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異世界恋愛短編集

それでも私は王太子妃にはなりません

作者: 百鬼清風

 金糸で刺繍された深紅のドレスが、月光に照らされて揺れる。舞踏会の中央で踊るのは、王太子アルセリオと、その婚約者である公爵令嬢セリーヌだった。絢爛豪華な宮廷の社交場において、彼らは誰よりも華やかな存在として注目を浴びている。


 その光景を、わたしは会場の隅で見つめていた。


 わたしの名はリュシア・エステル。代々続く名門、エステル侯爵家の次女である。


 ……だったのは、ほんの一年前までのこと。


 父が政争に巻き込まれ、爵位を剥奪されてからというもの、わたしの立場は見るも無惨に転落した。現在は、王宮の文官として仕える身。役職こそ名ばかりだが、祖母の縁でなんとか王宮に残してもらっているにすぎない。


 そんなわたしにとって、今日の舞踏会は屈辱だった。


 王太子主催の舞踏会に「文官代表として」出席するよう命じられたからだ。招待ではなく、命令。もちろん断れるはずもない。王太子の婚約者であるセリーヌとは、かつての学友だった。美しく、優雅で、非の打ち所のない令嬢。けれど彼女がわたしを見つけると、慈悲深げな笑みでこちらを見下ろしてくる。


 その笑みに、胸がざわめく。


 おそらく彼女に悪意はない。むしろ、これが彼女なりの優しさなのだろう。けれど、かつて対等な立場にあった者に、哀れみの視線を向けられるのは、思いのほか心にくるものだった。


「リュシアさん。今夜もお美しいですね」


 不意に、穏やかな声が聞こえてきた。振り返ると、王宮付きの薬師、レオン・クロイツが立っていた。


「おからかいですか?」


「まさか。誰もが同じ感想を抱いていると思いますよ」


 レオンは微笑みながら言う。彼は無口で知られているが、わたしにだけはよく話しかけてくる。理由はわからない。けれど、その距離感が今のわたしには心地よかった。


「お暇ですか?」


「少しだけ。今夜は王太子殿下の御前会議があるので、早々に引き上げるつもりです」


 そんな話をしていると、背後から視線を感じた。王太子アルセリオが、こちらを見ていた。涼しげな灰銀の瞳が、じっとわたしを射抜くように。


 ……まただ。


 王太子は、よくわたしを見ている。何のつもりなのかはわからない。以前、文官として報告書を提出した折、妙に長い時間をかけて話しかけられたことがある。その時から、彼の視線を感じるようになった。


 わたしは舞踏会の片隅で、そうして静かに過ごしていた。けれど、その静寂は突如として破られた。


「エステル嬢、少しいいか?」


 そう声をかけてきたのは、他でもない王太子殿下だった。


「……はい」


 周囲がざわつく。元侯爵家の娘であるとはいえ、いまやただの文官。それを王太子が呼び出すなど、誰もが耳を疑ったに違いない。


 連れていかれたのは、舞踏会場から少し離れた小さな応接室だった。扉が閉じられ、二人きりになる。


「どうしてお前は、あの場で笑っていた?」


 王太子の問いは、意外だった。いや、それ以上に――不躾だ。


「……わたしは、任務として参加しておりましたので、礼儀として」


「本当にそれだけか?」


 わたしは答えられなかった。正直、わたし自身にもよく分からないのだ。ただ、その場に居合わせることが苦しくて、笑うしかなかったのかもしれない。


「お前は、セリーヌのことをどう思っている?」


「……素晴らしいお方だと思います。才色兼備で、礼儀も正しく、王太子妃として申し分のない女性です」


「建前はいい。正直なところを聞いている」


 王太子は真っ直ぐにわたしを見つめてくる。拒めない眼差しに、息が詰まりそうになる。


「……かつて、わたしと同じ夢を語り合っていた友人です。でも今は、別の世界にいる人。羨ましいと思うことはありますが、妬ましくは思っていません」


「ふむ」


 王太子は一歩だけ、わたしに近づいた。


「では、もし今、お前に“王太子妃”の座が与えられるとしたら、どうする?」


 この問いに、わたしは即答できた。


「お断りいたします」


「なぜだ?」


「あなた様の傍には、わたしではなく、セリーヌ様が相応しいからです」


 静かな沈黙が、応接室に流れる。わたしは視線をそらさず、王太子の瞳を見据えた。


「……面白い女だな」


 彼はふっと笑った。そして、それ以上は何も言わず、部屋を出ていった。


 その背中を見送りながら、わたしは胸に手を当てた。


 この違和感は、なんだろう。


 王太子殿下のあの視線。あの問い。まるでわたしを、試しているような……。


 

