ちょっとした話 上
「おい、聞いてるのか。・・ちゃんと聞かないともう面倒みないぞ。」
少年イオの向いで朝食をとっているのは、ここの基地に来てから何かと世話を焼いてくれる先輩飛行士だ。柄が悪そうに見えるが底抜けに明るく、世話好き。
年頃にしてはイオよりも小柄な体躯で、たぶん基地にいる誰よりも純粋だった。
少なくともイオの知る範囲で。
今彼が語っていたのは、はじめは次の戦闘から自分が乗るんだという新型の戦闘機の話から、ただの惚気話へと変わっていた。イオが思わず意識を他所に向けてしまうくらい他人にはどうでもいい惚気話である。ただ面倒を見てもらえなくなるのは困る。彼には何から何まで、例えば思春期の男の子に必要なものまでお借りしていたので、イオは再び「はいはい。」と先輩の話に耳を傾けた。
「いいぞ。恋はいい。俺はあいつに出会えて本当に良かった。」
かちゃかちゃと派手に音を立てながら、朝から大盛りのオムライスをかきこみ酔いしれるように彼は語った。
「・・・・でも、童貞のくせに。」
ぼそり、とイオが言うと先輩が反応するより早く隣で食事をとっていたハツキが机の下で思いきりイオの脛を蹴った。
「イッ、つ。」
じとり、とイオは彼女に睨まれた。文句の一つでも言ってやろうとしたが、しかし先輩の方が彼より先に口を開いた。
「分かってねーな。大事なものはきちんととっておくものなんだよ。そして夢にしておく。大人になったときに幸せになれるための保険を俺はかけてるんだ。いつか、いつか、って。そうしてりゃ、意地でも死ねなくなれる。あいつのために、そう思えるようになるからな。」
だから恋はいい!と食堂に響き渡るような声を出して、米粒のついたスプーン先をびしっとイオに向けた。
自室に戻った。同居人がいなくなってしばらく経つが、イオはまだこの部屋の広さに慣れないでいた。
ふと思い出す。同居人であった友人も恋をしていた。あの日、友人が発つ前の夜に彼が呟いた言葉が耳を離れない。恋が自覚されて、漸く恋となった瞬間を見たのだから。どんなに苦しかったろう、どんなに切なかったろう。生まれてすぐ死んでいった恋心を思いイオは目を閉じてソファーに横たわった。
「好きじゃないの?」
いつか友人から言われた言葉を思い出す。
イオには恋がどんなものかまだわからなかった。
イオの向いに座り、先輩はまたかちゃかちゃと派手な音を立てて朝から大量の朝食をかきこんでいた。
彼は今日、以前に話していた新型に乗り込んで戦闘に行くのだという。
隣ではハツキが彼の話に相槌を打ちながらサラダを食べていた。今日はこのあと彼女と森を抜けて、どこかに行く約束をしていた。どこに向かうでもないデートとはとても呼べないふわふわとした約束である。
「何時に発ちますか?見送ります。」
「ああ、もうすぐ午前には」
彼が言いかけたところで言葉を止めた。よお、と彼が片手をあげて声をかけた方を振り返ると作業服を着込んだ少女が立っていた。
先輩の恋人。彼の整備士。
歳は先輩の一つ下と聞いていた。ゆるく巻かれた髪を一纏めにして、笑顔でこちらに歩んでくる。
ハツキが「おはようございます。」と声をかけた。ハツキと先輩の恋人さんは同室なのである。
「準備が出来たの。少し時間ある?」
彼女の問いかけに彼は「おう。」と食事の残りを急いで飲み込むとトレーを下げて、駆け寄った。
「わり、お先にな。」
彼はイオの頭をぐしゃぐしゃと撫でると、
ごく自然に恋人の元へいき手をつなげた。本当にそれが当たり前という感じの流れで。
けれど、自分から手をつなげておきながら彼の頬が火照って、口元が緩みきっているのをイオは見逃さなかった。
童貞め。となんだかこみ上げてきたもやもやと悔しい気持ちに、彼は心の中で悪態をついた。
悪態をついた罰があたったのかと、イオは後悔していた。何故かこのあと腹を下して彼の出発を見送ることは出来なかった。ハツキとの約束にも大いに遅刻し彼女の機嫌も損ねてしまったからである。
それでも「歩きながらお腹くださないでよね。」としっかりと薬を持ってきてくれた彼女に、自然と笑みがこぼれた。
ただ、もう少ししてから、なんでこの時に腹を下したのかと、なんで無理をしてでも先輩の見送りをしなかったのだろうと彼は自分を責めることになった。
先輩が基地を発ってから二日が経った。連絡は入っていない。
飛行士は墜落を確認されなくても、基地を発ってから三日が経過して帰還しない場合、死亡と判断される。飛行機の燃料が切れることも考えるとそれは妥当な判断であり、実際に連絡もなく三日が過ぎても帰ってこなかった者は、そのほとんどがもう二度と帰ってくることは無かった。
空は雨模様であり、見晴らしは最高に悪いだろう。
今日帰ってこなければ彼は死ぬ。
「イオ。」
部屋に誰かが入ってきたことに一切気づかなかったイオは、声をかけてきたヒロタに驚いてソファーから起き上がった。
「何。」
「テラスで、ハツキが一人でいる。行ってやった方がいいと思う。」
ああ、とイオは起き上がった。ハツキの同居人は先輩の恋人だ。気を使って部屋を出たのか、出て行けと言われたのか。どちらにしても、精神的に弱い彼女が平常でいるはずはないのだ。
行ってくる、と告げるとイオは急いでテラスに向かった。
普段は日当たりのいい明るいテラスも、今日は暗く陰りハツキ以外の人はいなかった。
彼女は望洋と空を眺めていた。
静かに席に着くイオを一瞥して彼女はまた空に目を移した。
「・・・帰ってくると思う?」
イオはゆっくり慎重に慎重に答えを探した。
飛行士の視点から言えば、先輩が帰ってくることは、ほぼ無いと考えられるから。
「私ね、先輩に聞かれたの。
あの人帰ってくると思う、帰ってきてくれると思うって。泣きながら、聞いてきたの。
何も言えなかった・・。私知ってるもの。帰ってこないって。そうやって皆帰ってこないんだよ。」
当然でしょ、そうでしょ、とい言いたげに彼女の虚ろな瞳がイオを見つめた。
彼女は明らかに肯定の言葉だけを求めていた。そうして、自分を守ろうと無意識にしているのだろう。
けれどイオはここで、「そうだね。」とは言えなかった。
「・・・まだ分からないさ。明日になるまで。」
彼女からの返事は無かった。
二人は長い時間、空を眺めた。
雨は結局、明け方まで止むことはなかった。