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落っこちた少女

 昔から出来のいい子だと褒められることが多かった。何でもそつなくこなすことができ、初等教育でも勉強に躓いた記憶はない。12歳から親元を離れて行われる特別教育期間でも常に優秀生徒であり続けた。どの科目も、模擬戦闘訓練も何もかも上手くいっていた。友人や教官達からは常に称賛の言葉を送られ、希望通り空軍へ配属されることが決まった。どこの基地でも、うまくやってく自信が私には確かにあった。あの頃はただただ、誰よりも速く、高く、空を飛ぶ感覚が快感だった気がする。




「準備はいい? 」

整備士の問いかけにハツキは笑顔で答えた。

今日、彼女は初めての戦闘にむかう。女子の飛行士はこの基地では数が少ないためか、今日飛ぶ飛行士のうち、女子はハツキ以外には十七歳のベテランと呼ぶにふさわしい飛行士一人だけだった。ハツキは新兵として配属された飛行士の中でも最も早く今回の戦闘に参加するうちの一人であり、それがまた彼女に優越感と自信を与えた。感覚を確かめるように力強くと操縦桿を握り、エンジンの音に耳を傾ける。体が空にゆっくりと近づいていく。

澄み切った青い空だった。


 あらかじめ確認及び伝達された情報によれば、数の上ではこちらが優位な戦局らしい。実際に戦闘が始まって感じたが、技術的にも優れている経験豊富な飛行士の数もこちらが圧倒的に多いようだった。周囲を見渡せば、相手の機体がどんどん落ちていく様がハツキの目に飛び込んでくる。黒煙や機体のいたるところが損傷して鳴らす轟音は、青い空にくっきりと浮かび上がっていた。

 それは模擬戦闘では体験したことのない、凄まじい光景だった。しかし、彼女はその光景に何故か全くといっていいほど現実味を感じることができなかった。けれども、瞳のもっと深い部分に焼き付いていく感覚がした。

ハツキは、これまで空を飛んできた中では感じたことのない未知の感覚に戸惑い、胸のあたりに謎の不快感がこみ上げいくのがわかった。何故か後頭部が重く、鈍い痛みが走る。しかし、ただ飛んでいるだけでは燃料の無駄にしかならないと彼女は思考を切り替え、敵機に注意を向け直し後方下方をとられることだけはない様に機体を操った。






 銃弾を撃つタイミングが掴めない。撃てない。撃たなければ。

次第に増す胸の不快感と、焦燥感にハツキの手は手汗でぐっしょりと濡れていった。

先程まで青く澄み渡っていた空が、モノクロに見える。エンジンの音すら遠く、耳のは自分自身の早鐘のように脈打つ心臓の鼓動がだけが響いてきた。どろどろと血液の流れる音がする。

―――吐きそうだ。

ハツキが思わず操縦桿から手を離し、口元を塞いだその時、まさにその瞬間まで追っていた敵機が目の前で爆ぜた。咄嗟に顔を上げて確認すると、味方からの援護によって自分と何十分とも感じられた長い時間競っていたその相手は落とされたようだった。

終わったのか。心を満たす安堵感と、静まっていく呼吸や心臓に、ハツキは小さく息を吐き前を向いた。


 そして、その時見た。爆ぜた黒煙を上げて落ちていく機体の中で、敵機のパイロットの顔が真直ぐにハツキを見つめていた。

恐怖に叫ぶ顔でもなく、悔しさに眉をひそめるでもない。何の感情も浮かんでいない顔で真直ぐにこちらを見ていた。その顔は一瞬でハツキの瞳に、心の深い部分に焼き付いた。つかの間感じた安堵も消え失せ、全身が鉛ののように重くなった。まるで自分もあの機体と共に落下しているような感覚さえ覚える。彼女は隣で親指を立てる仲間にも気づかないほど、その爆ぜた機体が鉄の塊として海へ落ちていくのを見つめていた。


 帰還したハツキは覚束無い足取りで機体から降りようと機体から身を乗り出した。ほの暗い飛行場にまだ電気はついておらず、夕日で赤く濁った、まるで血のような雲が遠くの空を流れていく。そう思った瞬間、あの落ちていった飛行士の顔がフラッシュバックした。あの無表情だけではない。その顔は憤怒を滲ませたように、叫び狂っているように自分の中で表情が変化していくのがハツキには分かった。

地に足をつけた途端、とうとう彼女は耐え切れずに胃の中のものを吐き出した。




 ハツキが気がつくと、そこは自室のベッドの上であった。ソファーには同室で同じ新米飛行士である友人と、今日一緒に飛んだ17歳のベテランの少女飛行士が座っていた。シーツの擦れる音に気がついた二人が自分に視線を向けたので、ハツキがベッドから体を起こそうとすると17歳の少女がそっと彼女の背を支えた。

「気分はどう? 緊張した新米飛行士が体調を崩すのはこの時期よくあることだから、しっかり休みなさい」

ハツキは体を起こし「はい」と軽く頭を下げた。

「急に倒れたって聞いたから、ハツキちゃんに何かあったのかと思って心配したよ。今日はこのまま寝てしまっていいからね」

ベッド脇のデスクに置かれたグラスに水を注いぎながら、同室の友人は明るい笑顔で話しかけてきた。まだ僅かな期間だがハツキにとってよき理解者となっている友人は、どんな言葉がハツキの心を慰めるのかよく知っている。