 翌朝、王城の書庫には、まだ陽が差しきらないうちから人影があった。机の上には分厚い史料が積まれ、リュシアは眉をひそめながら筆を走らせていた。


 昨夜の舞踏会のことが、どうしても頭から離れない。


 王太子殿下のあの問い――“王太子妃になれと言われたらどうするか”。あれは、冗談でも、戯れでもない気がした。言葉に含まれていたのは、好奇心とも、探るような意思とも違う、もっと違和感のある何かだった。


 でも、それが何なのかは、分からなかった。


「リュシア、昨夜の舞踏会、大変だったでしょう?」


 背後から声をかけてきたのは、文官仲間のマリーだった。侯爵家の分家の出でありながら、身分を鼻にかけず、下級文官たちにも分け隔てなく接する優秀な女性だった。


「マリー……聞いてたのね」


「聞こえないわけがないでしょう。あの場にいた貴族たちの噂になっていたわ。王太子が“没落貴族の娘”を別室に呼び出したって」


 その言い回しに、リュシアは肩を竦めた。


「まあ、わたしもそう思われてるのよね」


「でも、あなたを呼び出す意味って何だったの? 何か言われた?」


「……特に重要なことは。少し、立ち話をしただけよ」


 まさか「王太子妃になるつもりはあるか」なんて聞かれたとは言えない。話してしまえば、ただの愚かな妄言として広まってしまいそうで、口にはできなかった。


「まあ、妙な話なら、レオンさんに相談したら?」


「レオンに?」


「あの人、あなたのこと、放っておかないじゃない。薬師としても優秀だし、何か知ってるかもしれないわよ」


 マリーは軽く笑って去っていったが、その言葉がリュシアの胸に残った。


 レオン――彼は無口で、無愛想な印象を持たれていたが、真面目で誠実な人だった。わたしが文官として王宮に残ることができたのも、祖母の縁と同時に、彼が推薦してくれたことが一因だったという噂もある。


 今では週に一度、研究室に翻訳資料を届けに行くのが習慣となっていた。


 


 その日の夕刻。


 いつものように書類を抱えて、王宮の薬草園にある研究棟を訪れた。


「お疲れ様です、レオンさん。例の文献ですが、仮訳が終わったので持ってきました」


「ありがとう。……机の上に置いてくれ」


 彼はいつもの調子で答える。が、リュシアはふと視線を感じた。


「……わたしの顔に何かついてます?」


「昨夜のこと、聞いた」


「誰から?」


「まあ、何人かから」


 彼はそう言って、手を止めた。珍しいことだ。レオンは基本的に、話しかけられたことにしか答えない。彼から話題を振ってくることは、ほとんどない。


「殿下は、君に何を言った?」


「……『王太子妃になれと言われたらどうするか』と聞かれました」


「それで?」


「もちろん断りました」


「当然だな」


 短いが、強い口調だった。彼の口から、こんなにはっきりとした言葉が出るのは珍しい。少し意外だった。


「あなたも、そう思いますか?」


「ああ。君は君の道を歩けばいい。君は文官として優秀だし、必要とされている。誰かの妻になるためだけに生きているわけじゃない」


 その言葉に、胸がじんと熱くなった。


 今のわたしは、侯爵家の娘でもなければ、社交界の華でもない。ただの文官だ。けれど、こうして仕事に誇りを持ち、自分の足で立つことができている。


 それを、しっかりと見てくれている人がいる。


「……ありがとう、レオンさん」


「気にするな。君が困ったときは、いつでも力になる」


 短く、それだけ言って、彼はまた資料に目を戻した。


 それでも、その言葉が心の支えになる。


 王太子の視線や言葉に振り回されることなく、わたしはわたしの道を行こう――そう、改めて心に決めた。


 


 だがその翌日。


 王宮に一つの通達が届いた。


 ――「新たに王太子直属の政策室が設立され、エステル・リュシアが補佐官として任命される」。


 王命により、拒否権はなし。


 静かに暮らすはずだった日々は、また波に飲まれ始めていた。


 

