれる神さま。それ以外はあまり印象に残っていない、そんな名作とはほど遠いような内容の本だったと思う。
本の埃を払い落として机の上に置くと、彼はまたいなくなった友人の私物の片付けを始めた。
食事をとる時に彼の正面に座る人も変わった。以前は、いつも正面にいるのは派手な印象の先輩飛行士だった。それもいつからか正面に座るのは、彼の隣に座っていたはずの彼の整備士になっていた。彼女はいつも朝食はあまり物を喉が通らない、とサラダだけを食べる。
「・・・いつかね、行ってみたいところがあるの。」
彼はうん、と口の中の物を飲み込みながら彼女に続きを促した。
「プラネタリウムに行ってみたいなって。」
なんとなく意外だ、と彼は思った。彼女は前に、彼の部屋に本を置きっぱなしにしていった友人の本を興味深そうに見ていたことがある。それはクラゲや深海生物といった海の生き物が載っていた本だった。だから水族館とか、そういうものが好きなのかと思った。星とか空とかは自分たちにとってはあまりに近いもので、彼女が興味をもっていたなんて今までまったく知らなかった。
「星が好きなの?」
「好きってほどじゃないのかもしれないけど、飛行士でも夜空をあんなに近くで見ることなんてないでしょ。私たちが見る空はいつも昼間の空だから。それに、・・・私が初等教育のときの話だから今もあるか分からないけど、宇宙が誕生してからの星の様子を映すプラネタリウムがあるって聞いたことがあって、それを見てみたい。」
彼は楽しそうに話す彼女を笑顔を眺めた。ほんの少しだけできる笑窪。
こうして笑顔で会話する回数が増えてきている気がして、彼は嬉しくなった。
反応が無かったことに不安になったのだろうか。彼女がこちらの顔色を伺うように見てきた。
「ここを出たら見に行こう。一緒に。」
彼は笑顔で答えた。
このあたりの街にはプラネタリウムはない。彼らがそこにいくとしたら、それは彼らが兵役を終えた後である。彼女はきっとそれを分かっててプラネタリウムに行きたいといった。
―いつか行ってみたいところがあるの。
いつかという言葉は今の為にある言葉だと誰かが言っていた気がする。
そうやって僕らは今を生きるために「いつか」の約束をする。
大人になったその時に果たされるための約束をする。
未来を信じられない僕らはそうやってしか生きていけないのだと、
そう思いながら彼は笑顔で約束した。
そう、ささやかな約束をしたのは一昨日の朝のことだった。
真っ青な空に大きな雲が影を落としている。今から発つというのに雲は丁度この辺りの空に浮かんでいた。
彼は彼女が見送りに来ていることに驚いた。
彼女は整備が終わるとすぐに部屋に戻ってしまう。過去のトラウマのために、自分の整備した飛行機が発つ瞬間は見たくはないのだと聞いたことがあった。現に今まで彼女は一度も彼の出撃を見送ったことは無かった。しかし、飛行服を着込んで飛行場に向かうとそこには、作業着を着たままの彼女が立っていた。
「どうしたの?」
まず心配したのは何か機体に不備があったのだろうかということだ。もうすぐ出撃しなければいけないのに彼女がここにいる理由が、彼にはそれぐらいしか思い浮かばなかった。
「お見送り。」
「え。」と思わず彼は声を出してしまった。
彼女はふふ、と笑うと彼の手をそっと握った。
「一昨日、約束したでしょ。だから、大丈夫な気がして。」
彼女の手が彼の手を撫でる。愛おしそうに。
少しだけ頬を染めて照れながら彼女は言った。
「いってらっしゃい。・・待ってるよ。」
彼は思いっきり赤くなってしまった頬を指でかくと、ありがとう、と告げて機体に乗り込んだ。
雲が厚いところはまるで夜のように空が暗かった。
ここを抜ければ視界も晴れるだろう。今日は快晴の予報だ。
向こうから敵機が見える。
彼は操縦桿を握る手に力を込めて機体を操った。機関銃の音とエンジン音が空の無音をかき消して、巡る。落ちていく機体が二機ほど見えた。
ガガガガ、と機体に凄まじい衝撃が走り、翼が打ち抜かれているのが分かった。
「くそっ!」
操縦桿を握る手が一瞬離れるが、彼はもう一度それをしっかりと握り直した。
雲の切れ間から敵機が現れたことに彼が気づいたのは全てが終わってからだった。
自分の操縦が効かなくなった機体からは今まで嗅いだことのない臭いが立ち込めて、自分が落ちていることに彼は漸く気がついた。
死ぬのだろうか。いや、死ぬのだろう。
叫びだしたい衝動を彼は下唇を噛んで押し殺した。
結局、自分も彼女に傷を残すことしか出来なかった。
約束は果たされなかった。
大人になれなかった。
ぐんぐんと高度が下がる中、彼の頭の中はどこまでもそのことでいっぱいだった。
「神様・・・。」
一昨日見つけた、いつか読んだ本の中の神様は何でも願いを叶えてくれる神様だった。
神様、今願ったら僕を生かしてくれますか?
何故約束を交わしたすぐ後に死ぬ運命だったのだろう。彼はそればかり考えた。
どうせ死ぬなら、彼女と出会う前に、約束する前に、
二人がこんなに傷つく前に。
煙の満ちる操縦席の中で彼は自分の体を抱きしめながら泣いた。
―僕たちは未来を信じられなかった。
それでも恋をして、いつかの日を夢見て生きると決めたのに。決めたのに!
「神様・・・。」
これは誰よりも生き延びた僕への罰ですか?
大人になれない僕は幸せでしたか?
「生きたい・・です、まだ君と恋をしていたい。」
最後に見えた空は信じられないほど蒼く綺麗だった。