第四十七幕 生者の地獄旅行
虚脱感が身体を支配する
何度目だ、さっきの一瞬で僕は何度死んだ?
気持ち悪い
倒れ込む身体を支える腕が震える
身体の芯から湧き上がる吐き気と苦痛が目の前を暗くし、目が翳む
耐えがたい不快感に頭が割れそうになる
震える自分の身体を抱き寄せるように、寒気がしている身体を温めるように身を縮こまらせる
今、ここで呼吸をしている事すら違和感を感じてしまう
それほど〝死〟で埋め尽くされた体験を今しがた億を超えるほど経験をした
なのに狂う事も出来ない
正常と狂気の間を意識が高速で移動している
狂えない、それは現実からの逃避ができないことに他ならない
「ぅぅおぉ、ぼぇえぇぉ」
喉を埋め尽くさんと競り上がって来た異物を地面に吐き出す
何度吐いても何度吐き出しても終わらない
出すものが無くなったというのに胃を締め上げて空気が漏れる
何が、何が起きたんだ
ソラは、アルベリは、チョーは、アカツキは、オーニアスは、グレイは、大丈夫なのか……?
「なかなかに好ましい苦痛の色を見せてくれているではないか」
「──ぅ、あ?」
吐瀉物に倒れ込んでいる僕の目の前に誰かが来る
その誰かは僕の顔を覗き込むように身を屈める
そして、楽しそうに笑う
「やはり純人は良い! 質がいい醜悪なモノを持っている、好感が持てるではないか!」
僕の髪を掴み、強制的に目線を合わせて来る
地獄の業火を思わせるような紅い目が僕の目を射抜く
力が入らず、成すすべなくいい様にされている
でも、仕方がない
まだあの苦痛が全部を支配しているのだ
気持ち悪い物を記憶している脳を掻き毟りたい衝動が、もう何も見なくても済むように目をくり抜いてしまいたい願望が、僕から行動を起こす気力を蝕む
「……話ができないというのはいささかつまらないものだな。正気に戻してやろう」
「ぅあ──がぁ!?」
おもむろに突き出された右手が目を貫き、脳を直に触る
なんで直に触られているのか理解できるか分からない
ぐちゅぐちゅと言う音と目から溢れ続ける赤黒く生暖かい血だけが意識の有無を示している
「んん?何だ、この塊は。──成る程、豪が深いな、凍夜よ。息子に渡していい代物ではないだろう」
何かを言っている
何を言っている?
「何の因果か……まぁいい。清き血を持つ純粋なる人の子よ、我が声を聴け」
あ、あ
ああああ、あ……あ?
何、だ
「獄界を統べる偉大な精霊、ジョルト・プリズンの名を持って命ずる。〝心を正せ〟」
ジョルトの声に呼応するように魔力が僕の脳を包み、潰す
「……何なんだ。意味が解らない」
頭の中には先ほどと何も変わらない地獄の景色が鮮明にある
なのに身体が自由に動く
脳が要らない感覚を一時的押し殺している様な、許容しているような
「うむ、そこの女、アカツキと言ったか。気が付いているだろう、早く起きよ。そのようなポーズは我が世界の中では通じぬ」
僕の横、正確に言えば足元に横たわっている女性、アカツキが人形のように立ち上がる
顔が見えてすぐに理解した
酷く濁った目だ
頭では理解できて、許容できているけど心がまだ冷静になれてないんだ
僕も、同じような目をしているんだろう
「ふむ、手違いで地獄を経験させてしまったが、やはり脆いな。まぁいい、我の目的を果たすためだ、近くに来い」
身体が自分の意志とは関係なく動く
そういう能力なんだろう
そういえばここはどこなんだろうか
なんでこんな所に
「ほれ、頭を差し出し、我に貴様らの甘美な過去を見せてろ」
そう言ってごつごつとした赤く異常に発達した掌がつまむように僕らの頭に触れる
魔力を使った時の様な、吸い取られているような感覚が頭にある
「おぉ、今回のも素晴らしいじゃないか。コレの為に奴らに手を貸していると言っても過言ではないな。……くふふ、凍夜は何も変わっていないと見た。愚かなままだ、そのような
手段以外にも貴様になら出来ただろうに、愉快愉快」
「……僕の父さんの話ですか?」
ジョルトの言っていた凍夜と言う名前は僕の父さんの名前だ
唯我凍夜、もう聞くことは無い名前だと思っていたのだけど……
「ああ、そうだ。奴には借りがあるのでな、息子の貴様に八つ当たりをするのも悪くはない」
「八つ当たり……僕は殺されるんですか?」
何度も死んだ記憶があるからだろうか
僕の口からは自然のその言葉が出てきていた
でも違ったのだろう、ニヤっと口元を歪めている
「愚かだな、殺すなど興のない事はせん。我は貴様の過去を見た所そうだろうと思っていたが……貴様の目を見ればわかるのだ」
「……何がですか?」
いまいち的を得ない
何が言いたいのだろうか
眉を顰める僕に、ジョルトは鼻で笑う
「愚かもここまで行けば面白いものだな。貴様はまだ気づいていないのか?」
「……?」
気づいていない?