 王太子直属政策室の設立から三日後。


 リュシアは重たい書類の束を抱えて、王太子の執務室へと向かっていた。補佐官の辞令が正式に下ってからというもの、逃げ出す隙など与えられず、日々多忙を極めていた。


 政策室と名がついてはいるものの、実態は王太子の個人プロジェクトといって差し支えない。各部門から選ばれた精鋭たちが集められてはいるが、その全員が王太子に絶対的な忠誠を誓う者ばかりであり、彼の意向がそのまま命令として通達される。


 そんな中で、リュシアは“唯一の例外”として配置された。


 最初にこの異動を聞いたとき、彼女は上司に食い下がった。


「わたしには、他の文官と同じように公平な評価のもとで任命されただけではないのですか?」


「それもある。しかし……殿下のご指名だ」


 逃げ場のない言葉だった。拒めば逆らったことになる。補佐官の任務を全うすれば、今度は王太子妃の椅子を押しつけられるかもしれない――そんな懸念が、日ごとに強まっていく。


 


「入る」


 王太子の声が扉越しに聞こえ、執務室の扉が開かれた。白を基調とした優雅な室内の奥に、アルセリオの姿があった。


「資料の提出に参りました」


「ご苦労だった。そこに置いてくれ」


 リュシアは机の端に書類を置き、一礼する。


「今朝の報告書、目を通してもらえたか?」


「はい。文官部門からの回答は明朝には揃う予定です。特別税案に関しては、すでに貴族院との調整が進んでおります」


「そうか。思ったより早いな」


「それは殿下のご威光のおかげです」


 無難な答えを返すと、アルセリオは微かに口元をほころばせた。


「お前のような歯切れの悪い物言い、嫌いじゃない。だが、たまには本心で話してくれてもいいのだぞ」


「本心で語って問題になるような場面が、今のわたしには多すぎます」


「つまり、私が信用ならぬと?」


「違います。ただ、殿下とわたしでは……立場が違いますので」


「ふむ」


 アルセリオは椅子から立ち上がると、机の向こうから歩み寄ってきた。目の前に立つと、彼は手を背に組んだまま、じっとリュシアを見下ろす。


「私は、お前が嫌いではない。むしろ興味がある」


「……畏れながら、殿下。それは補佐官にかけるお言葉としては不適切かと」


「そうか?」


「はい。わたしは公務に徹するつもりでここにおります」


「ならば聞こう。なぜ、お前はここまで距離を保とうとするのだ?」


「それは……」


 言葉が詰まった。けれど、正直な答えを言ってもよいのなら。


「――殿下が、わたしの気持ちを尊重してくださらない気がするからです」


 アルセリオの表情が一瞬止まった。


 そのまま、彼はふっと息をつき、机へと戻っていく。


「……そうか。ならば、誤解を解く必要があるな」


「え?」


「お前は、誤解している。私は、お前に強制などしたつもりはない」


「ですが、わたしの異動は殿下のご指名で――」


「私は、優秀な人材が欲しかった。それだけだ。だが、個人的な感情が混ざっていたことも否定はしない。私にとって、お前は目障りではない存在だったからな」


 率直な言葉に、思わずまばたきする。


「……目障りではない、とは、珍しい褒め言葉ですね」


「そうだろう。私は正直なのだ」


 どこか苦笑めいた調子でアルセリオは言った。


「私は、貴族たちの建前と策略にはもううんざりしている。お前のように、理屈と誠意を持って接してくれる存在が、今の私には必要だ」


「それが、わたしである必要は……」


「必要だ。お前は誰に媚びもせず、己の立場をわきまえた上で自分の言葉を持っている」


 リュシアはそれ以上何も言えなかった。


 彼の瞳が、まっすぐに自分を見ていたからだ。


「――ただし、安心しろ。お前に無理強いはしない。補佐官として働く限り、王妃の座など口には出さん」


「……ありがとうございます」


 心からそう思った。


 この人は、恐ろしいほどに誠実だ。だが同時に、それは時に、逃げ場を失わせる誠実さでもある。


 


 執務室を出たあと、リュシアは深く息を吐いた。


 あれほど距離を置きたかった相手と、まるで心が近づいたような錯覚をしている自分が、怖かった。


「……そんな顔してると、疲れて見えるぞ」


「レオンさん?」


 いつの間にか廊下の柱の影に、レオンの姿があった。


「殿下と、話してたんだろ?」


「ええ……」


「顔色が良くない。今夜、飯でもどうだ?」


「そんな、悪いですよ」


「薬師が健康管理を申し出てるんだ。断るのは推奨しない」


 冗談めいた口調に、思わず笑ってしまった。


「じゃあ、お願いしようかしら」


 今夜だけは、ほんの少し、自分の気持ちを緩めてもいいかもしれない。


 

