ちょっとした話 甲
友人を失い、先輩を失い、イオが今までの彼の日常から取り残されてから大分時間が経った。
夏から秋の始まりを過ぎて、今はもう冬も終わろうとしている。
冬はこの地域の空軍では戦闘回数が随分と減る。他の季節では、ほぼ毎日聞こえていた飛行機のエンジンの音がなくなり、基地はより静かであった。
この時期では陸軍が一番死亡者がでる時期らしく、空軍の自分たちでは想像もできないような悲惨な死に方をするのだと以前にヒロタが言っていた。彼の言うことだから、本当かどうかは分からない。
死に方にいいも悪いもあるのだろうかと、イオはソファーに横たわったままで、窓から覗く低い空を眺めた。
屋根からぽたぽたと水滴が滑り落ちてくる。地面に残っていた雪もほとんどが溶けてしまっていた。
春が、新しい季節がやってくる。
基地は、飛行機のエンジンの音が再び耳に届くようになり、人が増えてどことなく落ち着かない時期になっていた。イオもだんだんと飛ぶ機会が増えていった。同期の人数が減ったためか、去年の同じ時期より多く飛んでいるように感じる。
少し疲れが溜まっているのだろうか。イオはソファーの上でまどろんでいた。
しばらくして彼の部屋のドアをノックしたのは今では数少ない同期の飛行士だった。
「呼ばれてるぞ。放送聞こえなかったのか?」
イオは「ごめん。」と告げると身を起こし、上着を着て部屋を出た。
いつもより多くの飛行士がこの集会室に集められていた。特に見慣れない新人飛行士の数が多いように感じる。長官から告げられた作戦は、なかなかに厳しい内容のもので、彼は自分の体が緊張で汗ばんでいくのが分かった。見渡せば、何人かの新人飛行士には顔に明らかに不安の色が滲んでいた。
ここにいる何人かは、きっと落ちてしまうのだろうな。そう思わずにはいられなほど室内の空気は暗く澱んでいた。
飛行士の参加する作戦の内容は資料と共に、担当の整備士にも伝えられる。
「ハツキ。」
イオは丁度手を休めていた彼女に声をかけた。カンカンカンとよく響く音を鳴らしながら階段を降りて彼女に近づくと彼はポケットから個包装された一口サイズのチョコレートを取り出した。
「疲れてるんじゃないかと思って、これ。チョコレート。」と彼は彼女に渡そうとしたが、
彼女は無言のまま一歩近づくと、彼の差し出されていた両手首をそっと掴んだ。
二人の距離がぐっと縮まる。
ぽろぽろと彼の手からチョコレートがこぼれ落ちた。
頬にも体にも一瞬で熱が籠ったことに彼は驚き狼狽え、思わず体を一歩引いてしまいそうになったが、それを耐えて問いかけた。
「・・・ハツキ?」
「見たの、作戦。・・・前みたいに代わって貰おう。きっと誰かいる。」
前みたいに、というのはイオが決死となるであろう作戦に当たった時、ヒロタがイオの代わりに飛んだことだろう。人と真っ直ぐに目を合わせられない彼女は、二人の繋がれた手をただ見つめ必死に彼に訴えかけた。
「そんなに危険な作戦じゃないさ。同期の飛行士の数も減った。僕は飛ばなくちゃいけないよ。」
彼女の不安をできるだけ取り去れるよう、イオはゆっくりと優しく語りかけた。
こんなにも自分の帰還を願う人がいる。たとえそれが、純粋な心配ではなく彼女自身のための願いであっても。彼女が必死になって自分が生きることを願う姿に、イオは胸の深いところがじんわりとあたたかくなるのを感じた。この人の為になら未来を生きることも恐くなくなるだろうか。
「ハツキ、僕は」
―君を残してはいけないよ。
しかし、彼女の声がイオの言葉を遮った。
「それ以上何も言わないで。・・止めて、狂って死んでしまいそうになる。」
下を向いたままの彼女は握り締める手に力を込めた。
彼は少しだけ困ったように笑って、「死なないでよ、ハツキ。」と言った。