空を飛ぶ子どもたち
*この作品におけるピーターパン症候群とは、現実に専門家等が認知・使用しているものとは細かい定義・症状等が異なります。作者:椎名による造語的なものであり、この作品の内容は、実際にこれらの症状に悩まされる方々を否定するものではありません。
*性描写、過度のグロテスク表現はありませんが義務教育終了済みの方の閲覧を推奨します。
巨大な鉄門で閉鎖された空間。その深緑の森の中に一本のアスファルトの道が続いている。
夏が近づいているというのに、木枝に遮られて光の当たらないアスファルトはとても冷たく感じられた。
この一本道の先には飛行場がある。
戦闘機の格納庫と飛行士たちが暮らす建物も併設されているこの空軍基地は、緑に囲まれた小さな基地だった。周囲に背の高い建設物はなく、いつの季節も広い空を見渡すことができた。
エンジンの音を響かせ今日も飛行機が基地へ帰ってくる。
鈍い金属の色に、耳を突くエンジンの騒音。大きなその機体には不釣り合いな小柄な体が操縦席から立ち上がって外を見渡す。少年はぺちゃんこに潰れた黒髪を手ぐしで梳かしながら飛行機からゆっくりと降りてきた。
すう、と深く呼吸をすると生暖かい初夏の空気が肺いっぱいに入り込んで、少年は自然と背筋を伸ばしたくなった。
「ただいま、ハツキ」
つなぎを着た少女が自分の機体に歩み寄ってくるのを見つけた彼は、額に浮かんだ汗を拭いつつ笑顔で帰還の挨拶を告げた。ハツキは片手を挙げて無愛想に「おかえり」とだけ呟き、機体から目を離さなかった。高い位置で結ったポニーテールが彼女の歩みに合わせ揺れている。
ハツキが少年の担当の整備士になったのは二ヶ月前のことだ。かつての少年の整備士が兵役を終え引退したちょうどその時期に、彼女が担当していた飛行士が死んだ。少年はその理由を知らない。ここでは人がいろんな死に方をするから。
「あなたで5人目よ」
初対面の時、出会って早々言われたこの言葉の意味も、少年は今なら理解できるようになっていた。彼女の言葉にはいつも隠された思いが存在している。自分の気持ちと真直ぐに向き合えない彼女の言葉は、不器用だ。
あなたで5人目よ、に続く言葉はきっと「死なないでほしい」だと思う。少年はそう理解しているから、帰還した時はすぐにハツキに「ただいま」を告げるようにしている。たとえ、返ってくる言葉がどんなに素っ気ないものであっても。
この二ヶ月の間に自分は随分と彼女について知ることができているみたいだ、と後ろから追いかけるように走ってきたハツキを、足を止め待ちながら少年は思った。隣に並んだハツキに歩幅を合わせながら格納庫へ向かう。
ハツキは実に有能な整備士だが、他人を寄せ付けない雰囲気を持っている。強い口調が癖になっていて、少し気難しい。しかし、それは自分の弱いところを懸命に隠そうとしているからだ。だから人の目を真直ぐにみれない。本当は精神的にすごくすごく弱い女の子だ。そして彼女自身、かつては飛行士であった。そのことが理由となっているのかは分からないが、少年が発つ瞬間には絶対立ち会おうとしない。けれども帰ってくるたびに安心して、そして少し泣きそうな顔をする。
ただ分からないことがまだある。
「今日も疲れたよ。出来るなら僕もさっさと兵役を終えて自由な生活がしたいな。...同室のやつはすぐに物を散らかす男だしさ。はやく大人になってしまいたい」
彼がこういったことを言うと、決まって彼女はこの文句を言うのだ。
「...大人になりたいなんて私はこれっぽっちも思えない」
誰が使い始めたのか、それが正しい使われ方なのか分からないが、どこの基地へ行ってもピーターパン症候群という言葉を聞くことが多くなった。