 リュシアが王太子直属政策室での仕事を始めてから、一週間が経った。


 最初はただの補佐官として振る舞おうと努めていたが、王太子アルセリオの依頼内容は、想像以上に厄介なものだった。政策に関する報告書の整理から、各貴族家との調整案の草案作成、時には外部との非公式なやり取りまで任される。


 いっそ、王太子妃のほうが仕事は楽なのでは――そんな皮肉が脳裏をよぎるほどに、激務だった。


 けれど、その忙しさの中にも、充実した感覚があった。


 久しく感じていなかった、誰かの役に立っているという実感。そして、アルセリオが見せる言葉の端々にある、信頼の色。


「これは、お前にしか頼めない」


「お前の判断なら、間違いはないだろう」


 その言葉が、責任としての重みを伴いながら、リュシアの心に沁みていく。


 そしてそれが、少しずつ、彼の本心を知りたいと思わせる。


 


 ある晩、仕事の区切りがついた頃。


 執務室の窓際に立っていたアルセリオが、空を見上げながらぽつりと呟いた。


「――明日は、セリーヌとの婚約披露晩餐会だ」


 その名を聞いて、リュシアは無意識に筆を止めていた。


「殿下とセリーヌ様が正式にお披露目を迎える……」


「そうだ。だが、私の心は晴れない」


「……それは、なぜでしょうか」


「私は、結婚相手を選ぶ権利がない。建前と政治の均衡に押し潰され、誰かを選ぶふりをしているに過ぎない」


 王族に生まれた者の宿命だろう。


 けれど、今のアルセリオは、ただの王子ではなかった。リュシアが知る限り、彼は国の未来に本気で向き合おうとしていた。


「わたしは……」


 言いかけて、言葉を止める。


 自分が何を言おうとしているのか、はっきりと分かってしまったから。


 わたしは彼の苦悩を、慰めようとしていた。


 王太子としての彼を支えるのではなく、一人の人間として、彼に寄り添おうとしている。


 それは、決して補佐官としてあるべき態度ではない。


 


 翌日の夜。


 王宮では、セリーヌとの婚約披露晩餐会が開かれていた。招待状は、政策室の主要職員にも届いていたが、リュシアは断りを入れていた。


 それが彼女なりの一線だった。


 アルセリオの隣に立つセリーヌを、客席から眺めることができるほど、心に余裕はない。


 


「……断ったのか?」


 夕刻、研究棟に立ち寄ったレオンが、唐突に言った。


「ええ。行く理由が見つかりませんでした」


「珍しいな。君がそんなふうに、距離を取るとは」


「だって、わたしは補佐官です。ただの、ね」


 レオンはしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。


「……気づいていないかもしれないが、君は誰よりも誇り高い。自分の信念で線を引き、その中でしか動こうとしない」


「それは悪いこと?」


「いいや。むしろ、君の強さだ。けれど、時にそれが、君自身を苦しめることもある」


 それは、誰よりもリュシアを見てきた彼だからこそ、言える言葉だった。


「レオンさんは、わたしに何を期待しているの?」


「君が誰かに縛られず、自分の心で未来を選ぶこと。それだけだ」


 自分の心で――


 


 晩餐会の終盤、招かれざる人物が政策室を訪れた。


「ごきげんよう。エステル嬢」


 艶やかなドレスに身を包んだセリーヌ・アグライアが、微笑みながら現れた。


「……セリーヌ様。なぜこちらへ?」


「アルセリオ様が席を外されたと聞きましたので。ちょっと、気になることがあって」


 その声音に、どこか氷のような冷たさがある。


「貴女が殿下に気に入られていることは、もう誰もが知っています」


「それは誤解です。わたしはただの補佐官です」


「では、なぜ舞踏会に現れなかったのかしら? なぜ、殿下の傍を離れようとしているの?」


 セリーヌの笑みが、わずかに歪んだ。


「エステル嬢。貴女のような人が、王太子の傍に居続けることが、わたくしには不快なのです」


「……それは、脅しですか?」


「いえ、忠告ですわ。政治というのは、感情で動いてはいけません。貴女は、殿下の心を惑わせている。それが分かっていても、なお傍にいようとするなら――貴女自身を傷つけることになる」


