ちょっとした話 下
先輩が未帰還のまま死亡となって二日が経ち自殺が起きた。
自殺したのはハツキと同室の、あの恋人さんだった。
発見されたのは夕方。死んだ先輩がよく羽織っていたパーカーを肩にかけ、その他の彼の遺品を抱いて死んでいた。ピストル自殺で、きれいに頭を打ち抜いていた。窓の近くの空が良く見える壁に寄りかかって死んでいる彼女を発見したのはハツキだった。
ハツキはその後、何度も嘔吐を繰り返し医務室に運ばれていた。
イオが医務室に駆け込んだ時も、彼女は水道から水を流し洗面台にしなだれ掛かるようになっていた。
「ハツキ、ハツキ。大丈夫だから。」
彼女の背をさすろうとしたイオの手を、ばっと掴むとハツキは叫んだ。
「ほら!死んだじゃない!皆、死んだじゃないのよおおお!!」
お、お、と嘔吐きなが彼女は泣いた。もう胃液しか出せないようだった。
「大丈夫、大丈夫。ハツキ、僕は生きてる。生きてるよ。ハツキ。」
イオは強ばっていた彼女の体をゆっくりと抱きしめると、彼女の髪を梳きながら
小さな子どもをあやすように「大丈夫」「生きてる」を繰り返した。
「・・私が、帰ってきますよって言ってたら・・先輩は、死ななかったの?」
イオに抱きしめられた体勢のまま少しだけ落ち着いた彼女は、吐息のように小さく呟いた。
イオは静かに首を横に振った。
彼は先輩が言っていたことを思い出していた。
「未来のために恋をする。」
二人の恋は死んだ。先輩が帰ってこなかったから。
きっと先輩の恋人さんは、一人で大人になることを拒んだのだろう。
イオにはまだ分からない。でも、恋をすると人は自分の命よりもずっと大切で重い何かを手に入れるのかもしれない。けれど、それを失った時、哀しいとかそれだけではなくては、手に入れたときよりずっとずっと重くなったそれを背負わなければいけないのだと思う。
それが何か分かったとき、僕も恋ができるのだろうか。
そして失ってしまったとき、僕も大人になりたくないと思うのだろうか。
「知ってるの。何人も死んでいった。私は、それを背負ってこれ以上の長い時間を生きていくなんて恐いよ・・。大人になって、今が日常じゃなくなったとき、私はもう生きていけない。恐いの・・恐いよう・・。」
彼らが過ごしているその瞬間は、常に必死で戦っている。不安、恐怖、快感、欲、本能、自己実現。すべてが小さな子どもの体と心の中でせめぎ合っている。
そして傷つき、傷つき、子どもたちはほとんどが傷だけを抱えて大人になるのだ。
大人になってからの果てしない時間は、彼らには想像もつかない。
まるで散々傷を負ったからだのままに、何もない広い真っ白な部屋に放り込まれるような感じがするのだ。
痛くて、這いずりまわり、白い床や壁に付く血のあとに自分の傷の深さを知って悶える終わりの見えない生。
その感覚に気づいた瞬間に子どもは大人になることを拒むのだろう。
「大人になんかなりたくない。」
イオは漸く彼女のすべてを理解できた気がした。
「そうだね。」
ほんの少し、大人になりたくない気持ちになった。