「他の飛行士さんからも聞いたよ。やっぱり新人の中でハツキちゃんが一番飛び方が綺麗だって」

自分を肯定する為に常に求め続けてきた賞賛の言葉を友人が笑顔で言っている。けれどハツキは苦笑いを浮かべるだけで、うまく返答することができなかった。優越感も高揚感も何も感じられなかった。

銃弾の一つも撃てなかった自分にとって、飛び方が綺麗だと褒められてもそれは何の価値になるのか分からなかった。にこにこと笑みを浮かべ、自分を励まそうとしている友人の言葉を遮ると、ハツキは勢いよく頭を下げた。


「すみません」

突然部屋に響いたハツキの言葉に友人は首を傾げた。ただ、二人の先輩である17歳の少女は立ち上がりハツキを見下ろし静かに言葉を吐いた。

「...謝るくらいなら、撃って」

決して大きな声ではなかったが、強さが込められたその声はかすかに震えていた。

「戦闘機の戦いわね、一瞬なの。あ、って言葉も出ないくらいにね。そしてどちらかが落ちる。でもね、今日のあなた達みたいな飛行士がたまにいるのよ。どちらの飛行士も撃てなくて、いつ死ぬんだろう、いつ死ぬんだろうって、周りはそればかり考えちゃうの。ねえ...死にたくないでしょう? 」

ハツキに向けられたその言葉と瞳には悲壮感が漂っている。ずっと覗き込んでいたら、どこまでも落ちていきそうな暗いその瞳の色に、ハツキは視線を上げることができず、自分の手元に目を向けた。昼と同じように手が汗で濡れている。

 何も言えない。言うべきことも分からなかった彼女は、一人の少女飛行士の訴えに黙って耳を傾けた。





 またすぐに次の戦闘はやってきた。今回の戦闘では新兵の飛行士たちのほとんどが飛ぶ。もちろんハツキもだ。朝食は喉を通らず、無理に押し込んだものは既に一度吐き出してしまった。飛行服の通気性の悪さによるものだけではない、じっとりとした汗が全身を冷やしていく感覚に、彼女は格納庫の扉を開けるのを一瞬躊躇った。

 「死にたくないでしょう」

あの日の夜の、先輩飛行士の言葉を何度も復唱し、ハツキはその重たい鉄扉を開いた。


 エンジンの音が鳴り響く。ゴーサインが出され、多くの戦闘機が飛んでいくのを追いかけるように彼女も飛び立った。すでに手汗で手はぬめり、全身が細かく痙攣しているのが分かったが、自分の気持ちをごまかし、青い空を見上げることで彼女は発狂しそうになるのを堪えた。



 雲がちぎれる空の隙間に青がちらつく。

ハツキは逃げることに必死だった。完全に狙う側ではなく狙われる側である。チャンスが無かったわけではない。ただどうしても撃てなかった。撃とうと指を構えるたびに、あの日の落ちていく飛行士の顔がはっきりと浮かび上がり彼女は叫び声をあげた。後方に回り込まれるのは空中の戦闘において命取りだ。彼女は体が覚えている部分だけで敵をかわし続けた。


 キィーンと飛行機が落ちていく時の特徴的な音が耳に届き、彼女ははっとして頭上を見上げた。味方機が灰色の煙をあげながら、比較的ゆっくりとした速度で落下していく。どうしてか、ハツキはその機体から目を離せなかった。目が無意識に操縦席の方へ向かう。見てはいけない。見たらおかしくなる。体全体が自身に警鐘を鳴らしていた。うるさい鼓動に耐え切れず、一度咆吼して無理矢理にその落ちていく機体から目を離そうとした時、その機体が翻り、ちょうどハツキの視界に入り込んできた。

そのひび割れた操縦席から、こちらを一瞬だけ見たのは、同室のあの友人だった。

「わああああああ!!」

ハツキは思わず手を伸ばしたが、その手はガツンッと勢い良くガラスにぶつかっただけだった。その鈍い衝撃と痛みに彼女は現実に引き戻された。


死んだ。死んだ。皆、死んでいく。


彼女の中で死がリアルなものだと、あまりにも生々しい現実であると漸く認識された。

拍動はこれまでにないほどはやくなり、手だけでなく全身がぐっしょりとなるほど汗をかいていた。

胸のあたりに燻っていた不快感は限界まで膨れ上がり、全身を支配された感じさえする。

自分の中で何かが悲鳴を上げる音がした。






 何も出来なかった。いや、何もしなかった。敵前逃亡に加え、作戦放棄。

鉄の塊たちが舞う空を抜け、ハツキは一人帰還した。

「たくさん死んだな」

誰か分からない声が耳元で聞こえた。

飛行機から降りて、彼女はただ嘔吐と過呼吸を繰り返すことしかできなかった。彼女の整備士に呼ばれてきた基地の長官は彼女に「もう飛ぶな」とだけ言った。 


 コンクリートの地面に這いつくばって虚ろに空を眺めた。


 灰色の空。青はそのどこにも存在していなかった。

 もう二度とそこには行くことの出来ない、空。


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