 静かな口調だったが、その裏にある剣のような意志を、リュシアははっきりと感じた。


 


 セリーヌが去った後。


 政策室に残されたリュシアは、書類の上に手を置き、ゆっくりと目を閉じた。


 王太子の隣にいることは、わたしにとって危うい。だけど、彼を見ていたいという気持ちは、確かにある。


 このままでは、自分の心が壊れてしまう。


 


 その夜、リュシアは決意した。


 補佐官の職を辞することを。


 

 薄曇りの空の下、王宮の文官棟は静まり返っていた。早朝にも関わらず、リュシアは一人、政策室の机に向かっていた。


 補佐官辞任の書状を、目の前に置いたまま。


 昨夜、セリーヌが政策室に現れてから、リュシアの決意は揺るがなかった。あの場で感じたのは、単なる嫉妬でも見栄でもない、貴族社会の現実だった。


 政治の場において、情は毒である。


 彼女が傍にいることで、王太子の評価が歪められるような事態だけは避けたかった。ましてや、セリーヌはその背後に大公家を持つ政略の中心人物。彼女の不興を買い続ければ、政策室にまで圧力が及ぶ可能性がある。


 ――これ以上、迷惑はかけられない。


 それがリュシアの答えだった。


 


 しばらくして、政策室の扉が開いた。


「おはよう、リュシア」


 入ってきたのはアルセリオだった。普段と変わらぬ穏やかな口調に、逆に胸が痛くなる。


「おはようございます、殿下」


「昨夜は来なかったな。やはり気を遣ったのか?」


「いえ。ただの体調不良です」


「そうか」


 アルセリオは彼女の嘘に気づいていたはずだった。けれど、何も言わず、机に近づいてくる。


 そのとき、彼の視線が机の上の書状に留まった。


 そして、わずかに目を細める。


「これは……?」


「補佐官の任を、辞させていただきたく、書かせていただきました」


 リュシアは、立ち上がって頭を下げた。


「突然のことで申し訳ありません。しかし、これ以上、殿下の足を引っ張ることはできません」


「誰がそんなことを言った?」


「誰が、というよりも、すでに見えていることです。殿下のそばにいるべきは、政治的にも適した人物であって、私ではありません」


 アルセリオは、しばし言葉を失ったように黙っていた。


「私のそばに立つ者を、誰が決める?」


「……それは、殿下ご自身です」


「ならば、私はお前を選んだ。その決定を否定するのか?」


「殿下のお気持ちはありがたいものです。でも、それは私情です。王太子としての殿下に、私は相応しくありません」


「……そうか」


 低く呟くような声だった。彼は拳を机の上に置き、少しだけ目を伏せた。


「ならば、少しだけ、私のわがままを聞いてくれ」


「……はい」


「辞任届は、今日中には受理しない。明日、もう一度だけ話をしよう。それで決意が変わらなければ、認めよう」


「それは……」


「一日だけだ。それでも駄目か?」


 その言葉に、リュシアは返せなかった。


「……わかりました。では、明日改めて、お話しさせていただきます」


「ありがとう」


 彼がそう言った時、その声は、どこかひどく疲れているように聞こえた。


 


 その日の午後、リュシアは研究棟に立ち寄った。薬師として勤めるレオンに会うためだった。


「やっぱり来たか」


 彼女の顔を見た瞬間、レオンはそう言った。


「噂になってる。補佐官辞任だろ?」


「……やっぱり、もう広まってるんですね」


「政務官の間じゃもう確定事項扱いだ」


 レオンはいつものように薬草を手入れしながら、彼女を一瞥した。


「君はいつもそうだ。自分を削ってでも、他人のために選ぶ」


「それが、わたしのできることだから」


「そうか。でも、少しは自分の気持ちを優先してもいいと思うけどな」


 リュシアは苦笑を浮かべた。


「そういうこと、得意じゃないのよ」


「知ってる」


 短くそう言って、レオンは手を止めた。


「アルセリオ殿下は、誠実な人だ。だが、君の気持ちを正しく見抜くには、まだ未熟だ。……それでも、きっと君を手放したくはないと思ってる」


「そんなこと、あるはずが……」


「あるさ」


 レオンははっきりと言った。


「でもな、彼がどう動くかは分からない。だから、最後に君の目で見て、耳で聞いて、それで決めろ」


 その言葉に、リュシアははっとする。


 ――わたしは、話し合いを避けようとしていた。


 心の痛みから逃れるように、ただ自分で終わらせようとしていた。


 それでは、何も変わらない。


「ありがとう、レオンさん」


 彼は何も言わなかったが、代わりにほんの少しだけ、微笑んだ気がした。


 


