深海へ行こうとする少年
そっと静かに、マリンスノーの野に降り立つ。
彼がその作戦に加わりたいと申し出たのは、自分の腕ならばその無茶な作戦を成功させて生還してくる自信があったわけでもなく、別に死に急ぎたかったわけでもないのだ、と彼は自分自身に言い聞かせた。長官から正式に戦闘への参加を許可された彼は、そのまま部屋に戻り、また熱心に図鑑に目を向け始めた。
「僕は、そんなに君が死にたいとか考えてるなんて思わなかったよ。」
彼の代わりに作戦から外された友人が彼に言った。失礼なものいいだなあ、と思ったがこれは友人なりに「今からでも遅くはないぞ。戻れ。」と暗に伝えたいのだろうと彼は理解した。
「うまく言えないんだけどさぁ、俺は死にに行くつもりではないんだよ。いや、死ぬとは思うんだけど。」
ほう、と友人は彼の次の言葉を促した。
「俺は、深海に行く。」
友人は間の抜けたような顔をしていたが、彼はいたって真面目に話を続けた。
何代も昔に家に研究者でもいたのだろうか。そんな話は家族の誰も知らなかったが、彼の家には深海の写真や研究資料がいくつもあった。恐怖心と興味を同時に擽るようなそれらに幼い頃から彼は夢中になっていた。飾ってあった写真は、暗い暗い海で光る生物たち。
そして子ども心に何より美しいと感じたのは、巨大な鯨の骨が沈む深い海に白く美しいマリンスノーが降り積もる光景の写真だった。
それからの彼は深海について知ることが何よりの楽しみだった。深海という世界は知れば知るほど興味を駆り立てた。何もかもが彼の目には美しく、この世界とは異なっていた。いつか、あの場所へ行く。それが彼の夢だった。
「・・・それじゃあ、なんで生きようとしないんだ。僕は、ごめん。僕やっぱり」
友人は戦闘への参加を交代しようと申し出るつもりなのだろう。しかし、彼はそれを望まなかった。
「俺は、弱い。」
彼は苦笑いしながら、それでも友人の言葉を遮るようにはっきりと言った。
「分かるんだ。このままここにいたら俺が俺じゃなくなるのが。馬鹿みたいだけど、死ぬってどこか他人ごとで俺、現実にあることじゃないような気がしてた。あいつらが死ぬまで。今は、飛ぶのも恐い。不安を抱えながら生きていくのも恐い。」
死が目の前に突きつけられたものとしてはっきりしてから、友人の死を背負うことになったあの日から、彼は自分が死ぬことを考えても、自分一人が生き残ってこの日常を抜けてなお過去の恐怖や死を抱えて生きていくのを想像するだけでも、手が震えることに気づいた。
「何より、こうして自分が壊れていって、大事なもの・・・美しいと感じてきたこと、楽しいと感じてきたことをそう思えなくなるのが、感覚を忘れるのが嫌だ。だから、俺が俺であるうちに、俺は深海へ行く。」
友人は「君は、すごいよ。」とだけ言った。そんなことはないさ、と彼はいつものように人懐っこい笑みを浮かべて「自分が自分でいることに意味があるんだ。俺にとってはね。」と言った。
キーンと帰還してきた飛行機のエンジンの音が響いて、二人は空を見上げた。彼は中身を飲み終えたマグカップを持って立ち上がると、
「知ってる?宇宙より深海の方が分かってないことが多いんだ。」と得意げに語った。
飛び立つ直前、友人が彼に言った。
「君がそんなに夢中になるような美しい景色、僕もいつか見てみたいよ。」
彼はにいっと笑った。
「俺だけの特権だ。」
そう伝えて、飛行機に乗り込んだ。
今日は厚い雲が空を覆っている。敵の数は圧倒的に多い。
慌てるな、慌てるな。
操縦桿を強く握る手は震え、手汗でびっしょりだった。
あんなことを語っておきながら生き残ろうと必死な自分に少し笑えた。
激しい衝撃の後で、機体は彼のいうことをきかずに落ちていった。
雲の切れ間から海が見える。
そう理解できてしまうほど、この一瞬は彼にとってゆったりとしたものに感じた。
目を閉じる。
深い深い、光と黒の美しい世界。
青に溶け
海月の群れを抜け
鯨の巣を通り
彼は、マリンスノーの野に降り立つ夢をみる。