手紙を抱える少年
同年代の子どもたちより体力的に劣り、強い劣等感や孤独感を抱いていたユキにとって、少女は自分よりもか弱くそして、自分を全力で肯定してくれる学校の友人とは異なる大切な存在だった。
僕のもとに届くこの手紙が、僕の生きた証そのもので、これは命と同じ熱量をもっている。
お元気ですか。俺の方は任務も無事にこなし元気してます。
相変わらず掃除が苦手で今もよく同じ部屋のやつに怒られてるよ。
この間、飛行機からとった写真入れておきます
すごくきれいな空で感動した!
空軍に配属されて良かったって初めて思ったかもしれません。
これも飛行機乗りの特権だな!
それじゃ、また。
お元気ですか?私も最近は調子いいんだよ
また怒られてるの?ユキ君もそろそろ掃除くらいできるようにならなくちゃ...
写真ありがとう!すっごくきれい。
こんな空をいつも見れるなんて、ユキ君がうらやましいです。
私もいつか、広い広い空をみたいなー、なんて思います。
では、からだに気をつけて。
P.S.
また、いつか一緒に空を見ようね。
幼い頃のユキはひどく体が弱かった。風邪を引くたびに症状は重くなり、周りの子ども達より病院の世話になる機会が多かったことを自分でもよく覚えている。しかしそれも成長に従って良くなっていき、初等教育を終える頃には人並みに健康的な少年に成長していた。今となっては健康優良児で、この話をしても誰も信じてはくれない。
「バカでも風邪はひくってことなんだな、やっぱり」
友人のイオが真面目な顔でこう返してきた時には、さすがに傷ついた。
この小さな基地の中で、ユキには誰より多くの手紙が届く。
そのほとんどはある一人の少女から届けられる手紙だ。今日も個人に送られる配達物のボックスから、自分あての手紙を見つけ出した彼は、胸にそっと手紙を抱きながら自室へと向かった。
ユキがその手紙の少女と出会ったのは初等教育が始まる少し前のことだ。体調を悪化させた彼が入院していた病院の小児棟の図書室で、二人は出会った。たまたま同じ絵本に手を伸ばそうとして、自分と少女の手がぶつかってしまうと、少女はほんの小さな衝撃にも関わらず突然泣き出した。
「ご、ごめんね。泣かないで」
ユキが謝っても、少女はこくこくと頷くだけで涙は一向に止まらなかった。
止まらない涙がかわいそうで、白い入院服の袖で彼女の顔を拭く。引っ込んでいく涙に安堵したのもつかの間。
じわ、と布が赤く染まった。
少女は鼻血を出してしまったらしかったのだが、今度は血に驚いたユキが大声を上げて泣き出したので、廊下にいた看護師たちが一斉に駆け寄ってきた。
この衝撃的な出来事は今でもユキの中に印象強く残っている。
それからも図書室で出会うことが多かった二人は自然と仲良くなった。絵本を読むときは少女が字を一つ一つ追い、中庭で遊ぶ時はユキが少女の手を引く。狭い病院の中で二人はいつも一緒だった。
少女はよく鼻血を出したが、ユキはもう驚かない。遊びの最中に彼女が鼻血を垂らすと、ユキは慣れた手つきでティッシュを丸め、ズボっと少女の鼻に突っ込んだ。にひ、と笑ってみせると少女も釣られて笑いながら「痛いよ、ユキくん」とユキの鼻頭をつまんだ。
ユキが退院しても少女は入院し続けた。彼女の病気は、彼が今になっても理解できないような難しくやたら長い名前のついた病気で、当時はどうして病院からでれないの、と今にして思えば残酷な質問を何度も彼女に浴びせかけてしまっていた。ユキは自分が退院した後も、少女の見舞いに病院を訪れた。少女はそれを何よりも喜んだ。
「今日は外で長距離走をしたんだよ。すっごく苦しかった」
ユキは疲れきったという様子で、少女のベッドにもたれかかり学校であったことを話した。
でもその長距離走の途中で息が苦しくなって、最後まで走り切ることができなかったということは話せなかった。
学校であったことは話したい。閉鎖的な中でしか生活できない彼女に、ユキは自分が体験したことは何でも教えてあげたかった。しかし同年代の子どもたちより体力的に劣り、強い劣等感や孤独感を抱いていたユキにとって、全てを話すということは出来なかった。本当に、子どもだったのだ。
「すごいすごい!私、長距離走なんてしたことないよ。走ってると暑くなった?外はもうあたたかい?」
しかし少女は少年が走りきれたかどうかは聞かない。他のどんな出来事の話に関しても少女は少年が「どうなったか」という結果ではなく、彼の知る世界や彼が感じたことに夢中で耳を傾ける。同じように自分病院という限られた空間ではあったが、二人は飽きもせず多くのものを共有した。
初等教育を終える時期が来ても、結局彼女が病院から出ることは無かった。そして12歳になり特別教育が始まった彼は病院を訪れることができなくなった。
それから始まった二人の手紙のやり取りは、今も飽きることなく続いている。