 翌朝。


 リュシアは再び、王太子の執務室を訪れた。


 扉の前で深く息を吸い、覚悟を決める。


 今度こそ、自分の言葉で、最後まで話をするために。



 扉をノックすると、すぐに「入れ」と声がした。


 王太子アルセリオの執務室に入るのは、これが最後になるかもしれない――そんな思いを胸に抱えながら、リュシアは静かに足を踏み入れた。


「……来てくれたんだな」


「はい。お約束でしたから」


 アルセリオは執務机の前に立ったまま、いつもより少し疲れたような顔をしていた。


「昨日、君の辞表を読んだ。書かれていた理由はもっともだ。確かに、君がここにいることで、風当たりが強くなることもあるだろう」


「ええ。だから私は――」


「だが、それが君の選ぶべき未来とは思えない」


 言葉が重なった。リュシアは口を閉じ、彼の言葉を待った。


「私は、君をここに引き留めたい。君の能力を、意志を、考えを、必要としている。政治的な駆け引きのためではなく、一人の人間として」


「……それは、とても光栄な言葉です」


「本音だ」


 アルセリオの目は、揺らがない。どれほどの思いでこの言葉を選んだのだろうと、考えずにはいられなかった。


 だけど、リュシアの中には、まだひとつの疑念が残っていた。


「――殿下、ひとつだけ、聞いてもいいですか」


「何でも」


「なぜ、私だったのですか?」


 その問いに、アルセリオはしばし黙った。そして、窓の外へと視線を投げたまま、答える。


「最初は、ただの興味だった。君が他の誰とも違っていたからだ。身分を失っても自分を保ち、媚びもせず、嘆きもせず、ただ静かに自分の役目を果たしていた。その姿を、どうしても目で追ってしまった」


「……それだけ、ですか?」


「そう思っていた。だが、政策室で共に働くうちに気づいた。私は君と話す時間が楽しかった。君が笑えば嬉しくなり、君が傷ついていると知れば胸が痛んだ」


 アルセリオは、ようやくリュシアの方に向き直った。


「私は、君に惹かれていた。いや、今も惹かれている。……けれどそれを、君に押し付けるつもりはない。だから、補佐官としてでも、友人としてでも、君が傍にいてくれるだけでいい」


 言葉の一つひとつが、心に染み入るようだった。


 リュシアは胸に溜めていた息をゆっくりと吐き出した。


「――それでも、私は辞任を申し出ます」


「そうか」


 アルセリオの声は、どこまでも穏やかだった。


「ただし、一つだけ条件があります」


「条件?」


「今後、補佐官としてでなくても、私が“相談したい”と思ったときに、時間をもらえますか?」


「……それは」


「君に助けを乞う立場として、誇りを持って頭を下げる。だから、君にも誇りを持って、断ってほしい。……それで十分だ」


 それは、どこまでも誠実な申し出だった。


 強要でも、懇願でもない。ただ、必要としているという事実だけを差し出してくる姿勢に、リュシアは胸を打たれた。


「……わかりました。その条件であれば、受け入れます」


「ありがとう。では、今日が補佐官としての最後の一日か」


「はい。残務処理は、午後にはすべて終わらせます」


「名残惜しいな」


「殿下、未練を口にするには早すぎますよ」


「そうかもしれない」


 少し笑って、アルセリオは手を差し出した。リュシアはその手を一瞬見つめたあと、躊躇いがちに握った。


「君に会えて、本当に良かった」


「私もです」


 手の温もりが、胸の奥に残る。


 これで良かったのだと、リュシアは自分に言い聞かせた。


 彼に対する気持ちは、完全に断ち切れたわけではない。だが、それを恋にしてはいけないと、心が告げていた。


 


 その日の夕刻、政策室の席を片付け終えたリュシアは、誰にも告げずに王宮をあとにした。


 この国に留まるつもりはあったが、しばらくは民間の学術院で翻訳の仕事を請けるつもりだった。もともと好きだった言語の研究を、今一度、本気でやってみようと決めていた。


 