何にだろうか
心当たりを探すように思考を巡らさていると、ジョルトが口を開く
さも当たり前のように、僕の心を壊す一言を放つ
「貴様に母親などいない」
なにを、言っているんだこの人は
だって僕の記憶の中にはずっと母さんが……
かあ……さんが
思い出す母との記憶
その全てに靄がかかり、見えない
最近感じていた違和感の正体が顔を出し始める
「愚かな貴様にヒントと言うモノをくれてやろう
──貴様の記憶の中にいる母親との存在しない思い出、それは貴様の弱った心が作り出した幻だ」
言葉が僕の鼓膜を打つ
どんどんと現実が見えて来る
母さんとの記憶から靄が晴れていく
それは、その記憶達は、母さんが存在せずとも成り立つ記憶
紛い物の、独りよがりな僕だけの記憶
頭の中が整理されていくのが解る
アルドルフの発言の真意が今わかった
僕に母親なんていなかったのだ
だから彼は僕の母さんのおかげと言う言葉に違和感を覚えていたのだろう
頭の靄が晴れ、心が曇っていく
仮初の嘘の記憶が、正しい記憶に変わっていく
僕の生活の中にあった何もかもが
母さんが死んだ事で父さんがおかしくなったんじゃない
あの時確かに誰かが来ていた
その時のに龍二の言っていた内容の事が起きたのだろう
僕が死んだときのナイフ
あれは遺産でも何でもない父さんの宝物だ
「それにしても凍夜も愚かな事をしたものだ、こちらに来るための魔道具を息子が使うように仕向けおって……我が復習する相手がおらんくなってしまったではないか」
魔道具……?
あのナイフが?
その時、急に溢れ出してきた靄がかかった後の父さんとの記憶
心底苦しそうな顔で、優しく僕の顔を殴り、少しばかりの痣を見て涙を流して謝っていた
僕の記憶が間違っていたのか?
あの苦しかった記憶はまやかしだったのか?
あの腐った記憶の方が、僕には都合が良かったとでもいうのか……
「嘘だ」
「嘘だ嘘だ嘘だ」
あの記憶が僕の作った幻なのなら
僕は、最後まで僕のことを想ってくれていた父さんを意味もなく拒絶して、悪者にしていただけじゃないか
僕は──────何がしたかったんだ
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ────」
頭を抱え、何度も床に頭を打ち付ける
心の支えだと思っていたものが無く、僕にとっての唯一の肉親を勝手に悪者に仕立て上げ、挙句の果てには裏切って死んだ
その事実だけで気がおかしくなりそうだ
いっそ狂ってしまえば楽になるのではないか
いっそ全てを忘れてしまえば楽になるのではないか
「はっはっはっは!! いいぞ!! それでこそ我の溜飲が下がるというものだ!! もっと見せろ!!! 愚かな自分に対する憤怒を見せろ!!!」
楽しそうに腹を抱えて、涙を流しながらマサミチの狂気を見ているジョルト
感情を失ったように虚ろな目で立ち尽くすアカツキ
名前のない感情の逃げ場を探し、額から血が出て、骨がむき出しになってもなお頭を床に打ち続けるマサミチ
混沌とした場所の名前
この場所の名前は獄界
一精霊が支配する世界の果てにある地獄
今、その場所に世界最強が降り立つ