死亡率の高い作戦が強行されるのは、そもそもこの戦争は人口淘汰が目的の一つであるから。一兵士が知ることもないどこかの偉い機関が指令を出せば、兵士たちはそれに従う。ただ、それだけ。
その死亡率の高い作戦が自分にまわってくるかどうかは、運だ。運命なのだと思う。
彼が作戦に参加して飛ぶのは三日後になった。それは生きて帰ってくるのは無茶だと思われる作戦で、薄暗い集会室でこの内容を聞かされた時に彼は「とうとう来たな。」とだけ思った。いずれ自分はこういう死に方をするのだろうという予感が彼の中にはあった。覚悟はしていた。死ぬことなど分かっていたはずなのに、それでも手にじわりと嫌な汗が滲むのが分かった。
部屋に戻ると彼は身辺の整理を始めた。いつも物が散らかる汚い男子部屋。自分が死んでから同室の友人に片付けで面倒をかけるのは流石に申し訳ないと思った。今、その友人は空を飛んでいる。帰ってくるのは夕方になるはずだ。
「ずいぶんと片付いているじゃないか。」
帰ってきた友人は驚いたように声をあげた。おかえり、とだけ告げて彼はまた黙々と作業を続けた。床に散らかっていた物が減ったくらいで、実はあまり作業は進んでいなかった。
「急に掃除なんか始めて、誰か呼ぶの?」友人のからかい混じりの問いかけに、少し、笑って答えて
それで彼は言った。
「三日後の朝に飛ぶ。たぶん、戻ってこれない。」
友人は一瞬目を大きく開いて、彼に背を向けた後「そうか。」とだけ言った。
「・・ベッド下のエロ本は置いていってもいいけど。」
静かになった空間に響いた友人の声に彼は笑った。
大量の手紙を前に彼は唸り声を上げていた。さて、これをどうするか。彼女への最後の手紙は出した。彼が飛ぶのは明日の朝に迫っていた。
何年にもわたって続いた手紙。これらの手紙全てが、彼にとっては愛しかった。手紙には何気ない日常の話、お互いの体を思いやる言葉が詰まっている。手紙を手に取るたびに胸が切なくなる理由を、彼はなんとなく知っていた。そしてきっと彼女も。ただそれを表す言葉を今まで一度だって書いたことも、書かれていたこともなかった。たぶん、この気持ちはそういうことに対する単なる憧れや幻想であって、きっと本当のそういう「想い」じゃない。だって彼の中の彼女の顔は幼いあの頃のままで、今の彼の恋愛の対象となるようなものではないから。
ふと、彼は机に下にまだ封を切っていない手紙が落ちていることに気づいた。留守にしていた間にでも届いていたのだろうか。何だよ、届いていたのなら教えてくれてもいいのに。と、彼はベッドでぐっすりと眠る友人に悪態をついてから、彼女からの最後となる手紙をあけた。
いよいよ夏になったね。すごく暑い!
最近、体調はどうですか?飛行士をしているんだもの、やっぱり疲れるよね。
夏風邪を引かないように気をつけてください。
そういえば、中庭のひまわりは覚えてる?
今年も看護婦さんたちと一緒に種を植えたんですが、芽を出したばかりだと思ってたら
もう私の背を抜いちゃいました!
きれいに咲いたら写真送るね。
私の方は先生もびっくりするくらい体調がいいです。
新しいお薬を出してもらったのが効いてるみたい。
少しづつだけど体の方も丈夫になってきてます。
それで、ずっと考えてきたことがあります。
私も18歳になる前にしっかり元気になって 君と同じ所に行きたいと思ってます。
もちろん、同じ基地に配属されるとは限らないけど
ある程度の希望はとってくれると聞きました。(これ本当かな?)
本当は君と同じように空を見たいけど、それはさすがに無理かもしれないので
整備士を目指してる。
実は、気が早いけど勉強も始めました。
いつか、絶対 君の飛行機を整備すること!
それが私の目標です。
時間はかかるかもしれない。けど、あきらめないよ。
それじゃあ、お元気で。お返事待ってます。
体に気をつけてね。
涙が止まらなかった。どうやっても止まらなかった。彼女の整備した飛行機で飛ぶ。毎日彼女と話して、食事して、それから。それから。
彼女と過ごす日々をありあり想像できた。それは幸せ過ぎるもので、今の彼にはあまりにも残酷すぎた。死ぬのは恐くない、筈だった。
「死にたくない・・・!死にたくないよう・・。俺はまだ、生きて・・いたいよ・・。」
涙が落ちて手紙の字が滲んだ。
「本当に、好きだったんだ。」
次の日、彼の飛行服は腹から胸にかけてふくらんでいた。今までの手紙を抱いて。
よたよたと飛行機に乗り込んだ彼は見送りに来た友人に告げた。
「ここに何年か後、女の子の整備士が来たら伝えて欲しい。
飛行機から見る空も、そこから見る空も実はあんまり変わらないよって。」
今日は晴天。暑い夏の空。嘘ついてごめん。
君の想いを抱いて、僕は君と大人になることはできない。
P.S.
これから手紙を書けなくなるかもしれない。
人手が足りなくて、俺みたいな有能な飛行士!は忙しいんだ。
それでも、君からの手紙は楽しみにしてる。
ちゃんと全部読めるかわからないけれど、ごめんな。
手紙、待ってます。