 帰路、城下の書店街を歩いていたとき、懐かしい声が響いた。


「リュシアじゃないか」


 振り返ると、レオンがいた。


「……どうしてここに?」


「学術院に薬草の寄付に来た帰りだ」


 手には小さな包みを提げていた。


「今日は、辞任の日だろう?」


「そうですね。終わりましたよ」


「じゃあ、一区切りだな。夕飯、付き合えよ」


「またですか?」


「祝いだよ。新しい出発ってやつだ」


 そう言って歩き出したレオンの背を見つめながら、リュシアは微笑んだ。


 アルセリオと出会って、学んだことは多い。そして、別れを選んだからこそ、自分の意志で未来を選べるのだと知った。


 恋ではなく、誇りを選んだ。


 だけど、誇りを持って歩んだその先に、もし誰かと心を通わせる日が来るなら――


 それは、きっと、本当の幸せだ。



 民間の学術院に身を移してから一ヶ月が経った。


 リュシアは城下町の静かな一角、旧文官宿舎を改装した小さな寮に暮らしながら、翻訳と論文整理の仕事に没頭していた。王宮時代の喧騒が嘘のような日々。朝はゆっくりと紅茶を淹れ、日中は学術院の書庫にこもり、夜は静かにペンを走らせる。


 誰に見られるわけでも、誰かの期待に応えるためでもなく、自分のためだけに時間を使う日々。かつて夢見た“知の世界”の中心に、ようやく自分の身を置けたような気がしていた。


 だが、完全に忘れることができたわけではなかった。


 あの日、王太子アルセリオが差し出した手の温もりも、彼のまっすぐなまなざしも、時折ふとした瞬間に胸をよぎる。


「……未練じゃない。ただの記憶」


 小さく呟いた自分の声が、部屋に虚しく響いた。


 


 ある日の昼下がり、学術院の中庭で書簡の翻訳に集中していたところ、ふいに後ろから声をかけられた。


「お忙しそうですね、エステル嬢」


 その声を聞いた瞬間、リュシアの手が止まる。


「……セリーヌ様」


「偶然、学術院を訪ねたところ、お見かけして」


 微笑みながら近づいてきたのは、公爵令嬢セリーヌ・アグライア。以前よりもさらに洗練された装いに身を包み、その立ち姿は王太子妃としての自覚に満ちていた。


「……どうして、こちらに?」


「実は、王宮で進めている教育改革の一環で、各学術機関の視察を任されておりまして」


 視察。表向きの理由だ。


 本来、視察ならば学術院長への表敬訪問から始まるはず。こうしていきなり中庭でリュシアと遭遇するとは考えづらい。


 つまり――探しに来た。


「相変わらず、冷静ですのね。私が来ることを、まるで予測していたように見えるわ」


「何かご用件があるのでは?」


 リュシアが促すと、セリーヌは一歩踏み出し、声を落とす。


「殿下は、いまだに貴女の話をなさるの」


 リュシアの胸がひやりと冷えた。


「新しい補佐官を受け入れず、全ての報告書に“かつての補佐官のような分析が欲しい”と書き添える。どれだけ周囲が促しても、受け入れない。……貴女の辞任以降、殿下は変わってしまわれたのよ」


「……わたしには関係のないことです」


「本当にそうかしら?」


 セリーヌの笑みは揺るがない。その瞳には、王太子の隣に立つ者としての誇りと、同時に一人の女性としての不安が見え隠れしていた。


「わたくしは、殿下に愛されたいの。政治のためでも、家のためでもなく、一人の女性として。でも、貴女の影が、まだそこにある」


「……わたしは、もう補佐官ではありません」


「ええ、そう。だから、お願いに来たの。完全に、殿下の前から消えてほしい」


 言葉に込められた感情は、痛いほどにわかる。


 セリーヌは恐れているのだ。自分が正式に“隣”を手にしたはずなのに、その胸の中にはいまだ別の誰かが住んでいるのではないかという不安を。


 だが――


「わたしがいなくても、殿下の心が変わらないのなら、それは貴女の問題です」


「……あなた、変わったわね」


「ええ。誇りを持って生きるためには、変わらなければならなかった」


 しばらく沈黙が流れた。


 そして、セリーヌはふっと微笑んだ。


「ふさわしい女性にならなければいけないのは、わたくしの方だったのかもしれませんね。……では、失礼いたします」


 背筋を伸ばして去っていくセリーヌの背を見ながら、リュシアは拳を軽く握った。


 彼女は、戦っていたのだ。王族の妻としてではなく、一人の女性としての誇りをかけて。


 