―――大人になることを拒否する子ども。心と身体のバランスが取れなくなって壊れていく病。大人はそれが何なのかを知ってる。治療法もあるらしい。でも、分かっていてバランスを崩させるんだ。その成れの果てが各基地の「長官」。18歳を超え、兵役を終えてなお、子どもの姿のまま成長が止まり、薄暗い長官室で唯一大人たちと連絡を取ることを許されている存在。うちの長官なんてピーターパン症候群の典型。毎日毎日、あやしい薬投与されてるって噂。と、少年は友人が得意げに語っていたことを思い出した。
しかし、彼はただの飛行士に過ぎず、偉い人がどうだ大人がどうだとかいった話は、心底どうでもよかった。ピーターパン症候群なんて少なくとも自分とは無縁なものだろうと少年は確信しており、子どもの姿のまま成長が止まるなどという噂を信じることは出来なかったのだ。
ただ、隣を歩く少女の頼りない心を思うと、自分のことではないのに何故か不安になった。
格納庫の入口近くに設置されているネームタグを管理する安い木材でできた簡素なボードに、少年は自分の胸から「イオ」と自分の名前が書かれたタグを戻した。今日飛んだ機体の数は5機。
ネームタグは4つしか戻されていなかった。
「子どものままでいたっていいことないよ。規則に縛られて、いつ死ぬのかも分からない生活なんてごめんだね」
彼はこう、言い聞かせるように彼女に言うのだ。
部屋に戻ると友人二人が、ソファーを占拠してカードゲームに興じていた。
「夕食は? 」
同室でよく物を散らかす友人のユキは、そのクセ毛をくるくると弄りながらイオに話しかけた。
済ませてきたよ、と手短に答えると「また例の整備士さん? 」と口角を上げにやりとしながらユキは言った。
例の、とはなんだ。
イオが手荒にドアを閉めると、汗臭い飛行服の前を寛げてソファーに寝っ転がっていたもう一人の友人が
「そういえば」と体を起こした。この友人こそピーターパン症候群がどうの、長官がどうのと、どこから仕入れたのか分からない情報を彼に教えてくる友人ヒロタである。髪を後ろで一纏めにしているヒロタは身長が二人より高く、体格はしっかりとしているが人懐っこい性格で、別室であるにも関わらず気が向けばこの部屋に来ている。
「もうセックスはしたの? 」
イオの方に視線を向け興味深々といった様子でヒロタは彼に問いかけた。どういうことだとイオは思ったが、どうやら最近は自分たちの噂で持ちきりらしい。
「ないよ。僕ら付き合ってないもの」
「付き合ってないからしてないって、お前それは理由にならないだろ。ここじゃ」
イオが言ったことは事実であり、しかしヒロタの言ったこともここではまた、事実だった。
思春期に性的なことに関心が向かってしまうのは当然だ。大人になりきれない子どもたちの行為。しかし、ここではそれが不健全だと止めるような存在は無い。セックスなどはまだマシな方であって、この不安定な時期に心を満たすための方法は、ここにいればいくらでもあった。ガス、シンナーなんてものは誰でも手に入れることができ、何より軍から配給される「安定剤」とやらだって妖しいものだ。けれど、ここにいればそういうものに頼ってしまうのが普通の精神であって、彼ら三人のような健全さの方が明らかに異質だった。
「好きじゃないの?イオはいつもあの整備士さん連れて歩いてるじゃんか」
ユキの問いに彼はすぐには答えられなかった。ハツキは気の合う友人なのだと思う。無言であることを苦にしないあたりがとても自分に似ている。彼女との間に流れる静寂はイオにとって心が穏やかになるものだった。しかし、それが恋かと問われたらどうなのだろう。恋をしたことがないので分からない。そもそもイオは恋というものが何か知らなかった。
「...恋ってなんだろうな」
彼の本当に小さな呟きに、友人二人は腹を抱えて笑った。