 その夜。


 寮の小さな食堂で遅い夕食を取っていると、受付の少年が息を切らして飛び込んできた。


「エステルさん! 来客です!」


「今は対応できないって伝えてもらえるかしら」


「でも……その、お名前を言ってほしいと。えっと、“アルセリオ”様だって……」


「……!」


 スプーンを持った手が止まった。


 まさか。セリーヌの話では、まだ王宮に――いや、ありえないとは言えない。


「今……ここに?」


「えっと、門のところで馬車を下りて、歩いて来られてます」


 リュシアは立ち上がった。


 心が、ざわめいていた。


 

 夜風が街路の石畳を撫でていた。


 寮の門を抜けて中庭へと歩くその足音は、規則正しくも重みを帯びている。街灯の灯りに照らされた銀髪が月光を反射し、まるで静かな決意を纏っているように見えた。


「……殿下」


 声をかけると、彼は歩みを止めた。


「リュシア」


「お一人で、こんな時間に……」


「君に、話をしに来た。誤解されたまま、終わりたくなかった」


 それだけで、胸が痛くなる。


 あの日、執務室で交わした会話が、形の上では終わりだった。けれど、本当は終わっていなかった。わたしの中でも、きっと彼の中でも。


「今日、セリーヌ様が来られました」


「……そうか。何を言われた?」


「“完全に殿下の前から消えてほしい”と」


 アルセリオの眉がわずかに動いた。


「……彼女は、悪い人間ではない。だが、私が必要としているのは、そちらではなかった」


 静かな声だった。感情を抑え、丁寧に言葉を選ぶ――そうやって、ずっと彼は生きてきたのだ。


「私は、君を失ってから気づいた。王太子としての責務の前に、一人の人間として、誰を傍に置きたいかを選ぶことの意味に」


「……その選択は、殿下の立場を危うくするものです」


「それでもいいと、ようやく思えた。君を手放したくないという気持ちは、王太子としてではなく、アルセリオという一人の人間としてのものだ」


 リュシアは息を飲んだ。


「君が補佐官を辞した日、私は“支えを失った”と思った。だが、本当は支えられていたのではなく、共に歩いていたのだと気づいた」


「……」


「だから今度は、私が君の隣に立ちたい。王太子としてではなく、君の隣人として」


「……それは、求婚ですか?」


「そう受け取っても構わない」


 まっすぐな言葉だった。誤魔化しも、策略も、装飾もない。ただ、想いだけがそこにあった。


「けれど、わたしはもう、誰かの妻になることを前提に生きるつもりはありません」


「わかっている。だから、“選んでほしい”とは言わない。“選ばせてほしい”と頼んでいる」


 その言葉に、リュシアの胸が震えた。


「……わたしは、学術院での仕事が楽しいのです。好きな研究に没頭して、誰にも指図されずに、生きていく自由がある」


「素晴らしいことだ。だから私は、そこに割り込む気はない。だが……時折、その隣に座らせてほしい。報告書ではなく、日々のことを語るだけの時間を、君と持てたなら、それでいい」


 そう言って、彼は手を差し出した。


 昔、あの執務室で差し出された手と同じだった。けれど、今の手には“引き止める”意思ではなく、“並んで歩こう”とする願いが込められていた。


 リュシアは、その手を見つめる。


 王太子の立場に甘えることもできた。セリーヌのように、家の後ろ盾を誇ることもできた。けれど、わたしが選びたかったのは――


 誠実に生きる、彼の隣だった。


「……わたしは、今日の答えをすぐには出せません」


「構わない。何年でも待つ」


「それは困ります。わたし、わりと気まぐれですから」


 そう言って笑うと、アルセリオも小さく目を細めた。


 風が通り抜ける。寮の中庭に咲いた小さな花が、揺れた。


「じゃあ、まずはお茶でもいかがですか。今夜は眠れなさそうですし」


「……光栄だ」


 二人は並んで歩き出した。


 肩が触れるか触れないかの距離。かつての主従でも、政略でもない、一人と一人の、静かで確かな関係。


 それが、わたしの選んだ“愛のかたち”だった。


 


 あの日、確かに婚約破棄をした。


 けれど、あれは“終わり”ではなかった。


 自由と誇りを手に入れたわたしが、再び出会い直すための“始まり”だったのだ。


 


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